月別アーカイブ: 2012年2月

アニメを見下す大人は鑑賞能力がないだけ

アニメについてブログを書こうとすると、前提となる説明が長くなるが、あえて書いてみる。
先日、録画してあった『スマイルプリキュア』を初めて見た。本当は第1話から観たかったのだが、予約録画を忘れていたためにようやく観ることができたのだ。
アニメに関心のない読者の方々は、ここまでで頭の中が疑問符だらけに違いない。
『プリキュア』というのは日曜日の朝に放送されている女児向けTVアニメシリーズで毎年新シリーズが1年間の放送予定で開始される。詳細はウィキペディアの「プリキュアシリーズ」をご覧いただきたい。
いずれにせよ、40代で子供のいない僕のような既婚男性が観る番組ではない。では僕が登場人物の中学2年生という設定の少女たちに「萌え」ているのかと言えば、そうではない。
録画を観た理由は、今年の『スマイルプリキュア』シリーズの主人公を福圓美里(ふくえん・みさと)という声優が担当しているからだ。福圓美里という声優を知っている人はほぼ皆無だろうが、彼女は水樹奈々という声優と関係が深い。
水樹奈々は声優出身の歌手として初めて、NHK紅白歌合戦に2009年から3年連続出場を果たし、いま活躍している声優の中では歴史的な人気をほこっている。2011年末は東京ドームを2日連続で満員にしている。それでも一般的な知名度は極めて低い。
水樹奈々はブレイクする以前から、文化放送で週一回のレギュラー番組『水樹奈々のスマイルギャング』を持っている。2002年4月放送開始で、もう10年になるラジオ番組だ。この番組で初回から水樹奈々のアシスタントを務めているのが、福圓美里である。
『プリキュア』シリーズのアフレコを担当するのは、『ドラえもん』ほどではないにしても、声優としては一種のステイタスであり、大きなキャリアになる。深夜時間帯に放送されている多くのアニメ作品が、3か月か、長くても半年で終わるのに対して、『プリキュア』は1シリーズ1年間の長期レギュラーだ。
水樹奈々もプリキュアシリーズを担当したことはあるが、福圓美里にとって今回の『スマイルプリキュア』は初めての長期間レギュラー、しかも主役担当ということで、彼女にとって人生のメルクマールといえる大事件なのだ。
最近ではあるが水樹奈々のファンになった僕として、売れない時代から『スマイルギャング』を2人3脚で続けてきた福圓美里が、TVアニメの大型作品で初の主役とあっては、観ないわけにはいかない。
そういうわけで録画してあった『スマイルプリキュア』を観た。なお『スマイルギャング』と『スマイルプリキュア』はどちらも「スマイル」で始まるが、これは偶然の一致だ。
2012/02/26放送分の一回を観ただけだが、昨年放送の『スイートプリキュア』とかなり作風が異なる。日曜日の朝は、スポーツ全般に関心のない僕にとって、『サンデーモーニング』のスポーツコーナーの時間帯に、他の局をザッピングしていると、イヤでも『プリキュア』シリーズが目に入ってしまう。
昨年の『スイートプリキュア』が思わず目に入ってしまったのは、まず、音楽を主題とするシリーズであったことと、女児向けのアニメであるにもかかわらず、ストーリーが意外に哲学的だったからだ。
例えば、極度の人見知りで友人となかなか親しくなれないキャラクター(キュアビート)を登場させることで、子供たちの決して単純ではない人間関係をきっちり描いている点。
また、敵であるはずのノイズが、自分自身の絶望が悪としての役割の自己正当化になっていることに気づくことで、最終的には日常の世界で「元」プリキュアたちと平凡な日常生活を送るようになるという、弁証法的な物語の展開など。(悪が対自によって止揚されたと読める)
女児向けアニメとはいえ、ウルトラマンや仮面ライダーといった男児向けの特撮ものと同じように、当然のことながら制作者側はすべて大人で、その時代の社会問題が作品に色濃く反映する。
今年の『スマイルプリキュア』は昨年の東日本大震災を受けて、「絆」がテーマの一つになっているらしい。
作品中に登場する「バンドエンド王国」が、人間の持つ否定的な価値の具現化になっている。例えばその王国の住人であるアカオーニ(=赤鬼)は、人と人の絆などいつかは壊れてしまうという考えからプリキュアたちと対決する。
僕が面白いと思ったのは、プリキュアの敵たちにも「バッドエンド王国」という共同体の中での生活があり、絆を否定しつつも、否定的価値観の共有することで一つの共同体を形成している点だ。アカオーニというキャラクターが自分で「鬼のパンツ」を洗濯する場面も登場する。
否定的な価値観を持つ人々にも、彼らなりの日常生活があり、彼らなりの共同体がある。『スマイルプリキュア』はそれを否定していない。
