月別アーカイブ: 2012年3月

協調性至上主義の日本社会は、たぶん、出口なし。

組織への過剰適応が、日本社会の変化をはばんでいる、というお話。
ご承知のように日本の組織は、民間企業であれ、お役所であれ、学校であれ、いまだに「協調性至上主義」が支配している。
その最大の理由は、下手に波風を立てると、その組織から排除されるおそれがあるからだ。
その組織から収入を得ている場合には、それはすなわち「人並みの」生活から落ちこぼれることを意味する。学校であれば、十分な教育を受ける機会をうばわれ、将来の就職活動が不利になり、結果的に生活水準が低下することになる。
なので、何らかの組織に属している日本人が、その組織の「協調性至上主義」に過剰に適応してしまうのは、ある意味、とても合理的な行動だと言える。
組織の命令なら、たとえ社会正義に反するおそれがあっても平気でしたがう。組織の方針に反するような意見は、たとえひとりの私人として意見を求められた場合でも口に出さない、などなど。
組織に反抗しないという行動様式が、私生活まで侵食すると、当然、一人の市民として、一人の私人として、日本の現状を変えるために何かをしたい、というモチベーションを奪う。
日本の現状を変えるために、投票行動を変えるとか、インターネット上のブログやツイッターやフェイスブックなどで、明らかに所属している組織の方針に反する意見を表明するとか、そういったことすべてについて、「ヘタなことはやらないほうがいい」という判断になる。
そういった、所属組織に対する過剰な適応が、日本社会のいたるところで起こると、日本社会全体としては、変革へのきっかけを大きく損ねることになる。というより、すでに、変革へのきっかけを失っている。
例えば、竹中平蔵や勝間和代といったタイプの論客は、日本はまだ世界経済で重要な位置を占めつづけることができる、と信じているように見える。ただしそのためには、大胆な何らかの改革が必要だと主張しているらしい。
しかし、彼らとは違うふつうの日本人は、自分が所属している組織の利害に反するような行動はとれない。組織から排除されたときの安全網も何も、日本社会には存在しないからだ。
なので、ふつうの日本人は、そういった論客の先鋭的な議論を「聞くだけ」で終わる。聞いてスッキリするだけで終わり。自分たちの行動様式を変えることはない。結果として、日本社会は何も変わらない。
残念ながら日本という国は、生まれ落ちたときから「協調性至上主義」を叩きこまれている市民が大半を占める。そのため、根本的な変革のきっかけや動力を、最初から失っている。
なので、おそらく年金問題を賦課方式から積立方式に変えるという大胆な変革もできないし、戦略的な再生可能エネルギー産業の成長政策もとれない。
賦課方式の年金制度のおかげで、自分たちが支払った保険料以上の年金を、いまの若者世代(主に保険料が天引きされる会社員)の収入からむしりとっている高齢者は、かんたんに自分たちの既得権益を守ることができる。
この「協調性至上主義」の日本で、彼らはかつて所属した組織で高い地位を持っており、その結果、高い経済水準を享受しており、自動的に、市民社会においても、少なくとも非正規雇用の若者よりは発言力を持つことができる。
また、昔ながらの「非社会的勢力」が、日本各地の原子力発電所に、被ばくに対する補償を求めるだけの社会的地位のない低賃金労働者を送りこんでくれる限り、日本の原発は低コストで運転できる。
そうやって、日本全体としては、少子高齢化による人口オーナスとともに、確実に21世紀の前半が終わるころまでに、没落していく。
この没落を止めるモチベーションは、ふつうに日本で生活している日本人の誰も持つことができない。日本社会はそもそもそういう仕組みになっているので、どうしようもない。
まさに、出口なし。

alan、中国大陸の芸能人社交ダンス部的番組に今年はダンサーで出演

alanが、どうやら『舞林大会』という、日本でいう芸能人社交ダンス部的な企画のテレビ番組に、今年はダンサーの一人として出演するようだ。
去年はあくまでダンスの伴奏としてステージに上がって歌を歌う役割だったが、所属事務所が中国の楽華娯楽に変わり、さすがに今年は自ら社交ダンスを踊るのを断れなくなった、ということだろうか。
ちなみにこの『舞林大会』のスポンサーは相宜本草(イノハーブ)社。ご存知のようにalanは日本で活躍中からすでに、中国大陸ではこの相宜本草のCMキャラクターとして活躍している。
日本でエイベックス所属で活動している限り、あまりバラエティー・タレント的な仕事はせずに音楽に専念できていたが、中国大陸の事務所に所属したいまや、そうも言ってられないということだろう。
エイベックスに所属した当初、少しダンスレッスンを受けた程度のalanは、きっと社交ダンスなんて踊れないよぉ~と思ってるに違いない。
先ほど新浪微博(中国ツイッター)で「うじうじ」フェイスマークだけのつぶやきを書き込んでいる。日本のalanファンの皆さんも、alanに頑張れ!のメッセージを書きこんではどうだろうか。
real阿蘭 2012/03/26 11:25のつぶやき(新浪微博)

