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中野剛志『TPP亡国論』を今ごろ読んだ

中野剛志『TPP亡国論』(集英社新書)を今ごろ読んだ。本書のあとがきは2011/02に書かれているので東日本大震災前だ。

本書はAmazonの星1つの書評をあわせて読むとおもしろい。星1つの書評が、ほとんどまともな反論になっていないからだ。
なぜまともな反論になっていないか、その理由を一言でまとめると、そういった反論が、終戦後の日本の経済成長がすべて意図的な対米追従外交の上に作り上げられたものであることに無自覚だからだ。
東大卒で経産省のお役人である中野剛志は、戦後の官僚たちが「敢えてする対米追従」の下に国民たちを「平和ボケ」のままにしておくことでしか、日本の復興と経済成長がありえないことを見越していたことを知った上で、本書を書いている。
例えば、ソニーやホンダは、旧通産省による官僚的生産統制をはねのけたからこそ日本の高度経済成長が実現したのだ、というレビューがあるが、これこそ官僚の手のひらの上で見事に踊らされている「愚民」の典型と言っていい。
発展途上国の経済成長は、新規市場の開拓や技術革新ではなく、単なる人口の増加による労働集約の結果だ。日本の高度経済成長もしかり。
確かにソニーやホンダは画期的な商品を送り出し、海外市場を開拓したかもしれないが、それが日本の高度経済成長の主な動力になったわけでは決してない。日本の高度経済成長の主な動力は、戦後の急激な人口の増加である。
それに加えて、官僚に後押しされた田中角栄が徹底した公共投資を行なって内需をなかば強引に拡大したことで、地方にも雇用が産み出され、地方の労働者が農業などの一次産業から「引きはがされ」、ソニーやホンダのような二次産業の労働力へ人工的に転換された。
そういう官僚的内需拡大政策と産業構造の転換政策があったからこそ、ソニーやホンダのような企業が日本国内で大量の工場労働者を獲得し、資本を蓄積し、たっぷりと研究開発投資ができるようになり、技術革新や海外進出の足場を築くことができたのだ。
まるで民間企業が、官僚のそうした意図的な内需拡大・産業構造転換政策の恩恵とは無関係に、独力で技術革新と海外市場の開拓を成し遂げたかのような「大いなる勘違い」をしている国民の存在こそが、むしろ旧通産省による官僚的生産統制がいかに成功したかの証拠になっている。
と同時に、自称「官僚制に批判的な良識ある市民」が、いかに官僚の手のひらの上で踊らされてることに無自覚であるかの証拠にもなっている。
経産省出身である中野剛志はそういった、自分は賢いと思い込んでいる「愚民」の勘違いなど、とうの昔にお見通しなわけで、その上でこの『TPP亡国論』という「あえて」扇動的なタイトルの本を書いているわけだ。
「あえて」扇動的というのは、今度は本書の主張を受けいれる側に立ってみれば分かる。
本書の表面上の主張に乗っかって、TPP反対!と言い出すやいなや、中野剛志の論理展開によれば、それは「自主防衛」ということになる。つまり米国の軍事力の傘からの離脱ということだ。
本書をそういうふうに理解して、「そうだそうだ、日本は米国の軍事力に守ってもらうのではなく、自主防衛のために再軍備しなければいけない。そうして初めてTPPのような対米追従的な外交から逃れることができるのだ!」と読者が考えるとすれば、これもまた中野剛志の「あえてする」扇動に間違ってハマっていることになる。