しかも悪者たちと正義の味方であるプリキュアたちの間には、敵対関係や戦闘だけでなく、不思議なことにふつうの対話も成立している。(キュアピースとじゃんけんをして負けて悔しがる等)
すると大人としては、一体なぜ主人公の星空みゆき(変身後はキュアハッピー。声は上述のように福圓美里)が全部で5人いるプリキュアを一人ずつスカウトし、悪者たちと戦う必要があるのか、疑問に感じてしまう。
プリキュアシリーズは、善悪の対立そのものが、絶対的な善と絶対的な悪の対立ではなく、特定の観点に立ったときにしか成立しない相対的な状況であることを、作品の中でバラしてしまっている。
これはプリキュアシリーズが初めて行ったことではなく、ウルトラマンの時代から子供向け特撮ものやアニメの主題になっている。
ウルトラマンや仮面ライダー、プリキュアが子供向けであり、大人には無関係だという考え方は、一見、いかにも大人らしく分別のある考え方のようだが、単にそれらの番組を見ていた子供の頃の自分が、制作者側の大人としての制作意図を理解していなかったからに過ぎない。
子供向けアニメや特撮ものをバカにしている人たちは、制作者である大人たちが込めた大人の思想や視点を見逃しているか、頭脳が子供のころから全く成長していないか、のどちらかである。
もちろん子供向けアニメの楽しみ方は、そうした物語に込められた思想だけではない。純粋に「動く絵」として観たときの演出技法を堪能する楽しみ方もある。
『スマイルプリキュア』が昨年の『スイートプリキュア』と大きく異なるのは、作品の演出全体がとにかく明るく躍動的である点だ。
そのため、特に戦闘シーンでの「止め絵」(=歌舞伎における「みえ」に該当するカット)は、ハイビジョンの16:9の画面をいっぱいに使い、超広角レンズを使ったようにパースが極端に強調された、迫力のある絵になっている。とても中学2年生の少女とは思えない力強さだ。
東映アニメだからかもしれないが、逆に戦闘シーンなどでの「動画」に特筆すべきものはない。
例えば昨年の『スイートプリキュア』もそうだが、エンディングはプリキュアたちが曲に合わせて軽快にダンスを踊る動画になっている。ところがこれが3DのCG制作で、あまりに動きがぬるぬるとなめらか過ぎて、見ていてやや気味が悪い。
エンディングは1年間使うのだから、京都アニメーションという『けいおん!』などで有名なアニメーション制作会社のように、なぜ時間をかけてでも手書きの動画にしなかったのかと思う。
いずれにせよ、子供向けのアニメは、大人たちが作ったものであり、僕のように黄金時代のハリウッドの名画や、フランスの批判的な映画、小津安二郎や溝口健二などの日本の名画を大量に観ている大人にとって、じゅうぶん鑑賞に耐える作品であることに間違いはない。
アニメを観ても子供っぽくて何が面白いのか分からないという大人たちは、単にアニメを批判的に鑑賞する能力がないだけである。

本物の合理主義は合理主義の限界をわきまえている

先日の光市母子殺害事件の死刑判決にしても、福島第一原発事故による低線量被ばくの健康被害問題にしても、議論が永遠に並行線になる2つの異なる立場がある。一つは要素還元主義的な立場。もう一つは要素還元主義的でない立場だ。
要素還元主義は、17世紀ヨーロッパ大陸で成立した大陸合理論や大陸合理主義と呼ばれる、近代科学の基礎となった合理主義が採用する方法論である。
高校時代に「倫理社会」の科目があった方はご存知かもしれない。大きな問題を解決したいとき、全体を一度に考えるのは難しいので、まず小さな問題に分割し、それら一つひとつに解答を出していくことで問題の全体を解決しよう、というのが要素還元主義だ。
僕はこの要素還元主義を、新卒で某大手電機メーカーに就職した後、新入社員研修でも教わった。当時は、大卒の学生に今さら要素還元主義を教えるとは、学生をバカにするのもいい加減にして欲しい、と思いながら聞いていたものだが。
この要素還元主義という合理主義の方法論が、絶対王政の時代に確立されていることからもわかるように、古代ギリシア哲学がすたれて、長らくキリスト教の教義が支配的だったヨーロッパ社会が、近代科学の時代に入る基礎になっている。
死刑問題の背景にある近代刑法にしても、低線量被ばくの背景にある原子物理学や疫学にしても、その根っこは大陸合理論であり、その方法論である要素還元主義だ。
ただ、忘れていけないのは、デカルトもふくめ、大陸合理論を確立した欧州の思想家たちは、大きな問題を小さな問題に分割する要素還元主義の限界に最初から気づいていた、ということだ。
要素還元主義の限界は、哲学の分野では18世紀のカントの批判哲学によって、すでにはっきり示されている。いちばん分かりやすいのが『純粋理性批判』に登場する二律背反(アンチノミー)という部分だ。
