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絶望しつつ、否応なくやってくる明日をただやり過ごすこと

村上春樹『1Q84』を読み終えたあと、ツイッターで「この一応のハッピーエンドが与えようとしている希望のようなものに比べ、40歳を過ぎた僕の抱えている絶望が深すぎる」とツイートした。
すると、あるフォロワーさんから、何故そこまで絶望しているのですか、という質問があった。とても140文字では書けないので、ここで回答してみる。
そもそも、希望に満ちて生きることに比べると、絶望することはずっと簡単だし、絶望するのにそれほど大きな理由はいらない。絶望というのは、人が思うよりずっと身近なものだ。
希望に満ちた生活を送りつづけるには、忍耐強く地道な努力と、それに耐えうる才能と体力が必要だ。
それに比べると、僕のように四十歳を過ぎ、才能や体力の限界がすでに見えている人々にとって、絶望するのはとてもかんたんだ。
四十歳を過ぎてから新しいことを始めても、同じことを二十歳で始める人たちの方がはるかに上達が早い。
インターネットの普及による、情報の流れの変化も背景にあるだろう。
無名の一般人がいかにすぐれた能力を持っているか、昔なら個人的に知り合いでないかぎり知ることができなかった。
でも今は、インターネットの動画サイトやイラスト投稿サイトなどを見れば、無名の一般人でも楽器のうまい人、歌のうまい人、ダンスのうまい人、画力のある人などが無数にいることがわかる。
趣味なんて自分が楽しめればそれでいい、と言われるかもしれないが、自分がやらなくても、もっとうまくやる人がたくさんいる、と気づくことは、一つの絶望になりうる。
趣味ではなく、仕事に希望を見いだすことはさらに難しいだろう。
まず、世の中のほとんどの人は、やりたいと思った仕事に就けず、雇われ人になっている。雇われ人としての仕事は、本質的に他の誰かと入れ換え可能であり、生活のために時間を売っているだけだ。
雇われ人としての仕事で、昇進や昇給に希望を感じている人は、自分が本質的に入れ替え可能な存在になってしまっていることに気づいていないだけである。
雇われ人として終わるのでなく、自分で会社を起こすだけの才能や体力のある人は、希望を感じる資格がある。しかしそういう人は少数派だ。
そういうわけで、むしろ希望に満ちた生活より、絶望のうちの生活の方が、多くの人にとってより身近なものである。そう感じない人がいるとすれば、満足水準が低すぎるか、多くのことが見えていないだけだろう。
ただし、絶望していることと、生きつづけるかどうかということに、直接の関係はない。
病気で余命数か月と宣言されても、希望に満ちた人生を生きられる人はいるだろうし、健康そのものでも絶望のうちに生きている人もいるだろう。
絶望していても、とりあえず明日は来てしまう。イヤでも明日は来てしまう。
生きつづけるのに十分な気力や能力、体力がなければ、そのうち物理的に生活できなくなり、体をこわすか、飢えるかして死ぬだろう。そうなるのが分かっていて、あらかじめ自分で命を断つ人もいるだろう。
希望に満ちているのに、物理的に生活する手段を奪われているために、失意のうちに死んでいく人もいるだろう。
このように、絶望していることと、生きつづけることは、たがいに独立した二つのことがらである。
そして、希望に満ちていることが良く、絶望していることが悪いと、単純に言い切ることもできない。
たとえば、独裁国家のリーダーは希望に満ちた人生を送っているかもしれないが、それは良いことだろうか。

逆に、貧しく悲惨な人生に絶望している人に対して、そういう人生は悪いと言う権利が、いったい誰にあるだろうか。
「良い」「悪い」といった価値判断は、はたから見ている人の判断にすぎない。現に希望に満ちて生きている人や、絶望しつつ生きている人たち自身が、そんな自分の人生をどう考えているかとは、まったく関係ない。
なので、絶望しつつ、否応なくやってくる明日をただやり過ごすことが、無条件に望ましくない状態とは言えないし、まして「悪い」状態などとは言えない。
くり返しになるが、四十歳を過ぎると、絶望が「良い」ことであれ「悪い」ことであれ、それ以外のものをもはや選ぶことができないのだ。
「これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」(村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』)

Project Server 2007で壊れたエンタープライズ・グローバルを復旧させる方法

久しぶりにMicrosoft Project Server 2007について、検索エンジンに引っかかるようにTipsとして記録しておく。ネタ元は下記のページ。
‘Error accessing file: Network connection may have been lost when accessing VBA Macros stored in the Enterprise Global in Project Server 2003 and 2007’ (2009/04/13 Project Server Help Blog)
Project Server 2007には「エンタープライズ グローバル」という、全てのプロジェクトファイルのテンプレートになるファイルがサーバ側に初期状態で用意されている。
この「エンタープライズ グローバル」は、いろいろ編集しているうちに破壊されてしまうことがある。
具体的には、内部的にビューの名称が入り乱れて、「エンタープライズ グローバル」を開いてメニューの「ビュー」から「ガントチャート」をクリックしたのに、なぜか「リソース配分」ビューが開いてしまう等の現象だ。
このように「エンタープライズ グローバル」が破壊されて(corrupted)しまうと、Project Professional 2007やProject Web Accessの画面からでは復旧できない。
正しい「エンタープライズ グローバル」のバックアップが取られていればいいが、それが存在しない場合は、いったん不正な「エンタープライズ グローバル」を削除して、作成し直すしかない。
そのためのSQL文が、Project Server 2007のインストールされているサーバのフォルダ内に、実は用意されている。
場所はサーバ上のC:ドライブにProject Server 2007がインストールされている場合には下記のパスになる。
C:Program FilesMicrosoft Office Servers12.0SqlProject ServerCORE1041
このフォルダ内にある eglobal.sql というSQL文が「エンタープライズ グローバル」を再作成するためのSQLスクリプトだ。
SQL Server Management Studioを開いて、Project Serverの発行済(Published)データベースを開く。そして「新規クエリ」ボタンをクリックして、この eglobal.sql の中身をコピー・貼り付けし、クエリーを実行する。
SQLの実行は一瞬で終わり、「エンタープライズ グローバル」はProject Server 2007のインストール直後の状態に復旧される。
以上で、壊れた「エンタープライズ グローバル」のリストア作業は完了である。