中野剛志の言う「自主防衛」は、ある種の皮肉と解釈すべきだろう。つまり「自主防衛なんて、やれるもんならやってみろよ」というのが中野剛志の本当の主張と解釈すべきだ。
つまり、TPP賛成の立場なら、日本の内需を縮小させ、デフレを悪化させるのを覚悟で、対米追従外交、あるいは、少なくとも米国と明示的に対立しない外交的立場を維持することになる。
TPP反対の立場なら、自主防衛への外交政策転換で米国と対立することによる、アジア地域での日本の外交的地位の低下を覚悟しなければならない。
TPPに賛成しようが反対しようが、日本の経済的・外交的状況がそれほど良くなるわけではない。それが中野剛志の論旨だ。
じゃあ本書はいったい何が言いたいんだ!と言えば、簡単なことで、TPPに関する賛否を「あえて」明示的に論じない外交がもっとも賢明である、というだけのことだ。
本書を読んで、TPP反対派が「我が意を得たり!」と思うのも誤読だし、TPP賛成派が「官僚による統制経済を復活させるのか!」と怒るのも誤読である。
白黒はっきり付ける決然主義でなければ外交じゃない、という発想こそが「愚民」の低レベルな発想でしょ、というのが、本書における中野剛志の「あえてする」TPP亡国論のメタメッセージなわけだ。
そこまで読み込んでこそ、一人の国民としてようやく経産省の官僚である中野剛志と、何とか互角に議論できるわけで、Amazonの特に星1つのレビューのように、いちいち噴き上がっていたのでは、やはり「愚民」は「愚民」に過ぎないというオチになってしまう。
中野剛志がニコニコ生放送で語っていたことだが、そんな中野剛志から見て、古賀茂明のような元経産省官僚が滑稽に映るのは当然だろう。
本書『TPP亡国論』の「あとがき」で中野剛志は、経産省が風通しの良い組織であることを強調している。これはおそらく本当だ。ただし、「あえてする」TPP亡国論のように、特定の議論にわざと没入するという皮肉を自覚的に効かせることができる人間にとってだけ、風通しの良い組織なのだろう。
そんな中野剛志からすると、古賀茂明は「愚民」の噴き上がりにベタに共感して官僚たたきをしてしまっている「単なるバカ」にしか見えないに違いない。
ただ、中野剛志のような経産省の内部者の立場としては、わざわざ経産省を離れて「愚民」と共闘し、官僚たたきをしてくれる古賀茂明のような人物は、戦略的に考えると「ガス抜き」装置として極めて有用である。
古賀茂明程度の元官僚の官僚たたきなど、おそらく官僚たちにとって痛くも痒くもない。その程度の官僚たたきで「愚民」が溜飲を下げてくれるなら、官僚たちにとってはかえって仕事がしやすくなるというものだ。
本書『TPP亡国論』の中で、中野剛志がやたらと「戦略的」という言葉の真の意味にこだわっているのは偶然ではない。古賀茂明を「愚民」のガス抜き装置として活用するぐらいの「戦略」がなければ、対米追従外交からの離脱など望むべくもない、ということである。
本書は実はそれくらい身も蓋もない書き方がされている本だということを、所詮「愚民」である一般の読者が読み取ることまでは、中野剛志はちっとも期待していないだろうが、一応僕の方が駒場後期課程のたぶん一年先輩(駒場の国際関係論卒だと初めて知ったよ全く)なので、勝手ながら書かせてもらった。
当然、外交カードがゼロどころか、マイナスの状態で、TPP参加交渉表明してしまった野田首相など、中野剛志のような官僚から見れば「愚民」の一人に過ぎないことは言うまでもない。