ちなみにインターネット上では、二律背反とは「矛盾」のことです、と説明している文章があるが、これはウソなのでご注意を。
二律背反とは、「宇宙は無限か有限か」という問題について、「宇宙は無限である」という前提から徹底して合理的に考えると「宇宙は有限である」という結論に達し、逆に「宇宙は有限である」という前提から徹底して合理的に考えると「宇宙は無限である」という結論に達するという事態を指している。
二律背反は、合理的思考には適用していい範囲があり、それを超えると合理的思考は自らの合理性を否定してしまうことを示している。要素還元主義の方法論を採用するかどうか以前の問題として、合理主義はこのような適用限界をもっている。
デカルトの場合「誇張懐疑」という方法論を徹底することで、合理主義の限界にすでに突き当たっていた。つまり、仮に悪魔のような存在がいて、自分の合理的思考が単に合理的だと信じこまされているだけだとしたら…という仮定だ。
なんだかこのブログを書いている時点で芸能界の話題になっている、女性お笑いコンビの「黒い方」の洗脳騒ぎみたいだけれど、デカルトは自分の合理主義を徹底させるために、あえて自分が悪魔のようなものに「洗脳」されていたら?と疑ってみたわけだ。
そこでデカルトは、いや、たとえ自分が悪魔に「洗脳」されていたとしても、どうしたって否定できないことがある。それは、自分が悪魔に「洗脳」されているかもしれない云々と「考えている」ということだ。
その帰結が有名な「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」という命題になる。この命題そのものは合理主義が妥当性であることを主張しているのではなく、合理主義的な思考や、非合理主義的な思考など、あらゆる種類の思考を支える原理を示しているにすぎない。
重要なのは、このように近代合理主義は生まれた時から自分自身の適用範囲に限界があることをはっきり自覚していた、ということだ。
つまり、合理主義はその適用可能な範囲内では論理的一貫性をもつことができるが、適用範囲外においては、合理主義は自分で自分の合理性を基礎づけることができなくなる、ということだ。
合理主義的な思考や非合理主義的な思考など、あらゆる思考を支えているのは、合理主義の「外側」にある「何ものか」だと考えたのは、デカルトのような大陸合理論や、カントやフッサールだけではない。
英米系の哲学者であるウィトゲンシュタインも、『論理哲学論考』の最期の命題を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」としている。つまり、徹底して合理的に考えると、必然的に合理主義の限界につきあたり、その「外側」については合理主義的な思考とは別の思考が必要だということだ。
僕らが暮らしている現代の日本社会は、いちおう近代合理主義を基礎とするフランスとドイツの法制度にもとづいて明治時代に制度設計され、その後、やはり近代合理主義を基礎とする英米系の功利主義的な考え方から生まれた法制度と経済制度にもとづいて作られている。
なので、今の日本社会で生じる問題を考えるにあたって、まず合理主義的な思考法を採用するのは間違っていない。ただし、最後まで合理主義「だけ」で問題を解決できるというのは、合理主義の過剰な適用である。
先日ここで、低線量地域から避難せずに住み続けろというのは、高所恐怖症の人に、絶対安全な高所に毎日上がるように強制するようなものだ、ということを書いた。「低線量放射線」という現象に恐怖を感じる人たちに対して、「それは科学的に考えると非合理的だ」と主張するだけでは、何の問題解決にもならない、という主旨だ。
「高所恐怖症の人に10mの飛込み台に登る日課を義務づけてみよう」(2012/02/14)
低線量被ばくに市民が「恐怖」を感じるのは、合理主義者たちがよく言うように、市民が十分に合理的でないからではない。そもそも「恐怖」とは合理的思考の結果ではなく、感情だからである。
「恐怖」という感情について、要素還元主義的な合理主義者は「恐怖」の感情が発生する合理的な原因と、非合理的な原因を分けて考える。
そして、非合理的な原因は「恐怖」を感じている本人が、単にじゅうぶん合理的でないためであり、きちっと教育・啓蒙すれば解消され、他方、合理的な原因については、合理的な方法で取り除くことで、結果として「恐怖」は両面から解消される。
これが要素還元主義的な合理主義者の思考のパターンである。こうした要素還元主義的な合理主義は、問題解決の役に立たない。
合理主義の適用範囲を超えているためだ。「恐怖」の事例でいえば、「他者」の内側にある「恐怖」感情を、「外部」から合理主義的説明を与えることで消し去ることができるというふうに、合理主義を適用範囲をこえて適用しているためだ。
