つながる力」タグアーカイブ

勝間和代『つながる力』のウソ(3):ハッシュタグの日本的解釈

勝間和代と広瀬香美のツイッター解説書『つながる力』のウソと言うより、取りこぼしている重要な論点の3つめが、ハッシュタグである。
『つながる力』での勝間和代の主張に反し、ツイッターはユーザ数が増えれば増えるほど、趣味や意見を同じくする人々の「小宇宙」に細分化され、つながりが分断されていく。
それは、ひとりの人間がフォローできるユーザ数には限界があるからだ。要は、勝間和代は自由業だから自分の時間を好きに使え、フォローするユーザ数を増やせるのかもしれないが、会社員(特に男性)や主婦はそれほどヒマ人ではない。
ただし、ツイッターがこのように壁を作りやすいメディアである点を、暴力的にブチ破る方法がある。それがハッシュタグだ。
勝間和代の本では、ハッシュタグはツイッター社自体のヘルプ文書どおり、各自のつぶやきをゆるく分類するためのもの、くらいにしか紹介されていない。
しかし、少なくとも日本人のツイッター利用者には、ハッシュタグを、ツイッター上の掲示板と、勝手に解釈している人が相当数存在する。
僕はツイッター上で、実験のためにあえて偽悪的に振る舞っているが、ハッシュタグをわざと「濫用」すると、多くの場合、そのハッシュタグを使っているユーザが文句をつぶやく。「ハッシュタグを荒らすな」という主旨の文句だ。
逆に言えば、「ハッシュタグを荒らすな」という文句が出てくることは、日本人のツイッター利用者の多くが、ハッシュタグを、2ちゃんねるのスレッドや、ミクシィのトピックと同じような、掲示板を作る手段と解釈していることを意味する。
その解釈を逆手にとれば、ツイッターが作りやすい「壁」を暴力的に破ることができる。つまり、ハッシュタグを意図的に濫用すればいいわけだ。
勝間和代の言う「つながる力」が、異質な人どうしもつなげる力を意味するなら、ハッシュタグの濫用は歓迎すべきだろう。
ところが僕の実験によれば、実際の日本人ツイッター利用者は、ハッシュタグを「荒らされる」ことを嫌っている。つまり、異質な人と「つながる」ことを拒否している。
僕は「#katsuma」というハッシュタグも、何度か意図的に濫用しているが、おそらくカツマーの皆さんは不愉快に思っているに違いない。それはアンチ・カツマーとはつながりたくないという意思のあらわれに他ならない。
結果、勝間和代の意に反して、ツイッターは、少なくとも日本人利用者の間では、「つながる力」どころか、ハッシュタグを掲示板と解釈することで、「壁を作る」ツールとして活用されているのが現実だろう。
勝間和代・広瀬香美『つながる力』については、これくらい批判しておけば十分だろうか。
(もどる)
※勝間和代の『つながる力』批判のつづきはこちら。
「勝間和代『つながる力』の根本的な間違いが10分でわかる本」

勝間和代『つながる力』のウソ(2):ツイッターのリアルタイム性は単なる錯覚

勝間和代と広瀬香美のツイッター解説書『つながる力』のウソの2点目は、ツイッターのリアルタイム性が、単なる錯覚であるということ。
これは簡単な理屈なので、短く済ませる。
ツイッター上で自分がフォローするユーザ数をどんどん増やしていけば、自分自身のタイムラインの流れる速度も、比例して上がっていく。
すると、あたかもツイッターという仕組みそのものが、世界で起こっている事象をリアルタイムに伝えているかのような錯覚に陥る。
これを検証するのも簡単だ。自分がフォローするユーザ数を、たとえば1人だけに減らしてみればよい。
そうすれば、自分がつぶやかない限り、タイムラインはほとんど流れなくなり、とてもリアルタイム性など体感できない。
つまり、ツイッターは本質的にリアルタイム性を属性として持っているのではなく、単にフォローするユーザ数を増やすことで、リアルタイム性を体感できるようになるだけのことだ。
勝間和代がツイッターを「リアルタイムに流れている」と感じているのは、彼女がフォローしているユーザ数が異様に多いので、そう錯覚しているに過ぎない。
自分の錯覚を、あたかもツイッターの本質であるかのように書かないで頂きたいものだ。
(もどる)
(つづく)