厄払いを勧められたときの完璧な反論法

忘年会で起こった、ちょっとおもしろい出来事について。
同じ職場に来年本厄をむかえる社員が複数名いることが話題になり、管理職が酒も入って半分冗談で「初詣で厄払いしておいた方がいいよ」と話した。
単なる酒の席での笑い話なので、真面目にツッコミを入れる話題ではないのだが、僕個人としてはここ数年間でもっともひどかったのは一昨年、単身赴任先で本格的なうつ病に罹ったことだ。
最新の抗うつ剤(SNRI)のおかげで、1年前の自分が信じられないほど寛解に向かっているが、酒が飲めない僕はその場で、その管理職に向かって「じゃあ僕の一昨年のうつ病は何だったんでしょうね」と意地悪なツッコミを入れたくなった。
なので僕は個人的に「厄年」などというオカルトはどうでもいいし、職場の忘年会で、いまだうつ病の治療中である社員のいる席で、まさに来年2012年に「本厄」を迎える僕に対して、管理職がうかつに口にすべき話題でもないと思う。
一般的な日本人の半分冗談、半分本気の非合理性、非科学的態度というのは、この程度のものなので、そもそも一般的な日本人とは、彼らは合理性をあえて忌避しているのだという前提で雑談した方がいいのだ。
その意味では宮台真司・大塚英志の『愚民社会』という書物も、日本の市民に対する理性による啓蒙に、幾分かの希望を見出している点で、まだまだ楽観的すぎるのかもしれない。
そもそもこの『愚民社会』を、たまたま書店で手にとって勢いで購入したとしても、僕の職場にいる人間にはちんぷんかんぷんで、完読できるはずがない。
ルーマンの社会システム理論、フッサールの現象学、ルソーの社会契約論みたいなものは、日本の高等教育では一切まともに教えないのだから、参考文献からして既に日本のふつうの会社員にとっては意味不明なのだ。
ところで、それでも「本厄(前厄)なんだから厄払いしなさい」と言われたら、次のようにさらっと反論しておくのがいい。

「厄払いしないで悪いことが起こったら、あなたはきっと『厄払いしなかったからだ』と言うでしょう。
厄払いして悪いことが起こったら、あなたはきっと『厄払いしたからこの程度で済んだんだ』と言うでしょう。
厄払いしないで無事過ごせたら、あなたはきっと『運が良かっただけだ』と言うでしょう。
厄払いして無事過ごせたら、あなたはきっと『厄払いしたおかげだ』と言うでしょう。
結局、来年がどんな年になっても、厄払いしたかしなかったかとは、全く無関係だということを、あなた自身が証明することになるということは、すでにわかっています。
なので、厄払いなんてものにムダな金をかける必要はないですよ」

そういうわけで、初詣で厄払いするよりも、自分の愚かさに対する自覚を掘り下げることに時間とお金をかける方が、よほど有意義な一年を送れるというものだ。
こういう合理的な判断のできない人間が管理職になっても、日本企業はつぶれずに回るのだから、一般的な企業に見られるマックス・ウェーバーの本来の意味での官僚制組織というのは、よくできた社会サブシステムだと実感する。
つまり、僕自身も含めてバカが集まっても、そのバカさ加減が最悪の結果を生み出さないような自己保存機能がはたらくように出来ているのだ。
そういうふうに社会というものは、誰かの作為によって設計され、維持されているということを自覚していないからこそ、ふつうの会社員は「厄払い」といったオカルト主義を平気で口にできるのであり、マスメディアにあっさり「洗脳」されてしまうのだ。
フリージャーナリストの上杉隆が、昨日のニコニコ生放送で、来年2012年はきっとマスメディアが、福島第一原発事故を忘却し、復興のために前向きにがんばろうというキャンペーンを張るだろうと予言していたが、たぶんそうなる気がする。
前向き、ポジティブ、こういった言葉にいとも簡単に感染してしまうのが、ほとんどの一般的会社員だから。

