月別アーカイブ: 2012年1月

ツイッターの終わりの始まり

ツイッターがなんと、国別に別々の基準でつぶやきの検閲ができる機能を実装したことが話題になっている。というか、大ブーイングをくらっている。
きっかけはツイッターの公式ブログの記事「Tweets still must flow」(2012/01/26 twitter blog)
以下、試訳してみた。1年前の記事に書かれていたツイッター社のビジョンに比べると、明らかに個人の言論の自由の尊重という面で後退している。
ツイッターが国別のコンテンツ規制に踏み切ったことで、一つ言えるのは、YouTubeに対するDaily Motionのように、よりリバタリアニズム的な同種のサイトが成長する絶好の機会になるだろうということだ。
始まりはお気楽なリバタリアニズム的(=なんでもあり的)発想だったものが、企業として成長すると、事業の継続が最優先事項になり、とつぜん国家権力にひれ伏してしまう。お決まりのパターンだと言えばそうなのだが、まことに残念きわまりない話ではある。

1年前、『つぶやきは流れなければならない』という記事で次のように書いた。
「オープンな情報の交換は世界にプラスの影響をあたえることができる…世界のほとんど全ての国が表現の自由を人権と認めているが、多くの国は表現の自由には責任がともない、制限もあると認めている」
私たちは世界各国で成長しており、表現の自由の範囲にさまざまな考えを持つ国と出会うだろう。中にはあまりに私たちと考えが違いすぎて、とどまることができなかった国もある。私たちと考えが似ているけれども、フランスやドイツのように、ナチス擁護のコンテンツを禁止しているなど、歴史的、文化的な理由で、ある種のコンテンツを制限していることもある。
今までのところ、こうした国の制限を考慮するには、コンテンツをすべて削除するしか方法がなかったが、本日から、特定の国の利用者に対してのみ、要望に応じてコンテンツを制限する機能を作った。他の国の利用者からは、それらのコンテンツは閲覧できる。また、利用者に対してそのコンテンツがいつ、なぜ制限されるのかを、透明性をもって伝える方法も確立した。
私たちはまだこの機能を使っていないが、特定の国で、あるつぶやきを制限するように求められれば、利用者に知らせる努力をした上で、いつからそのコンテンツが制限されるかを明示するつもりだ。この透明性確保の一部として、「チリング・エフェクト」サイトと提携し、次のページ http://chillingeffects.org/twitterを公開している。このページはツイッターについての周知事項を見つけやすくするためのものだ。
ヘルプの中にある、ポリシーについてと、アカウント設定についてのページに、より詳細な情報がある。
企業としての私たちの核となる価値は、利用者どうしの声を守り、尊重することだ。私たちはいつでもどこでも、できる限りコンテンツを守ろうと思っている。そしてそれができない場合は、利用者に対する透明性を確保するつもりだ。つぶやきは流れつづけなければならないから。