alanニューアルバムに3名のプロデューサが尽力、方文山が歌詞提供

alan関連の記事を、先日に引きつづき鳳凰網の音楽ニュースから日本語試訳。今回は中国帰国後、最初のアルバムの製作過程の様子について。
阿兰专辑三位制作人鼎力加盟 方文山写词屡推敲 (2012/03/23 11:30 凤凰网音乐)
(ここから日本語試訳)
alanニューアルバムに3名のプロデューサが尽力 方文山は歌詞を丹念に推敲
新事務所・楽華娯楽との契約以来、alanは帰国後最初のアルバムの準備に取りくんでいる。
プロモーションビデオの撮影のための渡日と、短編映画の撮影を除いては、アルバム録音をしており、完成に近づいている。このアルバムは、袁惟仁、曲世聡と、中華圏のトッププロデューサ2名が参加して尽力しており、alan本人もニューアルバムの全工程に自身の意見を取り入れている。

音楽賞を受賞しているミュージシャン、小柯の大きな協力も、間もなく得られる予定だ。alanの帰国後第一弾アルバムとして、これだけ多くのミュージシャンが参加して安心したプロデュースができるのも、楽華娯楽がいかにalanを重視しているかが分かる。
中国国内のポップス系ミュージシャンと初めてコラボする中で、alanは専門的な音楽の素養と、生まれつきの美しい声で無数の評価を得て、創作の才能にあふれた同じ事務所所属の胡彦斌も惜しまず曲を提供している。著名な作詞家である方文山とのコラボでは、alanは日本で努力した4年間の気持ちの変化を方文山とシェアし、心情と芸術を完璧に一致させるために、一つひとつの地名にいたるまで、方文山は何度も推敲をくり返した。
alan自身は次のように語っている。中国帰国後、国内の音楽界に初めて発表する作品として、今回のアルバムの楽曲は、これまでの壮大なスケールの楽曲の他にも、身近な都会の新鮮なラブソングも増やしている。そのため、録音を始める前、プロデューサはやや心配していたが、録音が始まると、alanはすぐに楽曲の心情設定に入りこみ、録音は非常に順調に進んだ。声の表現力はプロデューサを驚かせてやまなかった。

alanが笑って言うには、短編映画を撮影したおかげで、どうすれば自分の心情をすばやくコントロールできるかマスターしたので、異なるスタイルの楽曲の心情にも、すばやく、かつ、正確に切り換えて、最適な感覚を楽曲に持ちこむことができるようになった、とのことだ。
プロモーション撮影や短編映画の制作の様子が続いて明かされているが、alanの今までとは全く違う新たなイメージに対しても、ファンたちは再び大いに期待し、それぞれニューアルバムの作風に大きな期待を寄せている。alan自身も、録音の終わっている楽曲に十分満足していると話し、今回の大胆なチャレンジで、自分の声の高く澄んで響きわたる部分以外の潜在的な素質を十分に発掘でき、トップクラスのプロデューサたちの協力も加わって、ニューアルバムに大いに自信を持っていると語っている。
(日本語試訳ここまで)

