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鬼束ちひろは発達障害?自伝『月の破片』を読む(2)

引き続き鬼束ちひろの自伝エッセイ『月の破片』の記述の中から、彼女が発達障害ではないかを検証してみる。

ちなみに「発達障害」という語感から、知能の遅れと誤解する方もいるかもしれないが、発達障害の中には知能の遅れがないものもある。鬼束ちひろは英語の成績が良かったことや、英語で作詞をすることからも、知能に全く問題がないことは言うまでもない。
さて、彼女が小さいころから機械モノが苦手だったという部分(p.020)。
発達障害の解説書によれば、発達障害の子供は協調性が求められる団体スポーツだけでなく、道具をつかうスポーツ、球技やなわ跳びも不得意で、一人きりでする運動ならできることが多いとされている。『月の破片』には、ズバリの記述がある。
「そういえば、走るのは速かったけれども、球技は全然ダメだった」(p.020)
「ストイックなこの競技(注:中学時代の陸上部でやっていた短距離走)は、性に合っていた。何よりも個人競技っていうところが、ぴったりだ」(p.034)
この点も、彼女の発達障害を疑わせる根拠になるだろう。
また、対人関係における協調性のなさ、つまり日本的な学校生活に適応できなかったことについては、彼女のデビュー曲『シャイン』の歌詞にも書かれているが、『月の破片』ではp.032からの「学校」という章で細かく書かれている。その他にも多くの場所でふれられているので、ぜひ原文をお読みいただきたい。
彼女自身は、小学五年生のとき、突然いじめられるようになった原因を、成績が良く、短距離走も速かったことへの嫉妬だとしている。
しかし、僕は個人的に、彼女があまり空気を読まずに、同級生の子たちを見下すような発言をしていたためではないかと、勝手に想像する。もちろん悪意からではなく、発達障害特有の、相手の言外の感情を読みとるのが苦手という特徴のためだ。
p.064から始まる大ヒット曲「月光」についての章では、この曲のヒットで多忙になるにつれて、鬼束ちひろの対人スキルの問題が顕在化し、同時に、当時のマネージャーが彼女の社会適応性のなさを叱責しつづけたことで、二次障害が悪化していく様子がうかがえる。
鬼束ちひろにとって救いなのは、とにかく母親が彼女の状態の変化を、故郷の宮崎県に離れて生活しながらもよく観察していて、無意識のうちに、二次障害が重くならないように彼女をサポートしつづけたことだろう。
そうした母娘の愛情あふれる関係、やや母子癒着的な面もあるが、そうした関係は本書『月の破片』の各所に現れている。鬼束ちひろは本当に母親を愛しているということが、痛いほど分かるのだ。
p.071からは、ついにパニック障害と不眠症の発症の話になる。
パニック障害については、「パニック障害という病気をそのとき初めて知ったけれども、不可解な症状にきちんとした病名のあることが判明して、ほっとした部分もあった」(p.075)と書いている。
ただ、彼女がステージ上で襲われたのが、広場恐怖かどうかは、やや疑わしい。というのは、「私の場合は、過呼吸やめまいといった症状は特になく、お客さんが悪魔に見えるという一点に集中していた」(p.074)とあるからだ。
パニック障害が認知の問題を引き起こすということがあるのだろうか。個人的には、一般的なパニック障害という診断は不適切だったのではないかと思う。
p.078からは活動休止期間中について書かれている。やはりこの期間も陰性症状は出ておらず、陽性症状が目立つ。
「休業中にやっていたことは、主に買い物。洋服だけでなく、いろんなものを買い漁った。音楽活動休止という周りに心配されてもおかしくない状況と、実際の私の心情はかなりかけ離れていた。そう、私はいたって元気いっぱいだった」(p.079)
これはうつ病ではない。いろんなものを買い漁ったくだりについては、衝動性と、買い物という行為自体への依存が疑われる。
彼女はこの自伝『月の破片』で明記しているように、お酒がまったく飲めない。その代わりにコカ・コーラ依存であるのは有名な話だ。
活動休止中は、特に彼女が唯一社会的に評価をうけていた音楽活動から離れたことによる不安を、買い物依存で埋め合わせていたと考えられないだろうか。
この休止期間中に、娘を心配して上京した家族に「暴れん坊」的な八つ当たりばかりしていたことも、正直に書かれている。
「どうにもならない自分にやきもきして、東京にわざわざ出てきて私の世話をしてくれている母親に八つ当たりばかりした。私も泣いていたし、母もよく泣いた」(p.081)
「面倒を見るために上京してくれていた母に対する八つ当たりも、エスカレートする一方。珍しく一緒に上京していた父が、荒みきった娘を見かねてついにぶち切れた。
『お前がちゃんと立ち直らんと、いかんだろ!』
そう言って私の頭を手で押さえ、床にそのまま叩き付けた。耳を激しく打って、怒りのあまり体が震えた。よりによって、一番大事にしている耳を狙うなんて。いくらお父さんでも許せない!」(p.011)
このあとの鬼束ちひろのとった行動が、不思議と笑えるのだが、それはいいとして、活動休止中、おそらく鬼束ちひろは身の回りのことを自分でこなすこともできず、母親に頼り切りだったらしいことが分かる。
他の場所で、彼女は料理を一切しない書いているが(p.85)、音楽活動を休止して、社会的評価を受けられなかったこの期間、身の回りのことができないという発達障害の特徴が、もろに出ていて、彼女の父親まで激昂させたのではないか。
以上のような点からも、鬼束ちひろが知能に異常のない発達障害である疑いが濃厚という気がする。
発達障害を疑わせる記述はまだ出てくるので、引き続き自伝エッセイ『月の破片』を読みつつ、検証してみたい。
(つづく)