客観性を標榜する池田信夫は責任論に口を挟むな

福島第一原発事故による被ばく量を、喫煙や生活習慣病などの他のガンの原因と比べるのは、「客観的な科学者」の常套句だ。
でも疫学的な確率論を持ち出すのは、「どうせガンで死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」と言っているのと同じ。
日本では、福島第一原発事故による被ばくより、自殺で死ぬ確率のほうが高いので、「どうせ自殺するんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」と言っても、同じことになる。
以下、同じ例はいくらでもあげられる。
「どうせ交通事故で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ通り魔事件で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ正月に餅を喉につまらせて死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ熱射病で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ雪下ろし中の事故で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ新歓コンパの急性アルコール中毒で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ某宗教団体の某化学物質大量散布事件で死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
「どうせ医療ミスで死ぬんだから福島事故の被ばくなんて無視できる」
死因に確率論を適用するのは科学的には正しい。しかし、実際に人が死んだ場合、一貫して確率論で死因を語ることによって、科学者は個別の死についての責任を負わずに済む。
例えば、一貫して確率論を持ち出す科学者は、100万分の1の確率とされる事象にたまたま当たって死んでしまった人について、科学的には「運が悪かっただけ」と論じる。これは科学的には完全に正しい。
確率論は、個々の事象の発生について、あらゆる恣意性を排除しなければ成立しない。例えば「神様のせい」など、そういった恣意的な説明づけを一切排除したところに初めて成立する。
つまり、確率論は個々の事象についての「社会的責任」の議論をあえて排除しなければ、客観的な化学として成り立たない。本質的にそういうものなのだ。
なので、客観性を標榜する科学者が、福島事故の被ばくについて客観的かつ科学的な議論をするのは全く問題ないのだが、だからと言って、個々の事象が起こった時に誰が責任をとるかの「社会的責任」の議論が免除されるわけではない。
もっと言えば、客観性を標榜する科学者たちは、原理的に「社会的責任」の議論に参加する権利はない。なぜなら、科学の客観性とは、個別の事象を特定の原因に帰属する恣意性を排除して初めて成り立つからだ。
しかし「社会的責任」を論じるときに、具体的な事象がまだ起こっておらず、起こるかもしれない、というケースがある。福島第一原発による健康被害はこのケースにあたる。
現実の社会は、まだ具体的な事象が起こっていないからといって、その事象が万が一起こった場合の責任者を明確にしておかないと、残念ながら回らない仕組みになっている。
まだ起こっていない事故についても、もし起こったら誰が責任をとるかを明確にしておかないと、現実の社会は回らないのだ。
しかし、純粋に客観的な科学は、まだ起こっていない事象について、誰が原因を作ったかを客観的・科学的に議論することはできない。なので責任の帰属についての議論では、科学者は完全に無力である。
したがって、客観的な科学者は、任意の福島県民が将来ガンにかかった場合、「その原因が福島原発事故である可能性は低い」と言うことはできるが、まず科学の水準で「その原因は福島原発事故ではない」と断言することはできない。
さらに、科学の水準をはみ出して「東京電力に責任はない」とか、「無駄な避難をさせた政府に責任がある」とか、責任の帰属について論じることは、原理的に不可能だ。
客観的な科学を標榜する池田信夫のような人たちが言うことが出来るのは、せいぜい次のようなことだけだ。
「無駄な避難をさせた政府に責任がある可能性が高い」
「原発を運営している東京電力には責任がない可能性が高い」
「大規模な除染事業をした政府に責任がある可能性が高い」
客観性を標榜する科学者たちは、とにかく「誰が責任をとるべきか」という議論に口をはさまないで頂きたい。
彼らは確率論的な客観性しか議論できないので、何一つ断言できないし、断言できないということは自分たちで責任をとるつもりも毛頭ないし、他人に対しても責任を取れという論理的な権利がそもそもない。