alan中国帰国第一弾アルバムの宣伝用映画で体当たりの演技

alan関連の記事を鳳凰網の音楽ニュースから日本語試訳。「微電影」は「マイクロフィルム」と訳すと別の意味になるので「短編映画」と訳した。また「双重性格」を「二重人格」とすると意味が強すぎるので、「二面性のある性格」にしておいた。
阿兰归国新专辑即将发行 首触微电影挑战双重性格(2012/03/14 11:22 凤凰网音乐)
(ここから日本語試訳)
alan帰国後ニューアルバムリリース 初の短編映画で二面性のある少女に挑戦
先日、新事務所の楽華娯楽と契約した「アジアの歌姫」alanは音楽活動の中心を中国大陸に転じたが、2011年年末の帰国第一弾シングル『ただいま(我回来了)』の後、すぐに鳴り物入りのニューアルバムの政策を続けてきた。
本当のalanのさまざまな側面を幅広いファンに見せるために、今回、楽華娯楽は従来のプロモーションビデオではなく短編映画を採用することに決めた。ニューアルバムのメイン曲を、3編の短編映画にして、alanの潜在的な能力をさらに深く全面的に展開している。
現時点で、1本目の短編映画の撮影は順調に完了した。冬の終わりから初春にかけての北京で、映画全体を2日連続、徹夜で撮影し、ストーリーの必要から、alanは深夜の寒風の中、夏の服装で街路を走り回らなければならず、その仕事熱心な様子を撮影スタッフはしきりにほめていた。
alanが今回演じるのは二面性のある性格をもつ女性だ。ふだんは大人しくて性格のよいフリーターの少女が、スモーキーなメイクの女性ロック歌手に変身する。最初、この二種類の全く違う役柄を演じ分けるのは、初めて映画を経験するalanにとって非常に難しかった。
「以前アルバムのプロモーションビデオを撮影したとき、ある程度は演技をしたことがありますが、プロモーションビデオと映画は大きく違いますし、今回の役自体、二面性のある性格ですし、とくにこのロック歌手はとてもワイルドでセクシーなので、新鮮でもあり、やりがいがありました」
今まで経験したことのない演技だったこともあり、撮影の日程を遅らせないために、alanは撮影現場で男性俳優と一刻も惜しまずリハーサルとセリフの練習をし、休憩時間にも気を抜かなかった。
優れた理解力とたゆまぬ努力で、もともと監督が一週間を予定していた内容を、ついに二日間で完成させ、短編映画の撮影は成功のうちに終わった。撮影終了後、監督は笑いながら、alanが映画女優の道に進めば、きっと大きく成長するだろうと話した。
関係者によれば、alanの帰国後第一弾アルバムは今年4月に発売され、今回撮影した短編映画は新事務所の楽華娯楽がアルバム発売を祝して、じっくり企画を練ったもので、アルバムのメイン曲のプロモーションに合わせて、ファンたちに贈る貴重なプレゼントにもなっている。
(ここまで日本語試訳)