そこで、要素還元主義的でない、別の種類の合理主義的思考が必要になる。
それは「恐怖」といった感情の問題を、合理的な因果関係(=啓蒙が足りないから怖がる、原因物質が存在するから怖がる等)だけで解決できないとする合理主義だ。典型的には社会学や心理学である。
これら別種の、要素還元主義的でない合理主義では、「恐怖」が存在し、要素還元主義的な合理主義では解消されないという前提から出発する。
そして、地域共同体や市民と専門家との関係など、社会的資源として利用できる人と人との関係を使って、「恐怖」を解消することを目指すのではなく、何とか我慢できるレベルにおさえることを目指す。
死刑問題についても同じことが言える。
要素還元主義的な合理主義は、たとえば「死刑制度の存廃問題と、冤罪の可能性は別問題だ」というふうに、死刑に関連する問題を切り分け、個々の問題について合理的に結論を出すことで、最終的に死刑問題の全体に結論を出せるとする。
要素還元主義的な合理主義者は「味噌もクソもいっしょにして」問題を論じることを拒否するが、いったん問題を小さな問題に細分化すると、細分化された問題から全体を再構成するときに、小さな問題のどれをどこに位置づけるかについて一定の判断が入る。
なぜなら、どのように全体を再構成するのが合理的かについて、合理主義者はさらに別の論文などを参照して根拠づけるか、小さな問題の内部に適切な再構成の根拠が内在しており、それを読み取るだけでいいと主張するか、このどちらかしかない。
ただ、別の論文などを参照すれば、多数存在する論文のうち、その論文を選択した合理的な根拠をさらに示す必要があり、以下、無限にこの手続のくり返しになる。
また、論証の対象である問題そのものに、最初から全体を再構成するための根拠が「内在」しているなら、そもそも問題を細分化する必要はないが、その内在している根拠は誰が埋め込んだのかという疑問に答えられない。
このように、要素還元主義的な合理主義は、全体を部分に分割するときの仕方や、部分から全体を再構成するときの仕方が、合理的であることを根拠づける必要があるという、循環論法に陥る。
要素還元主義的な合理主義は、徹底して主観性・恣意性を排除しようとするが、結果、循環論法におちいるか、ウィトゲンシュタインのように「沈黙」することになる。主観的な選択を、純粋に客観的な選択(そんなものが存在するとして)だと主張するのは、端的に誤りだからだ。
死刑問題にしても、低線量被ばくの健康被害の問題にしても、あえて循環論法を延々と展開したり、「沈黙」したりするのも一つの主観的な選択としてあり得るが、具体的な対策に結びつかない。
要素還元主義的な合理主義の限界をすでに知っている人に対して、あたかも合理主義が主観性を完全に排除できるかのように議論するのは、単なる無知だし、要素還元主義的な合理主義が何かを知らない人に対して、あたかも合理主義が主観性を完全に排除しているかのように議論するのは、単なるウソつきか、たちが悪ければ「洗脳」になる。
客観性の権化であるかのように言われる科学でさえ、人間の社会がこの世界全体について持っているさまざまな世界像の一つでしかない。他の自然科学や社会科学もすべて、人間が世界について持っている世界像のうちの一つでしかない。
極端に言えば、人間は猿から進化したのではなく神が創り給うたものだという世界像も、人間が世界について持っている世界像の一つとして存在している事実は事実として、合理主義者といえども否定できない。
自然科学、哲学、社会学などなど、人間のいかなる思想も諸学も、世界全体についての妥当性を主張することはできない。どのように思考しても何らかの「外部」が残ってしまうことは、ウィトゲンシュタインでもデリダでもゲーデルでも誰でもいいが、徹底的に合理的に考えた思想家が認めている。
それら諸学の中で、合理主義だけが世界全体について妥当性を主張できるという考え方が存在するのは事実だが、それは、人間は神が創り給うたものだという考え方と同じ資格で、この社会に存在しているに過ぎない。

安冨歩『原発危機と「東大話法」』を読んだ

安冨歩著『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』(明石書店)を読んだ。

本書は東京大学教授である著者が、これまで原子力発電を推進してきたり、福島第一原発事故後も原子力の安全性を主張したりしている、主に東京大学出身の学者たちの「傍観者」性や「欺瞞」性を論じている。もちろんその矛先が著者自身にも向けられていることを、著者は自覚している。
本書の白眉は、香山リカの小出裕章助教批判や、池田信夫の原発に関するブログ記事が、いかに「東大話法」的かをこと細かに論証している部分にある。