シャープの轍を踏む東芝の「BookPlace」

東芝が発売する電子書籍端末「BookPlace DB50」、この強い既視感はいかんともしがたい。
シャープが芥川賞作家の平野啓一郎を招いて、電子書籍端末「GALAPAGOS」を大々的に発表したのは2010/11/29のことだった。
『シャープ、作家の平野啓一郎氏を招き「GALAPAGOS」イベントを開催』(2010/11/29 PC Watch)
正確にはもう少し前に「GALAPAGOS」は発売されていたが、それを平野啓一郎という若手純文学作家をダシに、端末機器の性能だけでなく、配信されるコンテンツ面からも力を入れますよ、というシャープのアピールだったと思われる。
しかし、純粋な電子書籍端末としての「GALAPAGOS」が大失敗に終わったのは、周知の事実だ。
そして東芝は、あれから1年強しか経っていないのに、同じ過ちをくり返そうとしている。
『東芝、電子書籍専用端末「BookPlace DB50」リリースの理由』(2012/01/26 19:00 IT Media)
さすがに純文学作家の平野啓一郎では、「平野啓一郎。誰それ?」という一般人に訴求しないと思ったか、「キレイどころ」の東京大学卒女性タレント・三浦奈保子と、より柔らかい作風の大衆小説家・井沢元彦の二人をそろえた。
東大卒の女性タレントと大衆小説家をゲストに呼ぶ時点で、すでに「電子書籍はコンテンツ次第で端末機器はどーでもいい」ということを、東芝は完全に見誤っている。
まず、この「BookPlace DB50」が情報端末としてどこまでのことができるかは、以下のGIGAZINEの記事が詳しい。
『東芝の電子ブックリーダー「ブックプレイス(BookPlace)DB50」で何ができるかまとめ』(2012/01/26 15:46:17 GIGAZINE)
Android端末としては使えないので、せっかくのWSVGA液晶やmicroSDカードスロットが、ほぼ完全にムダなスペックであることがわかる。まさにシャープが大失敗した最初の「GALAPAGOS」と同じ考え方で作られた製品だ。
では東芝は何で差別化しようとしているのかといえば、価格であって、価格しかない。
実売価格はネットの各種記事によれば22,000円前後になり、BookPlace専用の電子書籍販売サイトの5000円分ポイントが付いてくるらしい。それでも米国Kindle Fireより高い。
しかし、そもそもシャープの「GALAPAGOS」が大失敗し、ソニーの「Reader」がヒットしない根本原因は、価格ではない。日本の書籍流通が旧態依然たる構造になっていて、電子化される書籍にろくな本がないからだ。
「GALAPAGOS」発売のときにも同じことを書いたような気がするのだが、ゴミみたいな本しか読めないことはBookPlace専用のコンテンツ販売サイトに接続して、例えば「文学」や「ビジネス・社会・IT」、「ノンフィクション・ドキュメンタリー」をクリックしてみるといい。
まず、池田信夫氏に敬意を表して池田信夫著の書籍を検索すると、4件しか出てこない。あの多作の宮台真司にいたってはたったの5件。なんじゃこれは。
しかも、例えば最近、書店で平積みになっている池田信夫氏の新刊『イノベーションとは何か』は1,600円。
Amazon.co.jpで紙の『イノベーションとは何か』を注文すれば2,100円で翌日に届き、読み終わったら同じくAmazon.co.jpで古書として売り払えば、差し引き実質500円くらいで読めるだろう。ブックオフに売っても実質1,500円くらいでは読めるはずだ。
それに対して、BookPlaceで同書を購入してしまうと1,600円かかり、古書として売りさばくことさえできないどころか、自分のPCやスマホで読むことさえできない。
同じことは、現在日本国内で販売されている全ての電子書籍端末に当てはまる。この状況で電子書籍を購入する人は、金があり余ってどうしようもない人か、経済観念のまったくない人だろう。
いい加減、シャープ、東芝、ソニーなどなど、国内の電機メーカーは、日本国内の紙の書籍流通の現状を無視して、電子書籍がビジネスとして成立するという大いなる勘違いをし続けるのはやめたらどうか。

池田信夫が無視する「科学的合理性」と「政治的合理性」の違い

昨日(2012/01/19)のニコニコ生放送の『ニコ生アゴラ「放射能はそんなに危険?原発のリスクを考える」池田信夫×澤昭裕×高田純×松田裕之』を見て、池田信夫の限界が分かったので書いてみる。
この番組の主旨は、福島のほとんどの地区の現状の放射線レベルは、健康に影響がないというものだ。池田信夫は一貫してブログやツイッターで、そのように主張しているが、なぜ多くの日本人にその認識が広まらないのか、考えてみた。
その結果、池田信夫の議論の限界が分かった気がした。
それは、合理性には、「科学的合理性」の水準と、「政治的合理性」の水準がありが、池田信夫は一貫して「科学的合理性」の範囲内でしか語っていないことである。
以下、ていねいに説明してみたい。