勝間和代『つながる力』のウソ(1):ツイッターは「壁を作る」

勝間和代と広瀬香美のツイッター解説書『つながる力』は、やっぱりウソだった。実際に1か月近くツイッター(Twitter)を使って、3つのことに気づいた。
●ツイッターは「壁を作る」メディアである。
●ツイッターのリアルタイム性は単なる錯覚である。
●ハッシュタグ問題。
まず、ツイッターは「壁を作る」メディアである点から。
勝間和代は上述の書名のとおり、ツイッターは人と人をゆるく「つなげる力」があると書いているが、これはウソだ。それには二つの要因がある。
一つは「言葉の壁」である。
当然のことだが、日本語しかできない人は、日本語でつぶやく人どうしでしかつながれない。ツイッターが世界をつなぐというのは大ウソで、言葉の壁は乗り越えられない。
中華圏は中華圏で「新浪微博」という独自のマイクロブログ・サービスが存在し、中国語が母語の人は基本的にこちらを使う。ツイッターが中国語を母語とする人たちを事実上排除し、壁を作っている証明になっている。
(「それは中国政府による検閲のせいだろ!」という嫌中論を展開したい方は、どうぞご自由にツイッターでつぶやいて頂きたい。それこそが僕の言うツイッターの作る「壁」である)
たとえツイッター内部であっても、フランス語しか分からない人と、ドイツ語しか分からない人と、英語しか分からない人と、日本語しか分からない人の間に、つながりは生じ得ない。
もう一つは「趣味嗜好の壁」である。
ツイッターでは、自分の興味のある人物だけを選んでフォローでき、逆に自分をフォローしてきたユーザーがイヤな場合は、簡単にブロックできる。
また、自分への返信(Reply)は、ツイッター標準のインターフェースを使っている限り、自分の画面(タイムライン)に表示されないので、自分への返信さえ完全に無視できる。この点は電子メールや掲示板と決定的に違う。
こうしたツイッターの仕様は、ツイッター利用者が、趣味や意見を同じくする人たちだけで、閉鎖的な集団を作ることが十分可能であることを意味する。
ツイッターは仕組み自体が簡素なので、もちろん使い方によっては「つながり」をゆるく広げることもできるが、逆に完全に自閉的な使い方もできる。
そして利用者が増えれば増えるほど、ツイッターは「同好の士」による「小さな島宇宙」に細分化される傾向になっていくはずだ。一人の人間がフォローできるユーザには限界があるので。
この点で、勝間和代の書いていることは無根拠な楽観でしかない。
ただしツイッターには、この自閉的な使い方を、暴力的に破る方法がある。それがハッシュタグなのだが、これについては後述する。
(つづく)