鬼束ちひろ『剣と楓』レビュー(4)作詞態度そのものの変化

鬼束ちひろ『剣と楓』について、わかったような気分になれるレビューを、数回に分けて書いてみるシリーズ。

今回も引き続き歌詞について。
3曲目の『EVER AFTER』と9曲目の『CANDY GIRL』については、レビューすべきではないだろう。自伝エッセイ『月の破片』の中で鬼束ちひろが書いているように、この2曲は某アイドルグループを念頭に書かれた曲だからだ。
それはこの2曲とも、一人称が「僕」「僕ら」になっていることからも分かる。『CANDY GIRL』は完全に男の子目線で女性(CANDY GIRL)を見つめる歌詞だ。
以前の曲でいえば『Sign』にあたる。鬼束ちひろは第三者の立場で俯瞰し、他人のための脚本を書くように書いた歌詞ということだ。『Sign』もやはり明らかに男の子目線で女性に対して書いた歌詞だった。
『Sign』との違いをあえて書くとすれば、『Sign』がシングルだけの発売だったのに対して、同じタイプの曲が2曲もアルバムに収録されたことだろう。
彼女曰く「降りてくる」としか表現しようのないソングライティングにおいて、自分の書く歌詞や曲に一定の距離をとることができるようになってきた証拠だ。それがファンにとって良いことなのかどうかは別として。
そして『Sign』と、『EVER AFTER』『CANDY GIRL』のもう一つの違いは、脚本の中に描かれた男の子と女性の距離感だ。
『Sign』はよく冗談でストーカーソングと呼ばれるように、主人公の男の子は女性から、少なくとも「星屑を降らせて音を立て」たり、「煌めく夜汽車」を走らせるくらいの距離がある。
それくらい遠大な距離があるのに、「いつだって泣きたくなる程にただ君の事を考えている」ところが、ストーカーソングと呼ばれる理由なのだろう。
僕個人は、意外に鬼束ちひろが上京したときにあきらめた、遠距離恋愛(詳細は『月の破片』を参照のこと)をほのめかしているのではと思うのだが。
そんな『Sign』に対して、『EVER AFTER』は明確に二人でいっしょにこれからの物語を描こうという強い意志に満ち溢れている。アニメのオープニングテーマじゃないかという、恥ずかしいほどのポジティブさだ。
だから誰かこの曲で『交響詩篇エウレカセブン』のMADを作ってくれないかなぁと、個人的に期待しているのだが。
重要なのは鬼束ちひろが、客観的に、確信犯的に、その恥ずかしいほどのポジティブさを演出しているという点。
この歌詞の中では、あらゆる「絆」、あらゆる「答え」、「幸せの定義」、「きれいな言葉」、「広がる世界」といった、抽象性がすべて捨て去られ、二人の関係性が遍在する世界観になっている。
最近のアニメでくり返し主題歌される、いわゆる「セカイ系」だ。世界全体が二人の関係性を支えているのではなく、二人の関係性が世界全体の命運を握っている、そういう極めてヲタク的世界観が、『EVER AFTER』にはあざやかに書かれている。
対して『CANDY GIRL』は大人の女性の魅力に惑わされる男の子といった感じ。5th『DOROTHY』の『STEEL THIS HEART』が女性から男性への誘惑とすれば、この曲は逆方向。二人の関係性だけが存在する世界観は同じで、やはり『EVER AFTER』と同じく、底抜けに明るい。
「その口唇に架かる虹を渡って/辿り着くよ」
なんて、以前の鬼束ちひろにはぜったい書けない歌詞ではないかと思う。
この2曲『EVER AFTER』と『CANDY GIRL』は、鬼束ちひろの歌詞の内容の水準だけでなく、彼女が歌詞を書くときの観点や態度というメタレベルでも、以前と大きく変わっていることを、はっきり示している。
この鬼束ちひろの新しい側面がイヤなのだとすれば、そういう聴き手の独りよがりには同情するしかない。今の鬼束ちひろを嫌い、昔の鬼束ちひろだけを受け入れるファンは、自分の期待を相手に押しつけているだけの、まさにストーカーだ。

