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中国式QRコード決済について(3):ネオリベラリズムと思想的独裁は相性がいい

最近気づいたのは、中国のイノベーションを肯定的に評価する論者が、ネオリベラリズムを肯定的に評価する傾向があることだ。

中国に限らずどの国の政府も、現実の政策実行では政府の介入が大きい部分と小さな部分を相互補完的に機能させる。

経済の基盤となっている経済の外部、つまり共同体、個人の思想信条・宗教、社会の慣習など、貨幣に換算しづらい会資源を把握してしまうと、安定した正常な経済自体が成り立たなくなるためだ。

こうした経済の外部にある必ずしも合理的でない社会資源の存在意義を軽視して、ネオリベラリズムに沿って議論を展開すると、意図せずして現実のどこにも存在しないユートピアを記述するはめになる。

ごく普通の組織で長年働いていれば分かることだが、経済活動の現場を動かしている「思い」や「空気」は合理性とはほど遠く、迷ったときには変化しないことを選ぶ。

自由か不自由かを選ぶ自由を与えれば、不自由を選ぶ人間が少なくない。

合理的に洗練されたネオリベラリズムは共産主義と同じ程度に、経済活動の現場では理想論に過ぎない。

このことを下記リンク先のコラムをサンプルとして、個々の問題点を取り上げることで論じてみたい。

なお筆者は経済学や社会学などの学問分野をいったんカッコに入れた、フッサールの言う現象学的還元の方法論を採用しており、いかなる概念も自明とは見なさない。

『アリババがつくる巨大プラットフォーム経済—「情報の非対称性がない」ビッグデータ社会のゆくえ」』(『外交』Vol.47 p.57)

まず「イノベーション」という言葉に当然の共通理解があるかのように「中国のイノベーション」が語られている。

まだ見たことのない製品やサービスがすべてイノベーションなら、観察主体の「たまたま見たことがない」という個人的な経験で「イノベーション」が定義されてしまうことになる。

このコラムの中に「イノベーション」の定義がないため、差し当たり「特定の集団にとって目新しい製品やサービス」としておき、以下、やや乱暴だが意味があいまいなまま括弧をつけずに使う。

「二〇世紀は、財閥など企業グループの時代だったが」とあるが、日本では今も財閥など企業グループの時代だ。これが「二〇世紀は、財閥や企業グループがイノベーションを生み出す時代だったが」という意味であっても間違いだ。

逆に二〇世紀の日本のイノベーションの多くは当時のベンチャー企業から生まれている。ホンダやソニーの例を挙げるまでもない。

ここで重要なのは、イノベーションによって生まれた製品やサービスに対する需要は、財閥など企業グループの安定雇用に支えられた中間層の増加によって支えられたという事実だ。

イノベーションが生み出す新たな製品やサービスと、非イノベイティブな(=保守的な)中間層の存在は、供給者と需要者という相互補完の関係にある。

つぎに文中に現れる「プラットフォーム」という言葉も、「ショッピングモールや市場」「電子商取引」「クレジットカード」など、雑多な例示で意味が広すぎる。

ここでは「取引が生まれ、経済価値が生まれる。むすびつけられた双方もしくは一方に課金する」という、より限定的な部分を採用し、モノや情報の交換だけではなく、必ず貨幣の交換をともなう場という定義とする。

続いておなじみの「ネットワークの外部性」が登場し、「外部性のちから」をテコとする「プラットフォーム」企業として、GAFとAirBnB、テンセント、アリババが例示されている。

「現在、このマッチングの中核にあるのが、モバイルペイメントだ」。これも唐突な文章だが、「現在の中国では」という言葉が省略されている。意図的に省略している疑いもある。

「日本にも楽天、ヤフー・ジャパンなどのインターネットプラットフォーム企業はあるが、はるかに小さい。規模のハンデを十分におぎなわない限り、この中国の二社と同じ土俵に登ることは難しいだろう」。

この部分は論理的に破綻している。

中国のアリババ、テンセントと日本の楽天、ヤフー・ジャパンを対比しているが、「規模のハンデ」の主たる原因は圧倒的な人口の差である。それを各企業が自助努力でおぎなうべきであるというのは、端的にナンセンスである。

かつ、なぜ楽天、ヤフー・ジャパンはテンセント、アリババと同じ土俵に登らなければいけないと無条件に決めつけているのか理解不能だ。アマゾンやグーグルではダメなのだろうか。

アリババ、テンセントといえどもネットワーク外部性を強力に働かせているのは中国国内と中国人の滞在・居住する地域に限られており、北米や欧州でプレゼンスがあるわけではない。

中国と日本のプラットフォーム企業を乱暴に対比している点から、このコラムの筆者が各国の経済の背景にある社会構造や文化など、経済の外部を無視していることは明らかだ。

ここから始まってp.62の下段までは、とくに議論すべき箇所はない。非常に参考になる記述だからだ。

アリババのアリペイや、テンセントのWeChat Payが中国特有の経済システムを背景に、いかに独占的地位を得るに至ったかが書かれている。このコラムを読む価値はほぼこの部分に限られる。