後半の第4章、第5章については、人によって見解は分かれるだろうが、前半の香山リカや池田信夫の「東大話法」の検証部分は、ご自身で読まれるのがいちばん面白いと思うので、ぜひ手にとってお読みいただきたい。
また、あとがきによれば、どうやら本書に収まりきらない部分(原発推進の国策と田中角栄的なるものの関連性など)があったらしく、それは後日、別の書物として出版されるそうだ。そちらも楽しみである。
さて、僕のこのブログでは「東大話法」の規則として筆者の安冨歩氏が挙げている項目が20個と、やや多すぎる感があるので、あえてもっとコンパクトにしてみたい。「東大話法」として著者があげているのは以下の20の規則である。
なお、この規則だけを読んで『原発危機と「東大話法」』を読んだ気にならないで頂きたい。くり返しになるが本書の最も面白い部分は香山リカと池田信夫の具体例の分析である。

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
規則14 羊頭狗肉。
規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

では、これら20個の規則を、以下、コンパクトにまとめる努力をしてみる。
規則1、2、19は、著者の非難する日本人の「立場主義」に関するものだ。
「立場主義」の詳細については、安冨歩氏が本書の第4章で「立場」という言葉の語源から始めて、近代以降、夏目漱石の小説にあらわれる「立場」という言葉の意味の変遷を事例に、どのように現代の意味になっていくかを跡づけている。直接お読みいただきたい。
「立場」とは自分の所属する組織における「立場」のことで、それに反する言動をとると、組織における「立場」を失うことになる。日本人は個人的信念を横において、あくまで組織内の「立場」に沿った言動をとることを優先しがちだ。
規則19は、個人の良心や主張より、組織内部で自分の「立場」を守るために必須の行動規範といえる。八方美人的な態度をとれば個人の主張に一貫性はなくなるが、組織内での自分の「立場」は安泰だ。
したがって規則1、2、19は「個人としての良心より組織の目的を優先させる」とまとめられる。
単に「意見」ではなく「良心」という言葉を使うのは、その人なりの倫理観という意味合いを含めたいからだ。組織上の「立場」を守るために、その人が本来もっていたはずの倫理観まで捨ててしまっているように見える事例を、僕らはたくさん見て来ている。
次に、規則3、4、13は、いずれも議論の枠組みや範囲を死守し、他人に変更させることを許さない態度を示している。つまり「議論の枠組みの変更を拒絶する」とまとめられる。
社会に存在するさまざまな問題は、それ単独で存在しているわけではなく、他の問題との関連性の中でしか位置づけられない。その問題だけ取り出せば純粋に原子物理学の問題であっても、その問題は人々にどのように受け取られるかによって、社会学の問題にもなる。
そのように、ある問題についての議論は、枠組みを特定の学問分野や、特定の空間・時間に限定することなく、枠組みを移動したり広げたりすることで、初めてより普遍的で妥当な議論になる。
議論の枠組みの変更を拒否するというのは、その議論に対する新たな立場からの批判や検証を拒絶するのと同じことだ。
次に、規則5、6、7、10、11、12、16、17はすべて、その場その場での(アドホックな)自分自身の印象操作、自己演出のことを言っている。場面によって自分をどう見せれば、自分の議論を通すことができるか、についての規則だ。
こうした印象操作や自己演出は、議論の中身が妥当かどうかと全く無関係におこなうことができる。極端な話、自分の議論の内容が完全なデタラメであっても、自分が他人にあたえる印象をうまく操作し、自分で自分を演出することで、議論があたかもまともであるかのように見せることができる、という規則になっている。
これらは「単なる偽装」「単なる恫喝」「情報の非対称性の悪用」の3種類に分類できる。「情報の非対称性」という言葉については後で説明する。
規則5、7、12は「単なる偽装」にあたる。ただし、偽装が偽装として成り立つためには、偽装であることがバレてはいけない。「東大話法」においてそれをバレなくさせているのは、「東大教授」など、話者の肩書きである。
こうした肩書きをつかってムチャクチャな議論を、あたかも妥当な議論であるかのように偽装する方法は、テレビなどのマスメディアが情報バラエティー番組で日常的に行なっている。健康食品の効果を説明するのに、大学教授を出演させるなどである。
なのでこの「単なる偽装」については、どちらかと言えば、「大学教授」といった肩書きだけで安易に納得してしまわないように、情報の受け手側がだまされない努力をする必要がある。