勝間和代・広瀬香美『つながる力 ツイッターは「つながり」の何を変えるの?』の名誉白人感覚

勝間和代・広瀬香美『つながる力~ツイッターは「つながり」の何を変えるの?』の古書をアマゾンで購入して、1時間弱で完読した。

梅田望夫の『ウェブ進化論』と同じように、ここで数回に分けて内容を徹底批判しようと思ったが、それに価することは書かれておらず、単にお金のムダだった。
なぜ他のウェブ上のサービスではなくツイッターなのかについては、結局、何も書かれていなかった。
ツイッターというサービス自体も、ツイッターの利用者も、今のところ単に先行者利益を享受しているだけのこと。ツイッターも早晩、陳腐化する。
例えば、冒頭部分で勝間和代が挙げているツイッターの3つの特徴、「手軽さ」「リアルタイム性」「つながりのゆるさ」は、ブログが、それまでの手作りのホームページに対して持つ特徴でもある。
たまたまこの3つの特徴に、ブログより適したユーザーインターフェースが登場しただけの話で、この3つの特徴は、ツイッターの本質的差異ではない。
ところで、話は勝間和代からそれるが、途中に、東浩紀による、ツイッターを使えば直接民主制が実現できるという議論の引用があった。初耳だったが、これは梅田望夫の『ウェブ進化論』よりバカげた議論だ。
ツイッターに限らず、ネットで確実な本人認証をするのは、技術的にではなく、人間的要因によりほぼ不可能で、架空のアカウントと実在の人物のアカウントの識別はできない。ネット上での詐称方法は無数に存在する。直接民主制など飛躍もいいところだ。
勝間和代に話をもどす。「ツイッターは人の善意を引き出すメディア」という論点も、ツイッターに限られるものではない。
本書にもツイッターの認証アカウント制度の話が出てくるのだが、ツイッターを語る人々が、なぜいちいち「本人性」にこだわるのか、僕にはさっぱり分からない。
例えばこのブログ「愛と苦悩の日記」も、3人が交代で書いている可能性もある。芸能人のツイッターも代わりにマネージャーがつぶやくかもしれない。
電子メールでさえ、内容を書いたのが、受信者の期待する本人である保証は全くない。(『ロンドンハーツ』の「マジックメール」を知っている人は、よく分かるよね)
ネットに限らず、電話も含めて(オレオレ詐欺がなぜ成立するか考えてみよう)、非対面のコミュニケーションである限り、相手の本人性を保証するものは何もない。
なので、ツイッターについて「本人性」にこだわる議論自体が完全にナンセンスなのだ。むしろ自分の物理的な身の安全を守る意味で、匿名によるコミュニケーションを行う権利も、あえて選択肢として残すべきである。
逆に、ネットによるコミュニケーションは、匿名性が許されたからこそ、ここまで普及したのではないのか。
そこへ認証アカウント制度を持ち込み、ネットを「強制的に」人の「善意」「だけ」を引き出すメディアにすることは、結果的に特定の価値観による「全体主義」をネットに持ち込むことになる。
その一つの雄弁な証拠が、梅田望夫の『ウェブ進化論』も、勝間和代の本書も、ほぼアメリカしか眼中にない点である。
中国には「新浪微博」というツイッターより高機能なウェブインターフェースをもつ、ツイッターと同じサービスがあり、中華圏の数百万人が利用している。
勝間和代は日本でのツイッターの普及速度について、本書の各所ですごいすごいと騒いでいるが、日本のすぐそばに広がる、中国大陸、台湾、シンガポール、マレーシアなどの広大な中華圏の「新浪微博」は、完全に無視だ。
梅田望夫もしかり、勝間和代もしかり。ツイッターのような新しいネット上のサービスを紹介し、情報の非対称性を利用した「サヤ取り」で稼いでいる論者に共通するのは、究極のところ「名誉白人」感覚に過ぎないのだ。
主にアメリカ発のサービスを礼賛し、日本でそれが普及していることをナイーブに喜び、それによって「世界」が変わると喧伝するが、その「世界」に含まれるのは、アングロサクソンと、「名誉白人」として末席に加えてもらえる自分たち日本人だけ。
何百万人というアクティブなネット利用者である中華圏の人々やインド人などは、見事なまでに無視されている。
勝間和代がツイッターにおける「善意」を、いとも簡単に信用できるのは、欧米諸国と「名誉白人」に共通の価値観を暗黙の前提にしているからにすぎない。
それは、例えば先日来、このブログでネタとして敢えてネチネチ取り上げている、柴田淳の反中発言にも同じことが言える。柴田淳に全く欧米的文脈での「悪意」はない。欧米的文脈の「善意」でファンクラブ専用掲示板上で発言しているわけだ。
世の中には、背景となる価値観を離れたところに、絶対的な「善意」が存在するのではない。全く同じ発言でも、文脈しだいで「悪意」になる。勝間和代のいう「ツイッターの引き出す人の善意」も、欧米の文脈における相対的な「善意」でしかない。
つまらない結論で申し訳ないが、本書における勝間和代も、梅田望夫と同様、日米同盟に忠実な「名誉白人」として米国発の「ツイッター」なるものを礼賛している。それだけ。
そういえば広瀬香美も「名誉白人」の一人として、本書の中で無意識に米国礼賛をしてしまっている。
「アメリカに行くと、不景気でもみんな明るいんです。公園もたくさんあるし、ハンバーガーは安い。お金がなくても、遊べる場所はたくさんあります。でも日本に帰ってくると、国民性なのか、お金がなくなっちゃうと、みんな暗い顔をして、どうしていいかわからなくなるみたい。アメリカとくらべると、遊んだり楽しんだりするのが苦手なんだろうなって感じます。だから(中略)それ(=自分のツイート〔筆者注〕)によって、皆さんが職場でクスッと笑えたり、楽しいアドレナリンが出てきたりして、『よし、がんばろう』っていう気持ちになってもらえたらいいなと思うんです。それは私にできる、ささやかな社会貢献じゃないかなと思っています」(p.112)
本書には、これ以上論じるべきことは何もない。
【追記】...と言いつつ、勝間和代『つながる力』批判の続きは下記をどうぞ。
勝間和代『つながる力』のウソ(1):ツイッターは「壁を作る」
勝間和代『つながる力』のウソ(2):ツイッターのリアルタイム性は単なる錯覚
勝間和代『つながる力』のウソ(3):ハッシュタグの日本的解釈