そして決定的な論点が現れるのは、p.63上段の中ほどで、このコラムの筆者が馬雲の発言の主旨を誤解している部分だ。

引用されている馬雲の発言をかみ砕いて言うと次のようになる。

以前の計画経済は、市場の末端までをカバーする大量のデータが得られず、不十分な情報をもとに実行せざるをえなかった。しかしビッグデータの利用によって売り手、買い手双方にあらゆるデータが可視化され、市場メカニズムが”見える手”になったことで、政府が経済の実態に沿った高精度な計画経済を実行することが可能になった。

情報の非対称性の大幅な縮小と、新たな計画経済の可能性はずれていない。

この馬雲の発言の背景には情報の非対称性についてのアイロニーが隠れており、馬雲はそれを分かった上で発言しているが、このコラムの筆者は分かっていないように見える。

情報の非対称性のアイロニーとは、非対称性が解消されたかどうかを買い手が知るすべはないということだ。買い手は原理上、自分の知らない情報が何なのかを知ることはできない。買い手は自分が何を知らないかを知ることができない。

売り手が買い手に対して「これがあなたの知らなかった情報のすべてです」と言ったところで、買い手は「本当にすべてですか?」と永遠に問いつづけることができる。売り手が何も隠していないという確証は永遠に得られない。

情報の非対称性が解消したかどうかの決定権は売り手側、情報をより多く持っている側にあり、非対称性が解消されたという認識は、原理上、つねに買い手の「錯覚」にすぎない。

その「錯覚」を買い手が「錯覚」でないと認識するとき、両者の間に「信用」が生まれる。「信用」は買い手が売り手に質問しつづけることを諦めるというコストを支払う代償として成立する。

「信用」の最も根源的なコストは、完全情報をあきらめるという犠牲を払うことだ。「信用」が最初に発生させるコストは、真実をあきらめるという犠牲である。

プラットフォーム企業がネットワーク外部性によって独占的な地位を強めれば、情報の需要者の「情報の非対称性が解消された」という「錯覚」をより強化できる。

その「錯覚」を強化する手段がオープン化である。APIやSDKなど具体的な方式は何でも良い。欲しい情報を容易に入手できると思わせることが、「情報の非対称性が解消された」「理想的な状態になった」という「錯覚」を確実なものにする。

よく言われるビッグブラザー的な支配は、支配される側が「われわれはビッグブラザーなどに支配されておらず自由だ」と確信することで初めて完成する。

情報の需要者がオープンなインターフェースのおかげで情報の非対称性が解消されたと確信した時点で、皮肉なことに、情報の非対称性は完成する。そしてそれによって新たな計画経済の実行が可能になる。馬雲は情報の非対称性の不都合な真実について、うっかり口を滑らせている。

このコラムの筆者は、やや楽観的すぎる自由主義的思考のため馬雲の発言を誤読しているため、それ以降のこのコラムはすべて読み替える必要が出てくる。

あるプラットフォームの「オープン化はそれ自体、多くの人びとの参入機会を手助けする機能がある」と言えるためには、そのプラットフォームはネットワーク外部性によって、多数のユーザをすでにロックインしている必要がある。

少数のユーザしか使っていないプラットフォームをオープン化しても、「多くの人びと」の参入機会を手助けすることはできない。

しかしFacebookのケンブリッジ・アナリティカ事件を見てもわかるように、オープン化はプラットフォーム企業が寡占化とユーザのロックインを強化する手段であり、情報をオープンにする範囲の決定権を独占しつづけるための有力な方法だ。(具体的にはAPIやSDKの仕様変更、外部からの接続のトランザクション数制限、インターフェース利用の有償化など)

プラットフォームの運営主体が政府であっても同じことだ。

プラットフォームとデータの寡占化は、オープン化によるネットワーク外部性の強化によって推進される。

日本政府がマイナンバーカードを行政機関や民間企業にオープンにすることに成功すれば、情報の利用者に対する日本政府の権限は確実に強化される。

プラットフォーム運営の合理化、効率化が何の代償もなく無条件にユーザ(消費者や国民)に利益をもたらすと考えるのが、典型的なナイーブなネオリベラリストでなくて何だろうか。

運営主体の企業や政府の構成員は悪意のない、完全に信用できる人間だろうか。不正や腐敗を排除するガバナンスが完全に機能している組織だろうか。

こうした疑問を追求することをあきらめる代償を払って運営主体を「信用」することが、まさに「信用」の最初のコストである。最初に「信用」のコストを負担するのは常に情報を受け取る側だ。

情報を開放してくれたのは良いが、本当にすべてを開放してくれているのか。開放すると言いつつ隠蔽したり、ウソの情報を開放したりしているのではないか。

逆に、こうした疑問をあくまで追求することの代償を払って、細分化されたクローズドなプラットフォームや、非合理的で非効率な社会をあえて選ぶことを、間違いだと切り捨てるのは思想的独裁だ。

合理性や高効率を無条件に優れているとする傾向のあるネオリベラリズムと、政治体制としての思想的独裁の相性がいいのは、どちらも非合理で非理想的な選択肢をあえてとる自由を否定するからだ。

実際にはここまで書いたような議論を展開しなくても、中国のイノベーションを称揚するネオリベラリズム的議論は経済の現場では見向きもされない。

「難しすぎて何を言ってるのか分からない」

「どうして中国のマネをしなきゃいけないのか」

「金の節約になるなら良いが」等々・・・

そういった大多数の日本人のおかげで、日本社会の非合理性、非効率性は守られ、合理性・効率性を選ぶ自由と、あえて非合理・非効率を選ぶ自由の両方が守られる。