鬼束ちひろ『剣と楓』レビュー(3)世界に対する態度変更

鬼束ちひろ『剣と楓』について、わかったような気分になれるレビューを、数回に分けて書いてみるシリーズ。
今回も引き続き歌詞について。

2曲目『夢かも知れない』の歌詞を読むと、今までにない状況描写で始まり、彼女の作詞に大きな変化起こっていることが分かる。
「桜散る路で正気に戻る」
「踏みしめる足で坂道を登る」
「古びたベンチに荷物を置く」
日常的な風景を思い浮かべられるこのような歌詞は、たしかに鬼束ちひろらしくないと言えばそうかもしれない。
典型的には『Castle・Imitation』に見られるような抽象的な単語の羅列が、鬼束ちひろ自身にとっては、もう「若気の至り」になっているということだろう。
「有害な正しさをその顔に塗るつもりなら私にも映らずに済む/
 燃え盛る祈りの家に残されたあの憂鬱を助けたりせずに済む」
(『Castle・Imitation』の冒頭)
30歳のシンガーソングライターがこんな青臭い歌詞を書いていたら、それこそ「痛い」ということになる。
自伝エッセイ『月の破片』では、鬼束ちひろ自身はいつまでもガキのままでいると、成熟を拒否している。しかし、1stアルバムから3rdアルバムまでの、事務所がつくり上げたニセのイメージまで、いつまでも引きずるつもりはない、ということだ。
ただし「夢かも知れない」の歌詞には、変わらず鬼束ちひろらしい諦めや絶望は、しっかりと残っている。
「私は崩れよう/世界がこうして窮屈なら/叶うはずもない」
「私は堕ちよう/世界がうまく回らないなら/叶うはずもない」
しいて言えば、『月光』の有名な歌詞で、私は腐敗した世界に「墜とされた」神の子だったのに対して、今の鬼束ちひろの書く歌詞は、自ら崩れること、堕ちることを選んでいる。
世界が自分の意のままにならない諦めや絶望はそのままだが、そういう世界に私は「堕とされた」のか、「私は堕ちよう」なのかは、大きな違いがある。
言ってみればその主体的選択のような意思は、この『夢かも知れない』の歌詞の中で唯一英語の部分に、はっきりと宣言されている。
「If you are a dream/
I’ll choose a dream」
「もしあなたが夢ならば、私は夢を選ぼう」という覚悟。もちろんこれは単なる恋愛にとどまらず、自分の意のままにならない腐敗した世界全体に対する、大きな態度の変化ととるべきだろう。
つまり1曲目の『青い鳥』が、音に導かれた終のない音楽の探求の始まりを告げているが、その探求において、鬼束ちひろが世界に立ち向かうときの態度を、より主体的なものに変えつつある。
それが『夢かも知れない』の歌詞から読みとれる、鬼束ちひろの表現の上での大きな変化である。
(つづく)