宮台真司・大塚英志『愚民社会』を読んだ

宮台真司・大塚英志『愚民社会』(太田出版)を読んだ。

普段から宮台真司の議論をフォローしている人にとっては、最近の宮台真司の議論のおさらいになるので、いつもながらとても明快な内容で、何の違和感もない。
ただ、本書が宮台真司の他の著書と違う点は、大塚英志氏がかなりしつこく宮台真司のコミュニケーション戦略を相対化し、ツッコミを入れているところだ。
特に第三章で大塚英志が宮台真司に対して、あえてする改憲の主張という戦略に、本当に不備がないと思っているのか、しつこくつっこんでいる部分が参考になる。
そのしつこいツッコミに対して、宮台真司は最後の最後では自分は楽観的であると告白し、それに対して大塚英志は悲観的であると告白する。
つまり、宮台真司は啓蒙的なコミュニケーションが、ごく少数の人々に対してであっても影響をおよぼし、日本の不毛な政治的・文化的言論を変えることができるという希望を持っているが、大塚英志は啓蒙的なコミュニケーションよりも、既存の思考様式にのっかる、ある種の単純化・マニュアル化という切り下げのコミュニケーションでなければ、何も変わらないと悲観的だ。
僕個人の立場は大塚英志に近い。
宮台真司の議論はつねに明快だけれど、僕自身も正しく理解している自信はない。単なる宮台フォロアー、似非ミヤダイ信者と化しているおそれは十分にある。それは、結局のところ宮台真司本人に判定してもらうしかない。
いまあえて「宮台真司本人に判定してもらうしかない」と書いたように、宮台真司が自分の議論についての誤解を、懸命に訂正すればするほど、宮台真司の議論を読んだり聞いたりしている人たちは、ますます自分の理解が間違っているのではないかと不安になる。
そして不安になればなるほど、ますます宮台真司の言論に依存するようになる。これは宮台フォロアーを増やすだけで、宮台真司が期待しているように、彼の協力者を増やす結果にはならない。
結果として、日本の市民は、宮台フォロアーと、宮台嫌いと、宮台真司を含む言論空間全般に無関心な一般人の三種類に別れる。圧倒的多数を占めるのは、もちろん無関心な一般人で、宮台嫌いは、宮台真司の議論に多少なりとも関心を持つだけまし、ということになる。
この状況に悲観的にならない宮台真司が理解できない、という大塚英志の「感覚」は、僕も大いに共感する。
宮台真司は承認を決して安売りしない。それは思想家としては正しいが、いくら宮台氏自身が「あえて」大乗仏教的な説き方をしたところで、無関心な一般人にその声はそもそも届かない。
宮台真司は自分の声が、宮台氏が顔を思い浮かべることの出きる数十人、数百人単位の人たちを除いて、誤解されるどころか、まったく届いていないことに「あえて」気づかないふりをしているのだろうか。
こんなことを書いている僕の声は、残念ながら宮台真司には届かない。届かないので、僕は自分の解釈を訂正しようがない。訂正しようがない限り、僕は宮台真司を正しく理解しているかどうかについて、永遠に宙吊りのままになる。
永遠に宙吊りのままでは、僕は宮台真司の議論に同意することはできても、それに基づいて行動することまではできない。いや、正確に言えば、行動しないことはできないので、自分の行動が僕が個人的に正しいと考えている宮台真司の意図に沿った結果を生み出すものなのか、僕一人では検証できない。
そうしてますます似非ミヤダイ信者として、宮台真司の言説に依存せざるを得なくなる。
『愚民社会』の書評として、こんな下らないブログが書かれていることについて、宮台真司はがっくりするしかないだろう。
しかしそれは宮台真司のコミュニケーションが、僕のような「愚民」に届いたときに常に引き起こす蓋然性のある「コミュニケーションの失敗」なのだから仕方ない。
宮台真司自身が宮台真司をめぐるコミュニケーションのすべてを、完全にコントロールできるという考え方は、言うまでもなく自己矛盾だ。失敗が起こりえないなら、そもそも愚民社会を議論する必要さえない。