1.科学的合理性の水準

まず池田信夫が言うように、福島第一原発の事故は「終わった」ものと仮定する。
じっさいには、原子炉の廃炉作業がこれから数十年にわたって続き、作業ミスや台風、余震などの自然災害による二次災害のリスクは十分に考えられ、とても「終わった」と言えない。
しかし池田信夫の言うように「終わった」、つまり、現状より放射性物質の飛散が増加することはないと仮定する。
その上で、上記のニコニコ生放送の番組に出演していた学者たちも言うように、原発周辺を除く福島のほとんどの地区の放射線レベルは健康に影響がないと認めよう。
ただし、ここでいう「健康に影響がない」というのは、広島、長崎、チェルノブイリなどの被曝者の疫学的調査に基づき、統計学的に作成された基準により、福島原発事故による将来の健康への影響を確率的に予測した、という意味だ。あくまで確率論である。
つまり、例えば福島のある住民が10年後にガンになったとき、「それは原発事故のせいです」と100%断言することはもちろんできないが、「それは原発事故のせいではありません」と100%断言することもできない。
ただ、原発事故が原因ではない確率が、限りなく100%に近い、と言うことはできる。これが池田信夫の主張だと思うし、僕もここまでは科学的に合理的な説明として納得できる。
(もちろん、そもそもICRPが基礎資料にしている広島、長崎の疫学的調査が、肥田舜太郎氏の言うように原爆投下後5年間の「空白」があったり、米国政府による隠蔽工作があるなど、本当に信用できるかという問題はあるが、ここでは無視する)

2.科学的に合理的な市民という想定

次に、そのような科学的に合理性のある主張を聞いた福島の市民が、どう行動するのが合理的かを考えてみる。
福島に住み続けて、仮に将来ガンになったとしても、それが原発事故のせいだと100%断言できないし、原発事故のせいでないと100%断言することもできない。ただし、原発事故のせいでない確率が100%に限りなく近い。
もちろん、生活習慣や喫煙・飲酒など、他の要素の方が、はるかにガンにつながる確率が高いので、事実上、原発事故による影響は無視できる。
しかし、ここでは池田信夫の信条にのっとって、徹底して合理的に考えたい。
ガンの原因が福島事故である確率をゼロだと断言できない。もしゼロ%だと断言してしまうと、徹底した合理主義者から見れば、単なるインチキ予言者になってしまう。
そこで、徹底して合理的な市民は、ガンになる確率を少しでも下げる避けるために、自分の意思で排除できる原因は排除しようとする。まず生活習慣を改める、喫煙をやめる、飲酒は適度にする、などなど。
同じように、放射線レベルが福島より低い地区があり、そちらへ移住するコストを負担できるとすれば、原発事故がガンの原因になる確率がゼロ%だと断言できない以上、移住することを選択するのが合理的だ。
周囲から福島事故の安全性を強調されようが、危険性を強調されようが、それらの議論と無関係に、「確率がゼロではない」という合理的判断のみに基づいて、移住を選択するはずだ。
問題は、徹底して合理的に考える能力はあるが、「そんな小さな確率のために移住するコストなど負担できない」という市民の場合だ。
市民のコスト負担能力、つまり、所得水準や、福島以外の土地に親戚・友人がいるなどの人脈のバラツキについては、ある程度「自己責任だ」とする合理的な議論は成り立つ。
しかし原発事故について、「あなたが福島に住んでいた責任だ」とするのは合理的ではない。福島の住民に将来起こるかもしれない原発事故の規模について、現実に事故が起こる前に、100%確実な情報を提供することは合理的に不可能だからだ。
つまり、原発事故が起こる確率がゼロでないことを知った上で福島に住んでいても、その事故が、既存の放射線防護基準にてらして、福島を出なければいけない規模になるかどうかは、誰も100%の確度で予測できない。
移住が不要な事故にとどまる確率が100%だと断言したとたん、それは科学的合理性ではなく、インチキ予言者になってしまう。

