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池田信夫が無視する「科学的合理性」と「政治的合理性」の違い

昨日(2012/01/19)のニコニコ生放送の『ニコ生アゴラ「放射能はそんなに危険?原発のリスクを考える」池田信夫×澤昭裕×高田純×松田裕之』を見て、池田信夫の限界が分かったので書いてみる。
この番組の主旨は、福島のほとんどの地区の現状の放射線レベルは、健康に影響がないというものだ。池田信夫は一貫してブログやツイッターで、そのように主張しているが、なぜ多くの日本人にその認識が広まらないのか、考えてみた。
その結果、池田信夫の議論の限界が分かった気がした。
それは、合理性には、「科学的合理性」の水準と、「政治的合理性」の水準がありが、池田信夫は一貫して「科学的合理性」の範囲内でしか語っていないことである。
以下、ていねいに説明してみたい。

1.科学的合理性の水準

まず池田信夫が言うように、福島第一原発の事故は「終わった」ものと仮定する。
じっさいには、原子炉の廃炉作業がこれから数十年にわたって続き、作業ミスや台風、余震などの自然災害による二次災害のリスクは十分に考えられ、とても「終わった」と言えない。
しかし池田信夫の言うように「終わった」、つまり、現状より放射性物質の飛散が増加することはないと仮定する。
その上で、上記のニコニコ生放送の番組に出演していた学者たちも言うように、原発周辺を除く福島のほとんどの地区の放射線レベルは健康に影響がないと認めよう。
ただし、ここでいう「健康に影響がない」というのは、広島、長崎、チェルノブイリなどの被曝者の疫学的調査に基づき、統計学的に作成された基準により、福島原発事故による将来の健康への影響を確率的に予測した、という意味だ。あくまで確率論である。
つまり、例えば福島のある住民が10年後にガンになったとき、「それは原発事故のせいです」と100%断言することはもちろんできないが、「それは原発事故のせいではありません」と100%断言することもできない。
ただ、原発事故が原因ではない確率が、限りなく100%に近い、と言うことはできる。これが池田信夫の主張だと思うし、僕もここまでは科学的に合理的な説明として納得できる。
(もちろん、そもそもICRPが基礎資料にしている広島、長崎の疫学的調査が、肥田舜太郎氏の言うように原爆投下後5年間の「空白」があったり、米国政府による隠蔽工作があるなど、本当に信用できるかという問題はあるが、ここでは無視する)

2.科学的に合理的な市民という想定

次に、そのような科学的に合理性のある主張を聞いた福島の市民が、どう行動するのが合理的かを考えてみる。
福島に住み続けて、仮に将来ガンになったとしても、それが原発事故のせいだと100%断言できないし、原発事故のせいでないと100%断言することもできない。ただし、原発事故のせいでない確率が100%に限りなく近い。
もちろん、生活習慣や喫煙・飲酒など、他の要素の方が、はるかにガンにつながる確率が高いので、事実上、原発事故による影響は無視できる。
しかし、ここでは池田信夫の信条にのっとって、徹底して合理的に考えたい。
ガンの原因が福島事故である確率をゼロだと断言できない。もしゼロ%だと断言してしまうと、徹底した合理主義者から見れば、単なるインチキ予言者になってしまう。
そこで、徹底して合理的な市民は、ガンになる確率を少しでも下げる避けるために、自分の意思で排除できる原因は排除しようとする。まず生活習慣を改める、喫煙をやめる、飲酒は適度にする、などなど。
同じように、放射線レベルが福島より低い地区があり、そちらへ移住するコストを負担できるとすれば、原発事故がガンの原因になる確率がゼロ%だと断言できない以上、移住することを選択するのが合理的だ。
周囲から福島事故の安全性を強調されようが、危険性を強調されようが、それらの議論と無関係に、「確率がゼロではない」という合理的判断のみに基づいて、移住を選択するはずだ。
問題は、徹底して合理的に考える能力はあるが、「そんな小さな確率のために移住するコストなど負担できない」という市民の場合だ。
市民のコスト負担能力、つまり、所得水準や、福島以外の土地に親戚・友人がいるなどの人脈のバラツキについては、ある程度「自己責任だ」とする合理的な議論は成り立つ。
しかし原発事故について、「あなたが福島に住んでいた責任だ」とするのは合理的ではない。福島の住民に将来起こるかもしれない原発事故の規模について、現実に事故が起こる前に、100%確実な情報を提供することは合理的に不可能だからだ。
つまり、原発事故が起こる確率がゼロでないことを知った上で福島に住んでいても、その事故が、既存の放射線防護基準にてらして、福島を出なければいけない規模になるかどうかは、誰も100%の確度で予測できない。
移住が不要な事故にとどまる確率が100%だと断言したとたん、それは科学的合理性ではなく、インチキ予言者になってしまう。