『輪るピングドラム』における作為の契機と愛と共同性

『輪るピングドラム』がTBSでは昨晩最終回をむかえたので、とりあえず最初のレビューを書いてみる。表現技法については置いておいて、物語についてのレビューだ。
この物語は、要約すると次のようなことだと思う。
いま自分が生きている世界は、別の姿でもありえたが、その別の世界で起こったかもしれない大きな不幸をなくすために犠牲になった誰かのおかげで、いまの自分がある。この世界は、運命が決めたものでもなく、自分一人の意思で変えられるものでもなく、みんながいっしょに作っているものだ。
でも、最終回を見て、次のように思った人もいるかもしれない。
『輪るピングドラム』は並行世界についてのお話である。こうであったかもしれない世界もあれば、ああであったかもしれない世界もある。複数の可能な世界が、地下鉄のように入り組みながら走っている。
登場人物たちは、主人公の少女(高倉陽毬)の命を救うために、一つの世界から別の世界へジャンプした。その結果、元の世界で三人でいっしょに暮らしていた幸福を失ったが、少女の命は救われた。
こんなふうに解釈することもたしかにできそうだ。
でも『輪るピングドラム』は複数の並行世界を、SF的に客観的かつ平等にあつかっているお話ではない。そうではなく、いま自分が生きている世界がいかに理不尽であっても、それを引き受けなければならないというお話だ。
三人がいっしょに暮らしていた世界は、あくまでこの世界を説明するための単なる仮定、単なる手段である。
自分が生きている世界は自分で選んだわけでもないのに、どうして押し付けられなきゃならないのか、と言いたくなるかもしれない。
その素朴な疑問に対して、いやいや引き受けなければならない理由があって、それはこういうことだよ、と語りかけてくるのが『輪るピングドラム』である。
もう少しくわしく説明しよう。
自分が生きている世界は、たしかに自分が複数の選択肢から自分の意思で選んだものではない。SFの並行世界のように、一つの世界から別の世界へ自分の意思でジャンプできるようなものではない。
しかし、自分が選んだものではないからといって、この世界は神様のような人間を超えた存在が作ったものではないし、自分が「この」世界に生まれたのは、運命のような抗しがたい力によるものでもない。
この世界は自分と同じ、不完全で説得可能な人間たちが作り上げた、あくまで人為的なものである。神が創ったものでも、運命が決めたものでもない。
僕らがまず自覚しなきゃいけないのは、この世界で僕らが受ける不幸も幸福も、僕らと同じ人間が作り出したものということだ。
そういう不幸や幸福を、神様や運命といった人智を超えたものの責任にするのは、この世界に生きている人間は自分一人だけだという、とんでもない思い上がりか、自分は何ものでもないという、とんでもない自己否定かの、どちらかだ。
『輪るピングドラム』によく登場する、運命という言葉が嫌いだ、というセリフは、この世界が人間の作った不完全なものであることを引き受けよう、というメッセージである。
また、「何ものにもなれないお前たち」というセリフは、この世界が神様や運命といった人智を超えたものの産物だと思い込んでいる人たちに向けられている。この世界は人間の作ったものだ。
ただ、この世界が人間の作ったものであることを認めるのは、大変だけれど、死ぬほどではない。
主人公の少女(高倉陽毬)と、血のつながらない二人の兄(高倉冠葉、高倉晶馬)の三人がいっしょに暮らしていた世界は、『輪るピングドラム』の中では実在するものとしてではなく、この世界が人間の作ったものだということを説明するための、単なる手段として描かれている。
ふつうに考えれば、あの三人、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬の血のつながらない三兄弟の生活こそ、理想的な世界のように思える。
しかし、あの三人の共同生活がある世界は、世界は自分の自由意志で選ぶことができると考えた人々が起こした、大きな不幸の上に成り立っていた。
物語の中で「企鵝の会」という、オウム真理教を思い出させる宗教団体が、地下鉄で起こした爆破テロ事件がそれだ。
しかし爆破テロという主体的な行為によって、世界は天国のような場所にはならなかった。世界は特定の人たちの自由意志だけで、一発逆転みたいに天国に変えられるほど単純ではない。
ところが、テロ行為を起こした家族に生まれた息子である高倉冠葉は、中途半端な幸福しかない世界を、両親と同じ考え方で、一気に幸福な世界に変えようとする。
愛すべき妹の高倉陽毬が不治の病であるという設定は、この世界の幸福がどこまで行っても完璧ではなく、不幸とうらはらで、不完全であることの象徴だ。
高倉冠葉は、そんな中途半端な世界を、完璧な世界に変えるために、つまり、高倉陽毬の不治の病を完全に治すために、自分の両親がかつて使った「世界を一気に変える方法」を再び使おうとする。つまり地下鉄の爆破テロだ。