鬼束ちひろは発達障害?自伝『月の破片』を読む(1)

今回は、鬼束ちひろは「うつ病」ではなくて「発達障害」ではないか、というお話。
「発達障害」の定義については専門家の本をお読みいただきたい。
なお、アマゾンで検索すると星野仁彦医師(自身が発達障害)の著書がいくつか上位に出てくるが、専門家の間での評判は低いようだ。おすすめは以下のとおり。
大人の発達障害―アスペルガー症候群、AD/HD、自閉症が楽になる本
大人の生活完全ガイド―アスペルガー症候群
先日、鬼束ちひろからファンレターの返事が来たことを書いたが、Twitter(ツイッター)でたくさん紹介して頂いたようだ。
こんなネタを通してでも、彼女にふたたび関心をもってもらったことに感謝したいところだが、ツイートの多くは、彼女の最近のファッションの激変とあわせて、鬼束ちひろを「気狂い」あつかいする内容で、不愉快だった。
他人をかんたんに「気狂い」あつかいする方が良識を欠いている。なので、ここであえて「鬼束ちひろ発達障害説」をとなえてみたい。
僕は『BARFOUT!』2007年11月号にある自殺未遂を告白した彼女のインタビューを読んだとき、3rdアルバム『SUGAR HIGH』から4thアルバム『LAS VEGAS』までの間、活動休止していた理由は「うつ病」だろうと思った。それで以前、下記のような記事も書いた。
「鬼束ちひろミクシィオフ会参加と彼女の病気(うつ病)について」(2010/03/28)
ただ、今回出版された自伝エッセイ『月の破片』を読んで、うつ病や不眠症は単なる二次障害で、鬼束ちひろは子供の頃から「発達障害」だという仮説を立てたくなった。
もちろん素人の無責任な見立てなので、以下、話半分でお読みいただきたい。専門家の方が偶然このページをきっかけに『月の破片』をお読みになり、彼女に適切なアドバイスいただければ幸いと思い、無責任を承知で書かせていただく。
僕自身、東芝EMI時代の「鬼束ちひろ」の作られたイメージ、つまり、透明感や繊細さ、幸薄い美少女的なものに引きずられ、「うつ病」で活動休止という物語を作っていた。
しかし『月の破片』を読むと、これも彼女と出版社が共同で作った物語には違いないが、正反対に鬼束ちひろが生まれつきの「暴れん坊」だとわかる。
まずこの「暴れん坊」気質が、発達障害の多動のことではないかというのが、一つの大きな仮説だ。