3.徹底した科学的合理主義者どうしの対決

したがって移住するのが合理的な行動になるが、その場合、少なくとも移住コストの一部分については、一義的には東京電力に対して補助を求めるのが合理的な行動となる。(東京電力に十分な補償能力がなければ国が助けることになるが)
さらに、移住した後ガンになったとして、そのガンの原因が、100%原発事故にあると合理的に断言できないと同時に、100%原発事故でないとも、合理的に断言できないからということで、この市民が東京電力(または国)を相手に訴訟を起こしたとしよう。
原発事故で移住した市民にとって、移住コストの補償を求める訴訟と、健康被害の補償を求める訴訟とでは全く性質が異ってくる。
議論をわかりやすくするために、もう一つ、福島に残った市民も訴訟を起こすと仮定してみよう。
ある市民が原発事故による健康被害はゼロではないが、限りなくゼロに近いので、福島に残ることに決めたとしよう。
この市民が、後々ガンになったと仮定し、その原因が(誰にも100%の確度で断言できないが)原発事故だとして、東京電力(または国)を相手に訴訟を起こしたと仮定しよう。
整理すると、ここまでで次の3種類の訴訟を仮定したことになる。
(1)福島を出た市民が、移住コストの補償を求める訴訟
(2)福島を出た市民が、健康被害の補償を求める訴訟
(3)福島に残った市民が、健康被害の補償を求める訴訟
これらの訴訟で、徹底して合理的な原告側の市民と、被告の東京電力を支持する徹底した合理主義者の対決を想像してみよう。
(1)について、被告である東京電力側の徹底した合理主義者は、移住という行為の責任は市民に100%帰属できるが、移住するという意思決定が100%誤りであること、つまり、原発事故による健康被害がゼロであることを断言できない。したがって、被告を擁護する余地は原理的には存在しない。
つまり(1)では、被告側は「移住が不要だった」こと、つまり「福島に残っても原告の健康や財産上の損害は将来にわたってゼロである」ことを証明する必要があるが、それは徹底した合理主義者には不可能である。
逆に原告側は、「移住によって健康被害がゼロになる」ことまで証明する必要はなく、「移住によって健康被害の確率が下がる」ことさえ証明できれば十分だ。
次に(2)について、同じく被告側の徹底した合理主義者は、「健康被害を避けるための移住」という選択をした責任は市民にあるので、それでも健康被害が避けられなかったからといって、被告を責めることはできないとして、被告を擁護できる。
つまり(2)では、被告側は「移住によって健康被害の確率がゼロになる」ことまで証明する必要はなく、「移住によって健康被害の確率が下がる」ことさえ証明できれば十分である。
逆に原告側は、「移住によっても健康被害の確率は下がらない」ことを合理的に説明すると同時に、自分たちが移住した理由をそれと整合的に説明する必要があり、これは徹底して合理的に考えると両立不可能だ。
最後に(3)について、同じく被告側の徹底した合理主義者は、原発事故による健康被害を100%ともゼロとも断言できないという理由で、被告を弁護する余地が生まれる。
つまり(3)では、被告側は「原発事故と健康被害の因果関係がゼロ」であることまで証明する必要はなく、「原発事故と健康被害の因果関係は100%と言えない」ことさえ証明できれば十分である。
逆に原告側は、「原発事故と健康被害に100%の因果関係がある」ことを証明する必要があり、これは徹底して合理的に考えると不可能だ。
以上のように、徹底した合理主義者どうしが原告・被告として、合理的に争うことを仮定すると、次のような結果になる。
(1)の「移住コスト」訴訟:原告の市民側が勝訴する確率が高い。
(2)の「健康被害」訴訟:被告の東京電力側が勝訴する確率が高い。
(3)の「健康被害」訴訟:被告の東京電力側が勝訴する確率が高い。
つまり、市民が徹底して合理的で、いわゆる「反原発派」「原発推進派」の政治的扇動に左右されず、あくまで合理的に考えて行動すると、健康被害については、移住しても、福島に残っても、民事訴訟に勝つ確率が低いことが分かる。
市民は、徹底して合理的に思考し、行動すると、移住した方が何らかの補償を得られる確率が高くなるが、健康被害についてはどちらにしても何の補償も得られない確率が高くなる。
ここに、科学的合理性の向こう側にある、政治的な合理性の水準が現れる。
以上のことから、市民は科学的合理性にてらして「あえて非合理的に」考えて行動した方が、自分自身に有利になる、という結論が導きだされる。