3.徹底した科学的合理主義者どうしの対決

したがって移住するのが合理的な行動になるが、その場合、少なくとも移住コストの一部分については、一義的には東京電力に対して補助を求めるのが合理的な行動となる。(東京電力に十分な補償能力がなければ国が助けることになるが)
さらに、移住した後ガンになったとして、そのガンの原因が、100%原発事故にあると合理的に断言できないと同時に、100%原発事故でないとも、合理的に断言できないからということで、この市民が東京電力(または国)を相手に訴訟を起こしたとしよう。
原発事故で移住した市民にとって、移住コストの補償を求める訴訟と、健康被害の補償を求める訴訟とでは全く性質が異ってくる。
議論をわかりやすくするために、もう一つ、福島に残った市民も訴訟を起こすと仮定してみよう。
ある市民が原発事故による健康被害はゼロではないが、限りなくゼロに近いので、福島に残ることに決めたとしよう。
この市民が、後々ガンになったと仮定し、その原因が(誰にも100%の確度で断言できないが)原発事故だとして、東京電力(または国)を相手に訴訟を起こしたと仮定しよう。
整理すると、ここまでで次の3種類の訴訟を仮定したことになる。
(1)福島を出た市民が、移住コストの補償を求める訴訟
(2)福島を出た市民が、健康被害の補償を求める訴訟
(3)福島に残った市民が、健康被害の補償を求める訴訟
これらの訴訟で、徹底して合理的な原告側の市民と、被告の東京電力を支持する徹底した合理主義者の対決を想像してみよう。
(1)について、被告である東京電力側の徹底した合理主義者は、移住という行為の責任は市民に100%帰属できるが、移住するという意思決定が100%誤りであること、つまり、原発事故による健康被害がゼロであることを断言できない。したがって、被告を擁護する余地は原理的には存在しない。
つまり(1)では、被告側は「移住が不要だった」こと、つまり「福島に残っても原告の健康や財産上の損害は将来にわたってゼロである」ことを証明する必要があるが、それは徹底した合理主義者には不可能である。
逆に原告側は、「移住によって健康被害がゼロになる」ことまで証明する必要はなく、「移住によって健康被害の確率が下がる」ことさえ証明できれば十分だ。
次に(2)について、同じく被告側の徹底した合理主義者は、「健康被害を避けるための移住」という選択をした責任は市民にあるので、それでも健康被害が避けられなかったからといって、被告を責めることはできないとして、被告を擁護できる。
つまり(2)では、被告側は「移住によって健康被害の確率がゼロになる」ことまで証明する必要はなく、「移住によって健康被害の確率が下がる」ことさえ証明できれば十分である。
逆に原告側は、「移住によっても健康被害の確率は下がらない」ことを合理的に説明すると同時に、自分たちが移住した理由をそれと整合的に説明する必要があり、これは徹底して合理的に考えると両立不可能だ。
最後に(3)について、同じく被告側の徹底した合理主義者は、原発事故による健康被害を100%ともゼロとも断言できないという理由で、被告を弁護する余地が生まれる。
つまり(3)では、被告側は「原発事故と健康被害の因果関係がゼロ」であることまで証明する必要はなく、「原発事故と健康被害の因果関係は100%と言えない」ことさえ証明できれば十分である。
逆に原告側は、「原発事故と健康被害に100%の因果関係がある」ことを証明する必要があり、これは徹底して合理的に考えると不可能だ。
以上のように、徹底した合理主義者どうしが原告・被告として、合理的に争うことを仮定すると、次のような結果になる。
(1)の「移住コスト」訴訟:原告の市民側が勝訴する確率が高い。
(2)の「健康被害」訴訟:被告の東京電力側が勝訴する確率が高い。
(3)の「健康被害」訴訟:被告の東京電力側が勝訴する確率が高い。
つまり、市民が徹底して合理的で、いわゆる「反原発派」「原発推進派」の政治的扇動に左右されず、あくまで合理的に考えて行動すると、健康被害については、移住しても、福島に残っても、民事訴訟に勝つ確率が低いことが分かる。
市民は、徹底して合理的に思考し、行動すると、移住した方が何らかの補償を得られる確率が高くなるが、健康被害についてはどちらにしても何の補償も得られない確率が高くなる。
ここに、科学的合理性の向こう側にある、政治的な合理性の水準が現れる。
以上のことから、市民は科学的合理性にてらして「あえて非合理的に」考えて行動した方が、自分自身に有利になる、という結論が導きだされる。