低線量被曝の健康被害と科学の時間的限界

現時点の科学は永遠に正しいのか、というお話。
Let’s think whether the current sciences are eternally true or not.
科学哲学についての本を少しでも読んだことのある人なら、科学というのはいつの時点でも単なる仮説であって、将来反駁される可能性があるからこそ、科学なのである、という話を聞いたことがあるはずだ。
If you’ve read books about science philosophy, you must know that science is always a mere hypothesis and that science is science only when it can be falsified in the future.
近代科学がなぜ今まで日々「進歩」し続けてきたかといえば、昔の科学者が「正しい」と証明した仮説を、後の時代の科学者が別の仮説を「正しい」と証明することによって反駁する、そして、そのまた後の時代の科学者が、別の仮説を「正しい」と証明することでさらに反駁する。こうやって近代科学は日々「進歩」し続けてきた。
Why can modern science keep progress until now? That’s because it has continued falsifying previous hypotheses.
もし近代科学が、2012年現在の今の仮説は永遠に正しく、将来にわたって反駁される可能性はないと断言してしまうと、人間の近代科学という営みの「進歩」は2012年でストップすることになり、これ以上、科学の研究を続ける意味はなくなる。(以下「近代科学」を「科学」と省略)
If modern science declares that the hypotheses as of 2012 are eternally true and will not be able to be falsified in the future, then our modern science will stops its progress in 2012 and there will be no need to continue scientific research.
現時点の科学はすでに将来にわたって反駁されない真理をつかんだ!と主張するやいなや、それはもはや「科学」ではなく「宗教」になってしまう。
If the current science declares that we have already siezed the eternal truth, then it will not be a science any more and turn into a kind of religion.
こういうことを今日に限って考え始めたのは、低線量被曝の健康被害のことがいまだに引っかかっているからだ。
Why did I begin thinking about such a thing today? Maybe because the health hazard of low radiation still bothers me.
2012年時点の最新の疫学や原子物理学の成果によれば、福島第一原発事故後の2012年時点の日本のほとんどの地域で、喫煙や飲酒などの生活習慣などによる健康被害に比べれば、低線量被曝による健康被害は無視できるレベルだ、というのは理解できる。「無視できる」というのが言い過ぎなら、「より軽微である」でもいい。
On the basis of current epidemiology and nuclear physics in 2012, I can understand that in most part of Japan even after Fukushima nuclear accident, the health hazard of low radiation is negligible compared to that of smoking or drinking too much. If the word ‘negligible’ is too strong, I can say ‘minor’.
しかし、「まともな」科学者であれば、2012年時点の疫学や原子物理学がすでに永遠の真理をつかんでいると主張することはできない。宗教家じみた狂信的な科学者なら、永遠に正しいと主張するかもしれないが。
However, decent scientists can’t insist that current epidemiology and nuclear physics in 2012 have already siezed an eternal truth, except that they turn out to be fanatic.
であれば、現代の疫学や原子物理学の成果にもとづいて、低線量被曝による健康被害は他の要因よりも軽微であるという意見は、単に、将来の世代よりも今の世代の健康のほうが重要だ、という選択をしているだけになる。
This means that those who think the health hazard of low radiation is insignificant compared to other factors based upon current epidemiology and nuclear physics, simply make a choice that the health of current generation is more important than that of future generations.
その理由を説明する。
Why?
例えば、200年後の疫学や原子物理学は、2012年現在の首都圏の放射線レベルの健康被害について、いま以上に「健康に問題ない」ことを証明しているかもしれないし、逆に「実は健康に無視できない影響がある」ことを証明しているかもしれない。
For example, epidemiology and nuclear physics in 200 years could prove that the current radiation level in Tokyo metropolitan area is more negligible concerning the health hazard or conversely that it turns out to be not negligilbe.
別の例で言えば、200年後の原子物理学は、いまよりもはるかに安全で、200年後のあらゆる科学にもとづいて考えても、人間の健康に被害を与えない原子炉を設計できるようになっているかもしれない。
Let’s take another example. Nuclear physics in 200 years could find the way to design a much safer reactor which never affects human health even based upon any science in 200 years.
2012年時点の僕らには、残念ながら200年後にどちらになっているかを100%確実に予言することはできない。
We, living in 2012, don’t have 100% certainty of which case will happen in 200 years.
いま「100%」と書いたが、2012年時点の最新の確率論でさえ科学の一種、つまり人間の合理的思考の一種であり、200年後には反駁されているかもしれない。
I’ve just written “100%” and the probability theory as of 2012, which is also one of the results of human rational thinking, could be falsified in 200 years.
なので、2012年時点で計算した「任意のN年後に現時点の科学の仮説が妥当である確率」が、200年後に計算した「任意のN年後に現時点の科学の仮説が妥当である確率」によって反駁される可能性さえある。
This means that the calculation of “the probability about that current science hypothesis is tru in given N years” could be falsified by the calculation of probability theory in 200 years.
そこで思うのは、2012年の時点で「これこれのレベルの放射線量は他の要因と比較して健康への被害は無視できる」と主張している人たちは、その主張が、例えば200年後に反駁されている可能性を意識しつつ主張していのだろうか、ということだ。
By the way, are those who insist that the health hazard of a certain radiation dose is negligilbe compared to other factors, aware that their insistence can be falsified in 200 years?
当然、良識のある人であれば意識していると僕は信じている。
Naturally, I believe that people with common sense are aware that their insistence can be falsified in 200 years.
つまり彼らは、200年後に自分たちの主張が誤っているかもしれない可能性を認めつつ、それでもいま目の前で苦しんでいる人たちを助けるために、現時点の最新の科学で証明できる限りの知見を活かそうと努力しているのだと。
Therefore, they have made a choice of making efforts to save the people currently suffering from earthquake aftermath with the maximum use of current science, although they are aware that their scientific basis can be falsified in 200 years.
間違ってはいけないのは、このような判断は科学的な判断ではなく、倫理的な判断である、ということだ。
We’d like to confirm here that such a choice is not a scientific choice itself but a moral choice.