4.政治的な合理性の水準

つまり、市民が徹底的な合理主義者に対抗して、自分たちの健康や財産を保全するためには、「あえて非合理的に」思考し、行動する方がよいのだ。
おそらく市民はこのことを直感的に分かっている。
別の言葉でいえば、近代社会という仕組みは、徹底的に合理的に思考し、行動すると不利になる場合、ここまで説明したような複雑な論理的すじ道をたどらなくてもいいように(=社会の複雑性を縮減するために)、「非合理的」な思考や行動へ誘導するようにはたらく。
原発事故の健康被害をうける可能性がゼロと断言できない場合、「あえて非合理的に」思考し、行動することこそが「合理的」になる。この「合理性」は科学的な合理性とは別物なので、ここでは「政治的合理性」と仮に呼ぶことにする。
池田信夫は、「科学的合理性」が僕らの住んでいる社会において「常に」正しいと主張しているが、実際には、徹底して科学的な合理性を追求することで、かえって自分の生命や財産を保全できなくなる場合がある。
その場合、「科学的合理性」にてらし合わせると、一見「非合理的」であるような思考や行動を敢えてとる必要が出てくる。
原発事故におけるリスク・コミュニケーションで、相手を説得するための合理的説明(往々にして一方通行になりがち)よりも、相手の共感を得られるような共感的対話(どちらかというと相手の話を聞くこと重視)の方が有効とされるのも、「科学的合理性」の水準と、ここで「政治的合理性」と名付けた水準が、違うものであることを示唆している。
「科学的合理性」の水準においては、池田信夫がいつも主張しているように、福島における放射線レベルに市民がどう対処すべきかは、「あらかじめ」確定できる。
しかし市民にとっては、そのとおりに行動するよりも、「あえて非合理的」な思考や行動をとったほうが、自分たちの生命や財産を保全できる確率を高められるかもしれない。そしてどの程度その確率が高まるかは、「あらかじめ」確定できない。
その確率は高まるかもしれないし、ヘタをすれば低くなるかもしれない。
それでも、「科学的合理性」にもとづいて思考・行動するよりも、「あえて非合理的」に、つまり、「政治的非合理性」にもとづいて思考・行動した方が、自分たちでコントロールできる部分がより大きくなる。つまり自己裁量権が大きくなる。
だから市民は「科学的合理性」の説明ではなく、「政治的合理性」にもとづく「危険デマ」や「安全デマ」にも反応して行動するのである。
また、現実に民事訴訟などの法廷闘争になったときには「科学的合理性」の水準に巻きこまれることを敢えて避け、「政治的合理性」の水準で「命の大切さ」など、感情的な訴求力を持つ言葉を使う方が有利になる。
池田信夫が分かっていないのは、この「科学的合理性」の水準と、科学的合理性の水準で非合理的な行動が合理性を持ってしまう「政治的合理性」の水準の、厳然たる区別である。

肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)

肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)を読んだ。

本書は2005/06/10、東日本大震災の前に出版され、人類の原子力利用の歴史において、とくに第二次大戦後、内部被ばくによる健康被害が軽視され、ときには意図的に隠蔽されてきた事実を告発している。
著者のうち、肥田舜太郎氏は自ら広島で被曝した医師で、戦後一貫して原爆症患者の治療にたずさわってきた。鎌仲ひとみ氏はジャーナリストだ。
内部被ばくがもたらす健康被害の実例として、湾岸戦争で米国によって大量に使用された「劣化ウラン弾」によるイランの子供たちの健康被害(各種のガンや先天性異常)、肥田氏自らいまも体験している広島・長崎の原爆後遺症、そして、米国のハンフォード核施設周辺の住民がうけた健康被害などだ。
ところで、ニュースでよく「ホールボディーカウンタ」の話を聞くが、この機器はガンマ線しか測定できず、内部被ばくで重要なアルファ線、ベータ線がまったく測定できないのは、すでにご承知のとおりだ。
マスコミは「ホールボディーカウンタ」が、福島第一原発の近隣住民の健康調査をする鍵であるかのように報道しているが、完全な誤報である。
この点ひとつ取ってみてもわかるように、内部被ばく、なかでも低線量の内部被ばくによる健康被害の問題は、今のところマスメディアや一般市民に正しく認識されていない。そのことが、本書を読むとよくわかる。
また、今後長期間にわたって東日本全体で明らかになってくるかもしれない、内部被ばくによる健康被害を考えるとき、重要な観点がごっそり抜け落ちていることも、本書を一読すればよくわかる。
内部被ばくの健康への影響については、放射線医学の専門家のあいだでも意見が分かれるようだ。

例えば、近藤宗平著『人は放射線になぜ弱いか』(講談社ブルーバックス、1998年)では、人類は長い年月をかけて自然に存在する放射性物質に適応してきたので、低線量の内部被ばくに健康被害はないと断言している。
たとえばオンラインで読める近藤宗平氏の論文には、『放射線は少し浴びたほうが健康によい』というものもある。これを「ホルミシス効果」と呼ぶらしい。
肥田舜太郎氏は上掲書『内部被曝の脅威』の中で、近藤氏の『人は放射線になぜ弱いか』をとりあげ(p.86~)、この「ホルミシス効果」など、低線量内部被ばくに健康被害はないとする見方を否定している。
肥田氏が内部被ばくの問題を医師としてのライフワークとするきっかけになったのは、広島・長崎で内部被ばくしたと思われる、さまざまな原爆症患者を診察してきたことだ。
広島・長崎に原爆が投下されて数日たってから市内に入った人々が、似たような症状で亡くなっていく。その症例は本書の第二章前半に書かれている。
そして自らの体験を裏づける理論が、後に米国から出てくる。それがピッツバーグ大学医学部放射線科のスターングラス教授の見解であり、「ペトカウ効果」というものだ。
「ペトカウ効果」についての詳細は、本書『内部被曝の脅威』のp.90以降か、肥田舜太郎氏が竹野内真理氏と共同翻訳した『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために』(あけび書房)をお読みいただきたい。

また、『内部被曝の脅威』における「ペトカウ効果」の引用の仕方が不正確だとするブログ記事も紹介しておく。コメント欄に竹野内真理氏自身が意見を寄せている。
『「ペトカウ効果」は低線量被曝が健康に大きな影響を与える根拠となるのか?』(2011/06/16 ブログ「ぷろどおむ えあらいん」)
『低線量放射線の健康影響をどう考えるか』(2011/06/16 ブログ「ぷろどおむ えあらいん」)
僕自身は、低線量内部被ばくと健康被害に相関性があるのかどうか、判断できるだけの専門知識はない。
ただ、福島第一原発の事故が現在進行形である今の日本で、環境線量と外部被ばくの問題にくらべて、低線量の内部被ばくの問題があまりに見過ごされているのが、きわめて不可解だと考える。
ビデオニュース・ドットコムによれば、福島県で3月下旬に子供たちの甲状腺の内部被ばくの国と県による合同の調査結果について、当事者たちへの説明会が始まったのが、ようやく2011/08/17のことだ。
個人的には、低線量内部被ばくについて、放射線以外の要素を完全に除外した、正確な疫学的調査などできるわけがないと思う。
その意味で、事後の疫学的観点からは、健康被害を肯定する意見も、否定する意見も、それぞれに一定の根拠を持つのかもしれない。
しかし、いま日本が置かれている状況で重要なのは「予防」だ。内部被ばくによる健康被害について、専門家の意見が全員一致でない限り、「予防」の必要性まで否定する権限は誰にもないはずである。
学問的な議論とは別に、住民の協力を得つつ「予防」を現実に進めるためには、前提として内部被ばくによる健康被害の可能性は「ゼロではない」と、いったん社会的に暫定合意せざるを得ないのではないか。
その暫定合意までを、医学的根拠がないとして否定するのは、「隠蔽」と批判されても仕方ないのではないか。
…というのが、僕の暫定的な意見である。