いわゆる「情報リテラシー」を身につけ、たとえ権威ある学者や、大手新聞社、全国ネットのテレビ局、大企業の経営者が言っていることであっても、鵜呑みにしないことだ。
そして規則6、10が「単なる恫喝」にあたる。これは理性的な議論以前の問題で、議論の相手や聴衆に恐怖の感情を引き起こし、こちらの議論の中身について真剣に考え続けるよりも、素直に従ったほうが楽な状況を作り出す方法だ。
ただし、これが有効であるためには、ある程度、頭数が必要になる。多勢に無勢では恫喝そのものが成り立たないので、自分の支持者が一定数存在し、自分の意見に反対する人間を恫喝してくれる状況が整わないと、この「単なる恫喝」は実行できない。
「東大話法」における恫喝のポイントは、相手に効果的に精神的ダメージを与えることができる「手先」を、いかに多く自分の支持者にできるかにかかっている。罵詈雑言が得意な「チンピラ」をたくさん仲間にしておけば、自分は安全な場所にいたまま、「チンピラ」たちが勝手に反対派への恫喝をやってくれる。
ツイッターである人と真剣に議論しているのに、横から突然、議論と全く関係のない個人攻撃をしてくるような人間が「チンピラ」にあたる。
残りの規則11、16、17が「情報の非対称性の悪用」にあたる。これは学者の職業倫理としては最も卑劣な方法だろう。
「情報の非対称性」とは、ある事柄について一方が他方よりも圧倒的に多くの情報や知識を持っている状況のことだ。
ある学問分野について専門的に研究してきた学者が、一般市民より圧倒的に多くの情報や知識を持っているのは当然だ。その当然の結果を、自分の意見をより堅固なものにすべく、批判をうけ入れるために使うのではなく、自説への反論を封じるために使うのは、学者として最も卑劣な態度と言える。
ここまでをまとめると、次のようになる。
(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)
残りは規則8、9、14、15、18、20だ。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
規則14 羊頭狗肉。
規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

このうち、規則8、9、15、20は、すべて「相対主義の悪用」にあたる。
相対主義とは、世の中にはさまざまな意見があって、そのうちどれが絶対に正しいということは誰も断言できない、という考え方のことだ。
自分の議論により説得力を持たせるには、世の中にはさまざまな意見があり、自分はそれらの意見を公平に検討しましたよ、というフリをするのが効果的だ。
さまざまな意見を検討した上で、自分はこの意見にたどり着いたという具合に、いったん相対主義をくぐり抜けましたよ、という演出をすれば、自分の議論により説得力が出る。
その「多様な意見を検討した」というアリバイづくりが規則8である。規則8における発言者のレッテル貼りは、それほど敵意むき出しでやらなくても、冷静に行うだけで、自分がさまざまな意見の検討を経ているかのような演出は十分に成り立つ。
規則9は、自分の意見が誤解をうける可能性があることをあえて言うことで、自分の意見が聞き手にどのように受け取られるか、それによってどのような反論が出てくるかまで、あらかじめ検討済みですよ、というフリをしている。
規則15は、自分を批判する演技を見せることで「この人は自分自身の意見をも相対化しているのだ」という印象を与えることができる。
規則20は、「もし○○であるとしたら」とあえて発言することで、自分が「○○である」場合も想定したことを主張している。自分がさまざまな反論の可能性をすでに検討していますよ、と主張することで、自分の議論の妥当性を印象づけることができる。
このように、自分の意見を自分で相対化するフリをするのは、自分の意見に説得力を持たせる効果的な方法だ。謙虚さを重んじる日本人にとっては、自分の意見を相対化する、つまり、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」と認めて見せることによって説得されやすい。
さて、残るは規則14、18だ。
まず規則14は、安冨歩氏の著書では、文章にわざと論旨と無関係な題名を付けることを指している。論旨に沿った題名をつけると、読み手は文章を読む前に身構えてしまう。するとまっとうな反論をされるおそれがあるので、わざと論旨と無関係な題名を付ける。それが規則14だ。
これと規則18も同じ効果をねらっている。自分の主張を一つひとつ着実に根拠づけていくような議論の展開をすると、それだけ読み手に反論の機会を与えることになる。逆に、自分の主張と直接関係のない議論を延々とやった後に、突然、自分の結論を書く方が、相手の反論を避けやすい。