発達障害を思わせる記述を、『月の破片』から順番に拾ってみる。
「鬼束家には暴れん坊の血が流れているから、言ってみれば私は血統書付き」(p.007)
発達障害が部分的に遺伝的な器質因から起こることの傍証か。中盤の家族を紹介する章で、鬼束一家の特徴として、すぐモノを投げるのが鬼束家の家訓だと、冗談まじりで書かれている。
「私に嫌な思いをさせた相手のパソコンを思いっきり蹴ったら、バラバラに壊れていた」(p.009)
この種の衝動的な行動のエピソードは『月の破片』にたくさん出てくる。
今のマネージャーさんの車のジュースホルダーを引きちぎって窓から投げ捨てたり、その車のフロントガラスを素足で蹴破ったり、部屋でひとりでダンスを踊っていたら植木をへし折ってしまったり(いずれもp.010)、「小さい頃、生きた金魚の目玉をパクッと食べた」(p.024)などなど。
彼女は子供の頃、ヒステリックな母親や(p.007)、急須を投げつけるような父親の突発的な怒り(p.188)を恐れ、自分を抑えつけて優等生として振る舞っていた(p.120)。そのため「暴れん坊」の部分が目立たなかっただけのようだ。
「暴れるときは、大抵泣きがくっついてくるのも特徴だ。こないだは『どうして私は幸せじゃないの?』って、泣きながら熊谷さん(注:現在のマネージャー)に当たり散らした」(p.011)
『月の破片』を通して読むと、鬼束ちひろは、音楽の面では自信にあふれ、私生活の面では自己評価がきわめて低いことがわかる。
この自己評価の低さは子供の頃からというより、オーディションに合格して上京してから、つまり、一般人でいう「社会に出てから」のようだ。
デビュー当時のマネージャーに、芸能界で生きていくため、毎日のように一挙手一投足を激しく叱責された結果、ひどいホームシックで泣き暮らしており、自己評価が低くなったと思われる。
発達障害の人が社会に出てから、仕事上の失敗でくり返し叱責をうけ、結果として自己評価が低くなり、うつ病になることがある。
これを発達障害の二次障害というが、鬼束ちひろの私生活の面での自己評価の低さは、社会に出てからの職場環境が原因と思われる。
逆に言えば、上京して社会に出るまでは、それだけ家族に守られていたということだ。
『月の破片』の随所に、家族に対する愛情のこもった言葉が書かれているが、今でも鬼束ちひろは真の自分の理解者は家族だけ、という思いが強いに違いない。
「音楽活動が半休止状態になっていた時期、私は相当荒れ狂っていた」(p.011)
この部分を読むと、活動休止期間中、鬼束ちひろの主な症状が「うつ病」ではなかったことがわかる。
「うつ病」なら逆に活動レベルが低い状態、たとえば一日中ベッドで横になっているなどの陰性症状になるはずだが、逆に本人のいう「暴れん坊」状態が激しく、陽性症状が顕著だ。
ここから双極性障害の疑いも出てくるので、僕は彼女あてのファンレターに、単なる不眠症やパニック障害ではなく、双極性障害の可能性もあるので、別の医者にセカンドオピニオンを求めてはどうかと書いた。
それに対する彼女の答えが、「なきにしも荒川」であればうれしいのだけれど。
「暴れているときの私は、くるくる回り続けて止まらないコマみたいなもの。周りの人がなだめることができないように、自分でもどうにもコントロールできなくなってしまう」(p.012)
自分でも制御できなくなる、このような解離的な衝動性も発達障害の特徴らしい。
「どうして刺青なんかってよく聞かれるけど、一番の理由は、私のこのありあまるパワーをコントロールしたいっていうこと」(p.013)
ここから、鬼束ちひろがタトゥーを入れたのは、自分の衝動性に対するセルフメディケーション(自己治療)らしいことが分かる。
もちろん刺青を入れても、せいぜい偽薬効果、つまり、自身の思い込みで多少症状が軽くなる効果しかない。個人的には、大人の発達障害を診てもらえる医者にかかってはどうかと思う。
「小さい頃から機械モノは、どうしても苦手だった。機械じゃないけど、金魚すくいもできなかった。でも不器用っていうのとは、ちょっと違う。絵を描いたり、工作をしたり、手を動かすことは好きだし得意なのだけど、間に道具が入った途端にうまくいかなくなってしまう」(p.020)
この部分は「小さい頃から」という記述が重要だ。
機械や金魚すくいのように、一定の手順に従わなければうまく使いこなせないモノが、子供の頃から苦手だったというのは、発達障害の特徴の一つと思われる。
機会や金魚すくい以外にも、鬼束ちひろはいくつか苦手なものをあげている。
(つづく)

鬼束ちひろ、最初の3枚と最近の3枚の大きな差異

先日、鬼束ちひろからファンレターの返事をもらったことについて書いた記事を、Twitterでかなり取り上げて頂いているようだ。
受け取った本人の感想を改めて書いておくと、「鬼束ちひろって、やっぱり性格がかわいい人だ」の一言に尽きる。あの返事を怪文書と評価するのは、センスを疑う。
それはどうでもいいとして、鬼束ちひろのニューアルバム『剣と楓』、ジャケットが彼女の妹直筆の筆文字で、演歌風ということもあり、「聴かず嫌い」の扱いをうけているような気がする。
HootSuiteで「鬼束ちひろ」をキーワードに検索したTwitterのタイムラインを作って、たまにのぞいているとそんな感じがする。
これまでのアルバムの中に位置づければ、『剣と楓』はフォーライフミュージックのコピーである「原点回帰」というより、新しい一歩であることに違いない。