しかし、その高倉冠葉の血のつながらない弟である高倉晶馬は、自分の命が高倉冠葉のくれた「半分のリンゴ」で救われたことを、やっとのことで思い出す。
この「半分のリンゴ」は、自分の生きている世界が、人智を超えた存在によって保たれたのではなく、人間のささやかな優しさ、たった半分だけのリンゴのようなものによって作られたことを示している。
たしかにそうして作られた世界は、完璧に幸福というには程遠いかもしれない。むしろ不幸の方が多いと感じるかもしれない。しかし、不幸を運命のように思ってもいけないし、テロのような行為で一発逆転できるようなものだと思ってもいけない。
世界の不完全さを受けいれることで初めて、僕らはこの世界にささやかな幸福を感じながら、生き続けていけるのではないか。そうすることで初めて、僕らは「何ものか」になれるのではないか。
高倉晶馬が半分のリンゴを思い出したことで、高倉冠葉もようやく、この世界の不完全さと、この世界が自分たちと同じ人間の作ったものであることを受け入れ、「何ものか」になる。
「何ものか」になるということは、言い換えると、他の可能性、他の世界をあきらめるということだ。何かをあきらめなければ、この不完全な世界で生き続けることはできない。それが「生存戦略」である。
高倉冠葉が高倉陽毬の命を救うためにあきらめたのは、この世界を一発逆転で完全なものに変えられるという、まったく間違った狂信と、高倉陽毬が自分の愛すべき妹であるということだった。
そうすることで、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬は、三人とも、ほんとうの意味での世界、つまり、不完全だけれどもささやかな幸せのある世界に戻ることができた。
その結果、高倉冠葉と高倉晶馬の兄弟は、結局、自分の愛すべき妹である高倉陽毬を失ったことになる。不完全なこの世界では、高倉陽毬はもはや、冠葉や晶馬の妹ではなく、見ず知らずの他人になってしまう。
でも、以前の世界でも、テロを決行して世界を失う代わりに、陽毬を救ったところで、そんな世界で三人とも生き延びることはできなかっただろう。
三人は、世界の完全性をあきらめたことで、初めて世界の中で生き延びることができた。生存戦略。
陽毬は、高倉冠葉と高倉晶馬の妹ではなく、知り合いでさえない、見ず知らずの他人になってしまうことで、実質的には二人の兄を失った。
それでも、三人ともが生き延びたこの不完全な世界には、世界がたしかに人間の作ったものだという「痕跡」がちゃんと残っているのだ。
「大スキだよ!!お兄ちゃんより」という、ぬいぐるみのお腹の中に入っていた手書きのメモ。
あのメモは、不幸なこともたくさんあるけれど、自分が「何ものか」としてこの世界を生き延びさせてくれた人々、この世界を作っている人々が、この世界に残した「痕跡」だ。
たとえこの世界で、たくさんの不幸や理不尽なことに出会っても、自分が「何ものか」として生きていけるのは、あのメモのように、この世界を作っている人々が、自分のために残してくれた「痕跡」があるからだ。
その「痕跡」を「愛」と呼んでもいいだろう。
すべてが運命で決められているのでもなく、すべてを自分の意思で一発逆転できるわけでもない、そんな不完全な世界には、逆に、自分に向けられた「愛」が至るところに散らばっている。
その「痕跡」は、この世界が人間の作ったがゆえに不完全であることの証拠でもあり、自分が愛されていることの証拠でもある。
幸福なことも不幸なこともふくめて、この世界は自分と同じような人間たちが、いっしょに作り上げたものだからこそ、至るところに自分に向けられた「愛」を見つけることができる。
僕らはこの世界が自分の選んだものではないこと、自分の意思だけではどうにもならないことを嘆く必要はない。
この世界が人々が共同で作っている不完全なものであることを受け入れれば、至るところに愛の痕跡を見いだすことができ、そのおかげで、この世界を紡ぎつづける作業に加わることができる。つまり「何ものか」になることができる。
運命の果実をいっしょに食べるということは、この不完全な世界が、自分ひとりではなく、人々がいっしょに作り上げているということだ。運命と呼ばれているものは、実は人々がいっしょに作り上げ、紡ぎつづけているこの世界そのものであるということだ。
この世界の人々がいっしょになって、この不完全な世界を作り上げ、紡ぎつづけていることに気づけたからこそ、三人は運命の果実を飲み下し、この世界が一冊のノートによってあらかじめ決められているといったような、運命の呪縛から解き放たれる。
運命の呪縛から解き放たれたとき、最終回までずっと、この世界を説明するための手段として描かれてきた架空の世界は、くるりと回転した。
そして、不完全だけれど、至るところに愛の痕跡を見いだせるこの世界、まさに僕らが生きているこの世界に、もどってくることができたのだ。