この2つの規則は手品師がよく使う手だ。観客の注意を別のところにそらしておき、そのスキに手品のタネを取り出すという具合だ。かなり稚拙な手段とも言えるが、ここでは単に「相手の注意をそらす」とまとめてみる。
これで「東大話法」の規則を、かなりコンパクトにまとめられたと思う。
(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)
(6)相対主義の悪用 (規則8、9、15、20)
(7)相手の注意をそらす (規則14、18)
こうすることで「東大話法」にだまされない方法も考えやすくなる。つまり、例えば次のようなものだ。
(1)その人個人の倫理観が見えづらくされていないか。
(2)議論の枠組みを広げられることに抵抗していないか。
(3)自分の肩書きを利用したり、別の権威を援用していないか。
(4)自分の支持者であっても、恫喝的な人物がいれば非難しているか。
(5)一般人に向けた文章で専門用語や複雑な数式を濫用していないか。
(6)相手の批判や誤解をすでに分かっているかのようなことを、無根拠に言っていないか。
(7)突然話が変わる箇所が多すぎないか。
7つくらいなら何とか覚えられるのではないかと思い、大きなお世話ではあるがコンパクトにまとめてみた。
ただし僕自身、東京大学出身なので、このブログ自体にも「東大話法」に当たる部分があるかもしれない。実際、自分で過去の記事を読むと、かなりの記事に「東大話法」が含まれていることに気付かされる。「東大話法」あなおそろし。

深夜時間帯アニメ作品の多様性

TVアニメ『侵略!?イカ娘』のオリジナル・サウンドトラック2のジャケットが面白い理由が分からない人がいるといけないので、比較画像をアップしておく。
Ikamusume_ost2
要は1990年代にカリスマ的な人気を誇ったロックグループ、ニルヴァーナの大ヒットアルバムのジャケットのパロディでした、というわけだ。
ところで『侵略イカ娘』というTVアニメだが、単なる「スクール水着少女萌え」作品だと完全無視していたが、実際見てみると意外に良かった。
24分間に3つのエピソードからなるという、番組フォーマットとしては『サザエさん』と同じで、脚本の内容も実は『サザエさん』なみに平凡な笑いに満ちている。
深夜時間帯に放送されているアニメを、生まれて初めて、ここ半年くらい集中して見ているが、ほとんどの作品には男性視聴者をひきつけるための「釣り」要素として、エッチな場面が散りばめられている。女性の水着姿や入浴シーン、なぜか途中で半裸になる変身シーンなどだ。
『イカ娘』もオープニングに、主人公のイカ娘の水着シーンはあるが、本編で「釣り」としてのエッチな場面が出てくることはほとんどない。
『イカ娘』の物語はよくある貴種流離譚のコメディ版だ。異界人が突然、人間のごく普通の日常生活に放り込まれ、あたふたしながら人間たちとの親交を深めていくという、心温まるな物語である。
当然、深夜時間帯のアニメということで、オタク向けの設定や引用は随所に散りばめられている。例えばイカ娘に「百合萌え」している女子の登場人物など。
それらをはぎ取ると、NHK教育テレビ(ETV)で放送してもいいのではないか、というくらい、『イカ娘』はほのぼのしたエピソードばかりだ。
些細なことからいがみ合ってしまった友だちどうしが、実はお互いのことを大事に思っていることに気づく、とか、平凡な日常の風景に自然の美しさや小さな冒険を見つける幸福とか、意外に普遍的なテーマが『イカ娘』のエピソードの背骨になっている。
もちろんイカ娘という可愛らしいキャラクター設定の妙もあるが、この作品の本質は何よりも脚本の良さにある。40男が不覚にも泣いてしまうエピソードもある。
「スクール水着少女萌え」という外見のせいで、この『侵略イカ娘』という作品が、深夜時間帯アニメファンのものだけになっているのは、かなり惜しい気がする。
ところで、深夜時間帯アニメのファンにとって、この種の「癒し系」作品が必須であるということは、他の深夜時間帯アニメを見ると分かる。
戦闘シーンで大量の血が噴き出すような「グロ」作品や、他人を身体的・心理的に虐待することを好むキャラクター、神経症のキャラクターなどが登場する「メンタル系」物語など、とにかく「精神衛生上悪い」作品が多い。
最近ではアニメ版『ブラックロックシューター』や、『未来日記』。その他『魔法少女まどかマギカ』や『輪るピングドラム』も後半になるほど神経症的な物語になった。
そういうものばかり見ていると『日常』や『イカ娘』、『けいおん!』『らきすた』『キルミーベイベー』といった「癒し系」アニメ作品を見ずにはいられなくなるのだ。