ただしそれは、今の彼女の外見からは想像できない新しい一歩だ。
1st『インソムニア』から3rd『SUGAR HIGH』までは、僕個人はすべての収録曲をシャッフルしても違和感なく聴けると思っている。つまり、この3枚で1枚のアルバムのようなものだ。
Insomnia - 鬼束ちひろInsomnia – 鬼束ちひろ
This Armor - 鬼束ちひろThis Armor – 鬼束ちひろ
Sugar High - 鬼束ちひろSUGAR HIGHT – 鬼束ちひろ
それくらい羽毛田丈史氏のアレンジによる鬼束ちひろ作品は、強い一貫性のあるイメージを持っている。それが鬼束ちひろの精神的な束縛になっていたことも事実だけれど。
そして4th『LAS VEGAS』、5th『DOROTHY』、6th『剣と楓』は、最初の3枚のアルバムと比べると、明確に一連の作品として位置づけられる。
LAS VEGAS - 鬼束ちひろLAS VEGAS – 鬼束ちひろ
DOROTHY - 鬼束ちひろDOROTHY – 鬼束ちひろ
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ
『LAS VEGAS』だけは小林武史プロデュースのせいで、一聴すると異質なようだが、鬼束ちひろの作詞・作曲スタイルは、東芝EMI時代と一線を画している。
最初の3枚のアルバムでの作詞・作曲は、本人が言うように、まさに「降りてくる」ままに書いた曲たちと言える。
なので「Castle・Imitation」などの曲に最も明確に現れているように、歌詞がシュールレアリズムの自動筆記的で、日本語としてかなり意味不明なものもある。
作曲については、理由はよくわからないのだが、8分の6拍子の曲が最初の3枚と比べると、復帰後の3枚では格段に多くなっている点、そして「蝋の翼」や「EVER AFTER」など、純然たるJ-POPと言いたくなる曲をさらりと書いてしまっている点、この2点が大きな違いだ。
東芝EMI時代で言えば「Sign」も純然たるJ-POPと言える曲だが、この曲について本人が、自分自身と距離をおいて脚本を書くようにして書いた、と語っている。
とすると、最近の3枚のアルバム収録曲で、歌詞が日本語として分かりやすく、かつ、いかにも歌詞らしい脚韻などの「形式」を備えるようになって来ているのは、「降りてきた」曲をそのまま書くのではなく、いったんそこから距離をおいて作品として仕上げる作曲スタイルへと、確実に変わっている。
この点で、最初の3枚と最近の3枚とでは、大きく作風が変わっている。
逆に言えば、最近の3枚の収録曲は、アレンジを差し引いて、鬼束ちひろの作詞・作曲だけに注目すれば、言われるほどバラバラではない。一貫した流れがある。
ケルト民謡への傾倒や、それが原因なのか、8分の6拍子の曲が増えているのも、最近の3枚のアルバムに共通している。
歌い手としての鬼束ちひろにも変化があり、楽曲によって声の出し方や表現方法を意図的に変えている。
ものまね芸人が「月光」を歌ってよくマネする、あの声色も健在だが、音色の幅は確実に広がっている。
以上のことをふまえた上で、やっぱり東芝EMI時代の鬼束ちひろの方が良かったというファンは、彼女がソングライターとしてスキルを上げてきていること、自分自身を客観的に見つめられるようになってきていることを、無意識のうちに拒否しているのかもしれない。
ニューアルバムの『剣と楓』は、鬼束ちひろが、より確信犯的に鬼束ちひろ風の曲や、全く鬼束ちひろ風でない曲を書き分けるようになっている点で、新しい一歩を踏み出している。
いつまでも過去の殻に閉じこもっていたいなら、東芝EMI時代の鬼束ちひろだけを聴き続けるのも、ファンとしては一つの選択肢だろう。鬼束ちひろには成長を拒否して欲しかったというのも、ファンとしての願望の一つかもしれない。
僕はどちらかと言えば、彼女の新しい「展開をいそがない/ならば少し待ち切れないでいよう」という気分なのだが。