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須藤凛々花『人生を危険にさらせ!』のレビューをアマゾンにとりあえず書いておいた

以下、アマゾンに書いたレビューの全文です(汗)


優しすぎる堀内氏が、須藤凛々花を素朴すぎる実存主義へミスリードした過程が読める本

第四章の正義論でp.151~152にかけて堀内氏が軽く触れているポストモダン思想について
堀内氏自身がまともに考えたことがないように読める点が、須藤凛々花をヒドく単純化
された実存主義にミスリードしている。

ポストモダンは「自分」が自分であるという同一性を疑問に付して問い続け、哲学を語る
「言語」自体が誤解なく何かを伝えることを疑問に付して問い続けている。

その絶望の深さは、「自分」の同一性や「言語」の意味の同一性を無批判に前提した
通俗的な実存主義が(つまり本書の中での須藤凛々花が)深淵と呼び、絶望と
呼んでいる深淵や絶望よりもさらに絶望的なものだ。

ポストモダンの思想家たち(たとえばジャック・デリダ)が問い続けた、その絶望の
救いようのなさ、ニヒリズムの救いようのなさに、堀内氏も須藤凛々花もまったく
とどいていないように読める。

これほど無批判に「自分」の同一性や、自分の「意志」の実在、思考するときに
自分が使っている言葉の「意味」のゆらぎのなさに安住して、「自己の生を行く抜く」
(p.287)などと無邪気な宣言をしていれば、結婚宣言で批判にさらされるのも
当然だろう。

彼女の結婚宣言の問題点の一つは、ゲームのルールである恋愛禁止を相対化する行為に、
自分自身の自律や自由を見ている可能性がある点。

これでは大人の作った規則に反抗する「青年の哲学」(p.228~229)、つまり哲学の
手段化を、彼女が批判的に考えることができず、行動に起こしてしまっている。

このナイーブさだけでも、彼女は哲学者を自称するに値しない。

結婚宣言の問題点の二つめは、ゲームのルールより「自分」や主体が先立つ、という
単純化された実存主義から、彼女が結局は抜け出していないこと。

実存が本質に先立つのはよいとして、その実存に先立つものがない、という考え方が
ナイーブすぎる実存主義だ。

そもそもこの世界は「自己」が同一であること、言葉が一定の「意味」を間違いなく
伝えること、といった、それ自身大いに疑わしい「ルール」の上に成り立っている。

彼女が、たとえば総選挙結果発表で結婚宣言をするのは不適切だというルールを
相対化することを、「哲学」だと思っているなら、それ以前に、疑問に付すべきことがある。

それは、彼女自身が「哲学」するときに暗黙の前提にしている「自己」同一性や
哲学するときに使っている言葉の意味にゆらぎがないという、「哲学のルール」だ。

この「哲学のルール」は、本来彼女が、AKB48の恋愛禁止といったルールよりも
先に問うべきことのはずだ。

彼女がナイーブな実存主義にとどまっていられるのは、「自己」の同一性や
言葉の「意味」のゆらぎのなさという、哲学のルール、哲学の権威、哲学の
パターナリズムに依存しているからだ。

その「父親」としての哲学に依存しているからこそ、彼女は安心してAKB48という
ゲームのルールを相対化できるわけだ。

しかし、彼女が本当に問うべきは、その仮想の「父親」そのものではないのか。
哲学の暗黙のルールそのものではないのか。

彼女が「自律した自由な個人でありたい」とか「自己の生を生き抜く」と語るなら、
まず、無批判に前提されている「自己」の同一性をまず疑うべきだ。

さらに、そう自分自身に語りかける言葉が、自分自身に誤解なく伝わっていると
思い込んでいる、その言葉の意味のゆらぎのなさについて、自身のナイーブな
信頼をまず疑うべきだろう。

(このあたりはジャック・デリダの『声と現象』を参照のこと)

堀内氏の失策は、自称「哲学者」である須藤凛々花を、ナイーブな実存主義の
向こう側にある、ポストモダンのさらに救いようのないニヒリズムの深淵に
突き落とさなかった「優しさ」にある。

堀内氏は須藤凛々花に対して、優しすぎたのだ。

ポストモダンの哲学者は、一人で黙々と思考するとき、自分が自分に語りかける
言葉そのものが、自分自身によって誤解されているかもしれないという、
絶望的な可能性を考える。

ポストモダンの哲学者は、一人で黙々と思考するとき、自分が語りかけている
自己そのものが、語りかけのために使っている言葉なしでは、そもそも成立
しないのではないかという、絶望的な可能性を考える。

システムやルール(例えば言語)に先立って、自己や意味があるのではなく、
システムやルールが存在しなければ、自己や意味も存在しないのではないか。

そういうふうにポストモダンの哲学者は考える。

さらに言えば、そのシステムやルール自身も、自分で自分を根拠付けるしかない
壮大なフィクションなのではないか、と考える。

堀内氏が須藤凛々花を、そういう絶望、ニヒリズムにまで突き落とさなかった、
つまり「非啓蒙」しなかったからこそ、須藤凛々花は哲学を手段化してしまった。

須藤凛々花が、哲学が終わりのない思考であることを、自分で否定した今、
彼女は哲学者でも何でもない。

彼女に足りないのは絶望だ。

その証拠に、彼女は目の前の愛によって、しかも日本社会における結婚という
何の反省的思考もない制度に呑み込まれることで、ニヒリズムから救われている。

そんな彼女のいったいどこが哲学者なんだろうか?