癒し系作品とは別に、『TIGER&BUNNY』や『輪廻のラグランジェ』など、友情というテーマを軸に視聴者を引きこむ「元気系」アニメ作品もある。その他、ほぼ純然たる「エロ」アニメもある。
今の日本のアニメは、そうした多様な性格をもつアニメ作品群がお互いを補完する一つの大きな体系を形成することで成り立っている。海外での日本のアニメ作品受容も、個別作品というよりは、その体系全体が受容されていると思われる。
ところが、深夜時間帯のアニメを見たことがない人は、一部の「エロ系」作品のせいで先入観をもち、多様なアニメ作品の全体を否定し、最初から見ようとしない。それが個人的には非常にもったいないなぁと思う。
少しでも興味を持たれた方は、バンダイチャンネルで、月額1,000円でほとんどの作品が見放題になっているし、第1話限定で無料という作品も多数あるので、ご覧になってはいかがだろうか。
『侵略!?イカ娘』第1話(視聴無料)

高所恐怖症の人に10mの飛込み台に登る日課を義務づけてみよう

細菌性急性胃腸炎から復帰したばかりの僕だが、38度の発熱で苦しむ前に、書こうと思っていた記事を書く。
福島第一原発事故による線量は、科学的にみて健康被害がないことを、この際、認めてしまおう。それでも「だから福島に戻ってきても大丈夫です」という言説に、まったく説得力がないことを、以下に論証してみる。
高所恐怖症の人たちがいる。僕も少し高所恐怖症ぎみだが、飛行機に乗れないほどではない(僕が飛行機に乗れないのは閉所恐怖症だから)。
さて、高所恐怖症の人は「高所恐怖」カルトに洗脳された結果、高所恐怖症になったわけではない。原因ははっきりしないが、物心ついたときから高い場所が怖かった、としか言えない。トラウマ体験みたいなものが、明確な人もいるだろうけれど。
さて、高所恐怖症の人に、例えば毎日高さ10mのプールの飛び込み台に登ることを日課にする生活を強制したとしよう。
飛び込み台が突然くずれ落ちるなんてことは、科学的に絶対ありえない。なので、高さ10mの飛び込み台に毎日登ることを日課にした結果、死ぬなんてことは、科学的にありえない。
高い所が平気な人にとってはむしろ、毎日一回、見晴らしのいい高台に立てることはいい気分転換になるかもしれない。
しかし高所恐怖症の人たちにとっては、毎日10mの飛び込み台に登らなければいけない生活は、苦痛以外の何ものでもない。そんな生活から逃げる手段があれば、当然のことながら逃げるだろう。
そんな高所恐怖症の人たちに対して、
「10mの飛び込み台は科学的に絶対崩れることはないので、死ぬこともない。にもかかわらず飛び込み台に登る日課から逃れるというのは、非科学的かつ非合理的な行動だ」
とか、
「そのために故郷の土地を捨てるのは非倫理的だ」
とか、
「自分の子供が高所恐怖症であっても、毎日10mの飛び込み台に登らせるのが親の義務だ」
などと意見するのは見当違いもはなはだしい、というか、頭がどうかしている。
同様に、現状の放射線量で健康被害が起こる可能性がなくても、それを恐怖に感じる人が出てくるのは仕方ない。東京都知事がそれを「単なるセンチメント」だと言うなら、センチメントのない人間など一人もいない。
放射線恐怖症も、言ってみれば高所恐怖症みたいなものだ。
科学的に安全性が証明されているからと言って、怖いものは怖い。別に放射線危険カルトに洗脳されたわけでもないが、どうしたって不安は残る。これは理屈の問題ではなく、感情の問題だ。
そういう人間に対して、いったい誰が「科学的には安全なのだから怖がるな!」と、怖がらないことを強制できるだろうか。
トマト嫌いの人に健康に良いからと無理やりトマトを食わせるとか、学校の黒板を爪でひっかく音が嫌いな人に毎日10分無理やりその音を聞かせるとか、科学的に健康に害がなくても嫌なものは嫌、というのは、ごくごく普通の人間的な反応ではないか。
福島の放射線レベルを「非科学的に」怖がって「過剰」に避難している人々を、暗に非難している人たちは、自分たちはそういう恐怖症や、食べ物の好き嫌いといった、いわゆる「生理的にダメ」なものが一つもないと言い切るつもりだろうか。
健康に無害なレベルの放射線を怖がる人々は、そのほとんどが、東日本大震災後、突然、放射線有害カルトに洗脳されたからではなく、もともと「放射能」や「放射線」というものが漠然と怖かっただけ、と考えるのが自然だ。
まるですべてが東日本大震災後に出現した、放射線有害カルト集団の洗脳の効果であるかのように論じるのは、誇大妄想というか、国民をバカにし過ぎというか、カルト集団の洗脳力を買いかぶりすぎというか、議論として不自然である。
でも、こう書いたところで、福島放射線安全派は、福島の「過剰避難」を徹底的に非難し続けるだろうけれど、まあそれはそれで人間の「センチメント」だから仕方ない。