残念なことになっていた小説版『輪るピングドラム(上)』

アニメ『輪るピングドラム』小説版の「上」の古書を、アマゾンで購入して読み始めてみたが、村上春樹『1Q84』を読んだ直後ということもあり、恐れていた通りかなりがっかりさせられた。

アマゾンの商品説明には「原作小説」とあるが、アニメの放送開始に先立つこと、ほんの数日前の発売であり、アニメの脚本より小説が本当に先に書かれたとは考えづらい。
上巻の4分の1ほどを読んで分かったのは、これは小説ではなくアニメ脚本の下書きである、ということだ。
アニメ版『輪るピングドラム』はご覧になった方はお分かりのように、幾原邦彦の原作らしい前衛的で抽象的な表現が散りばめられた作品だ。
例えば有名な「生存戦略!」のシーケンス。主人公の少女・陽毬がペンギンの帽子をかぶって「生存戦略!」と叫ぶと、アニメの上では現実の世界が一瞬にして隠喩的な異空間に切りかわる、という演出になっている。
これを小説で書く場合、本来なら文体がガラッと変わるはずだ。
小説版『輪るピングドラム』は、ほぼ一貫して登場人物のうち高倉晶馬を語り手として書かれている。そのため「生存戦略!」の異空間も、晶馬の目線で、突然の出来事にあわてふためくというように書かれている。
しかし、その文体は、晶馬があわてふためく様子を客観的に書いている。
小説を読む場合、「本当は誰が語っているか」ということが極めて重要になる。
小説版『輪るピングドラム』は普通に読めば晶馬が語っているということになる。いや、実際には語り手は一定せず、荻野目苹果という少女が主役になる章では、彼女が語り手に切り替わってしまう。
語り手がかんたんに入れ替わるということは、逆に言えばその背後に、高倉晶馬でも荻野目苹果でもなく、すべての登場人物を超越した第三者が、ときには晶馬、ときには苹果のふりをして語っている、ということになる。
よほど前衛的な小説でない限り、ふつうの小説はこうした超越的な第三者が語り手になっている。
村上春樹の『1Q84』も、マジック・リアリズム的な道具立てにもかかわらず、やはり超越的な第三者がときには天吾となり、ときには青豆となり、ときには天河となって語っている。
BOOK 3の天吾と青豆と天河がニアミスする部分だけは、例外的に超越的な第三者が前面に出てきてしまっており、やや奇異な感じを与えるけれども。
一方『輪るピングドラム』の「生存戦略」の場面は、アニメでは日常の世界とまったく異なる空間として表現されている。
このような空間を、日常の世界を語るときと同じ文体で語るのは、小説としての「演出」上、明らかにおかしい。小説で「演出」に区別をつけようと思えば、利用できる手段は文体しかないからだ。
『1Q84』の分かりやすい例で言えば、フカエリの話す言葉だけが、漢字を使わずにひらがなとカタカナだけ、かつ、不自然に短いセンテンスで書かれている。
このように、小説が使う言葉には、れっきとした「物質性」がある。言葉は何らかの意味をつたえるための道具ではない。言葉そのものが「モノ」としての存在感をもつ。
たとえて言えば、マンガの中で登場人物の叫び声が、ときどき文字のかたちをした岩になって、別の登場人物の頭に大きなたんこぶを作るように、言葉は意味とは独立した「モノ」としてのかたちや重量がある。
「生存戦略」の場面も、小説という表現手法を取るかぎりは、それ以外の日常生活(その日常さえ実際には日常ではないのだが)を書いている部分と、本のページを開いたとき、物理的に違っている必要がある。
まず晶馬視点で語るのは明らかに不適切だ。その上で、例えば、ゴシック体にする、改行をしない、逆に、韻文のように頻繁に改行する、句読点を使わない、雅語を多用する、などなど、使える方法はいくらでもあるはずだ。

つまり小説を書くなら、文体に意識的でなければならない。ことばの物質性に意識的でなければならない。
ここでいう「文体」には、改行や句読点の利用頻度、漢字の利用頻度、ひらがなかカタカナか、「です・ます」体か「だ・である」体か、古語が現代語か、主観的感情表現を含めるか客観的描写を徹底するかなどなど、さまざまな表現のバリエーションが含まれる。
アニメや映画などの映像作品にも「文体」はある。
例えばカラーかモノクロか、画面の粒度の粗密、彩度や明度の調整、カットが長いか短いか、写実的か漫画的か、無音か劇伴がつくかなどなど、無数のバリエーションがある。
小説版『輪るピングドラム』には、アニメ版で見られるような表現の前衛性に見合うような「文体」の幅がまったく存在しない。
すべてが同じ文体で、しかもライトノベル的なカジュアル過ぎる文体で書かれており、アニメ版の前衛性を目にした後で小説版を読むと、完全に気持ちが萎えてしまう。
そういうわけで、小説版『輪るピングドラム(上)』はとても残念なことになっていた、という報告だった。もちろん小説版の続きを読む気は完全に失せた。未見の方にはブルーレイでアニメ版の視聴をおすすめする。