つまり、より「身近な」今の世代の人間の健康を、今の科学の有限な成果にもとづいて、将来の世代の健康よりも重視するという、それ自体、科学的に根拠づけることが不可能な、いわば「倫理的」とでも呼ぶべき選択をしている、ということだ。
When you decide that, based upon the finite results of current sciences, the health of current generation which is closer to us is more important than that of future generations, it means that you have made a “moral” choice which can’t be scientifically rationalized itself.
もちろんその逆、将来の世代の健康を、今の科学の有限な成果にもとづいて、今の世代の健康より重視するのも、科学的に根拠づけられない倫理的な選択である。
Of course, when you decide conversely that, based upon the finite results of current sciences, the health of future generations is more important than that of the current generation, your choice is a moral one which can’t be scientifically rationalized.
今の世代の健康と将来の世代の健康のどちらを重視するか、ということが問題になるのは、第一に、くり返しになるが、科学はいつの時点でも常に反駁される可能性を認めて初めて「進歩」するものであるからだ。
The choice of which is more important, the health of current generation or that of future generations should be questioned because, firstly, the science can progress only when it can be always falsified.
第二に、今の世代の健康と将来の世代の健康のどちらが重要かを問題にする人々は、できるだけ人類が長い世代にわたって存続してほしいと願っているからだ。
Secondly, that’s because those who question which is more important, the health of current generation or that of future generations, wish human being may survive for as many generations as possible.
ところで、地球温暖化問題にしてもそうだが、なぜ現時点に生きている人々が、将来にわたって人類ができるだけ長い世代を生き続けてほしいと願うのだろうか。
By the way, also concerning global warming, why do the people living in the current generation wish human being may survive for as many generations as possible?
そんな願いなど捨ててしまえば、はじめから「低線量被曝の健康被害」などという問題について、「被害はある」派と「被害はない」派にわかれて鋭く対立することもない。
If we give up such a wish, we don’t need to have conflict opinions, such as “There is no health hazard” and “There exists health hazard” concerning such a problem as “health hazard of low radiation”.
そんなふうに2012年の時点でいがみ合うよりも、いま生きている自分たちが、大きな健康被害をうけることなく寿命をまっとうできればそれでいいと、将来世代のことを考えるのをやめてしまうのも、一つの選択肢ではないだろうか。
If we decide to stop thinking about future generations and get satisfied with our own longevity as far as there is no severe health hazard in order to avoid such a conflict, can it be another good choice?
むしろ、現時点を生きている人間が、将来の世代に関することを正しく判断できると考えるのは、現時点の世代の単なる思い上がりではないのか。
Or can we say that, if we think the current generation can make an adequate decision about the future generations, it should be rather a kind of arrogance of the current generation?
低線量被曝の健康被害について「被害はある派」と「被害はない派」のどちらの立場につくとしても、そもそも現時点を生きている僕らが、将来の世代についてあれこれ議論すること自体が、将来の世代から振り返ったとき、かえって状況を悪化させ、余計なおせっかいになるかもしれない。
Regarding the health hazard of low radiation, whether you take a position of “hazardous” or “harmless”, the fact that the current generation think over future generations can worsen the situation of future generations when future generations look back the discussion of current generation.
余計なおせっかいになるとも、余計なおせっかいにならないとも、現時点の誰にも断言できないはずだ。
Nobody of the current generation can asset whether our consideration about future generations is simply meddlesome or not.
いや、たとえ余計なおせっかいになるとしても、今の世代は、今の科学の成果を最大限に活かして、将来の世代について考えるべきである、という考え方もあるだろう。
Somebody might think that, even if our consideration about future generations turn out to be simply meddlesome, we the current generation should think over future generations with the maximum use of fruits of current sciences.
低線量被曝の問題について対立している人たちは、こういう考え方を持っている点では共通の土台に立っている。つまり「いま何もしないのはダメだ」、「不作為は悪だ」という点は共有している。
Anyway those who discuss the problem of low radiation from opposite sides are sharing the common basis, i.e. “Doing nothing isn’t acceptable” or “Omission is bad”.
そして、「何もしないのは悪だ」というのも、永遠の真理ではなく、単なる一つの選択にすぎない。
Again, the way of thinking such as “doing nothing isn’t acceptable” isn’t an eternal truth but a mere choice among many other choices.
くり返しになるが、人類の歴史のいかなる時点の科学も、その時点で「永遠の真理をつかんだ!」と主張する権利はない。つまり、いかなる時点の科学の成果にも、その妥当性には時間的な限界がある。
I’d like to repeat that the sciences on any moment of human history have no rights to insist that they have seized an eternal truth. Any results of the sciences on any moment of human history has the temporal limit concerning its adequacy.
それは、本質的には一人ひとりの人間そのものが時間的な限界がある有限な生命だからだ。そもそも100年弱しか活動できない人間が、たまたま自分が生まれ落ちた時代に産み出した成果を、「永遠に正しい!」などと主張する権利はない。
That’s essentially because every human being is a limited being. Any human beings with short longevity of about 100 years have no rights to insist that the results, which they happen to produce in the era when they happen to be born, will be eternally true.
しかし、合理性や客観性を主張する人たちは、自分たちの主張が時間的な限界を持っていることを、しばしば忘れているように見える。あたかも自分たちの主張が、将来にわたって永遠に正しいかのように主張しているように見えるときがある。
However, those who insist that their way of thinking is rational and objective somtimes seem to forget their own temporal limit. They sometimes seem to insist as if their opinion were eternally true.
それは一体なぜなんだろうか。僕自身にもよくわからないので、今日はここまで。
Why do such people insist such a stupid thing? To tell the truth, I don’t know why. Period.