4.政治的な合理性の水準

つまり、市民が徹底的な合理主義者に対抗して、自分たちの健康や財産を保全するためには、「あえて非合理的に」思考し、行動する方がよいのだ。
おそらく市民はこのことを直感的に分かっている。
別の言葉でいえば、近代社会という仕組みは、徹底的に合理的に思考し、行動すると不利になる場合、ここまで説明したような複雑な論理的すじ道をたどらなくてもいいように(=社会の複雑性を縮減するために)、「非合理的」な思考や行動へ誘導するようにはたらく。
原発事故の健康被害をうける可能性がゼロと断言できない場合、「あえて非合理的に」思考し、行動することこそが「合理的」になる。この「合理性」は科学的な合理性とは別物なので、ここでは「政治的合理性」と仮に呼ぶことにする。
池田信夫は、「科学的合理性」が僕らの住んでいる社会において「常に」正しいと主張しているが、実際には、徹底して科学的な合理性を追求することで、かえって自分の生命や財産を保全できなくなる場合がある。
その場合、「科学的合理性」にてらし合わせると、一見「非合理的」であるような思考や行動を敢えてとる必要が出てくる。
原発事故におけるリスク・コミュニケーションで、相手を説得するための合理的説明(往々にして一方通行になりがち)よりも、相手の共感を得られるような共感的対話(どちらかというと相手の話を聞くこと重視)の方が有効とされるのも、「科学的合理性」の水準と、ここで「政治的合理性」と名付けた水準が、違うものであることを示唆している。
「科学的合理性」の水準においては、池田信夫がいつも主張しているように、福島における放射線レベルに市民がどう対処すべきかは、「あらかじめ」確定できる。
しかし市民にとっては、そのとおりに行動するよりも、「あえて非合理的」な思考や行動をとったほうが、自分たちの生命や財産を保全できる確率を高められるかもしれない。そしてどの程度その確率が高まるかは、「あらかじめ」確定できない。
その確率は高まるかもしれないし、ヘタをすれば低くなるかもしれない。
それでも、「科学的合理性」にもとづいて思考・行動するよりも、「あえて非合理的」に、つまり、「政治的非合理性」にもとづいて思考・行動した方が、自分たちでコントロールできる部分がより大きくなる。つまり自己裁量権が大きくなる。
だから市民は「科学的合理性」の説明ではなく、「政治的合理性」にもとづく「危険デマ」や「安全デマ」にも反応して行動するのである。
また、現実に民事訴訟などの法廷闘争になったときには「科学的合理性」の水準に巻きこまれることを敢えて避け、「政治的合理性」の水準で「命の大切さ」など、感情的な訴求力を持つ言葉を使う方が有利になる。
池田信夫が分かっていないのは、この「科学的合理性」の水準と、科学的合理性の水準で非合理的な行動が合理性を持ってしまう「政治的合理性」の水準の、厳然たる区別である。

低レベルすぎたフジテレビ『なかよしテレビ』の日中韓比較

フジテレビの『なかよしテレビ』をたまたま見たが、ひどい番組だった。視聴者の一般的な「中国観」におもねるのもいい加減にしろ、という感じだ。
周来友のような大声でまくし立てる、日本人の思う「典型的中国人」を出演させ、中国の世界最大の橋の話が出てくれば、品質は大丈夫なのかという、中国製品=粗悪品というお決まりのツッコミが入る。
唯一評価できるとすれば、中国人の夫婦は、共働きが当たり前、夫が家事をするのも当たり前という事実の紹介だ。
しかし、番組に登場した韓国人夫婦にも同じことが言えるが、明らかに「勝ち組上流階級」の家庭だけを取り上げるのはどうかと思う。バランスをとる意味でも、本当の一般家庭も取り上げるべきだろう。
ゲスト出演した石破茂は強引に、「日本も軍隊を持たなければ一人前の国とは言えない」という持論をしゃべり出すし。
いずれにせよ、番組の最後では3か国の出演者が無理やり「なかよしソング」的なものを歌わされるという、徹頭徹尾低レベルな番組で、見ていて気分が悪くなった。
ただ、ホリプロ所属でSDN48のメンバーであるチェン・チュー(陳屈)が出演しているので、彼女のせっかくのレギュラー番組をなくすのは酷だし…。
フジテレビの頭の悪いバラエティー班には、大人が見るまともな異文化交流番組は作れないということで、仕方ないといえば仕方ない。