福島第一原発事故による健康被害の初の査読済み論文が米医学誌に掲載

ビデオニュース・ドットコムやTBSラジオ『Dig』でお馴染みのジャーナリスト・神保哲生さんのこちらのツイートで驚くべきことを知ってしまった。こちらのサイトだ。
Medical Journal Article: 14,000 U.S. Deaths Tied to Fukushima Reactor Disaster Fallout(2011/12/22 Global Research.ca)
とにかくこのページの本文を日本語に試訳してみる。

(ここから日本語試訳)
『International Journal of Health Services』の2011年12月号の主要論文によれば、米国での死亡者数増加のうち約14,000人は、日本の福島原発事故による放射性物質の降下と関連性があるとのことだ。これは福島事故の健康被害に関して、医学誌に初めて査読を経て出版された論文ということになる。
論文の全文はこちら。
International Journal of Health Services, Volume 42, Number 1, Pages 47–64, 2012 (based at the Johns Hopkins University, School of Hygiene and Public Health)

筆者のジョゼフ・マンガノとジャネット・シャーマンは、福島のメルトダウンの後の14週間の米国の約14,000の死亡例は、1986年チェルノブイリ後の17週間の16,500の死亡例に相当するとしている。福島事故後の死亡者数の増加は、米国の1歳以下の幼児で最も大きい。2010年春に対して2011年春の幼児の死亡者数は1.8%増加したが、それに対して事故以前の14週間で比較すると8.37%減少している。
3月11日福島原発の4基の原子炉で破滅的なメルトダウンが起こった、たった6日後、科学者たちは米国の沿岸部に毒性のある汚染物質の降下を検出した。それに続く米国環境保護庁の測定では、大気、水、牛乳の放射線レベルは米国全体の通常レベルの数百倍であることが分かった。米国でヨウ素131の降下が最も多く検出されたのは次の地域である(単位はピコキューリー。通常レベルの水中のヨウ素131濃度は約2ピコキューリー):アイダホ州ボイズ(390)、カンサスシティ(200)、ソルトレイクシティ(190)、フロリダ州ジャクソンビル(150)、ワシントン州オリンピア(125)、マサチューセッツ州ボストン(92)。
疫学者であるジョゼフ・マンガノは次のように言う。「福島の健康被害に関するこの研究は科学誌に初めて掲載されたものです。これは懸念すべきことで、日本の福島県が全世界に与える影響を理解するには、健康に関する研究をぜひ続ける必要があります。今回の発見は、新たな原子炉を建設するかどうか、老朽化した原子炉をあとどれくらい運転させ続けるかといった議論にとって重要な意味を持ちます」
マンガノは放射線と公衆衛生プロジェクトの事務局長で、27の査読済みの医学誌の論文およびレターの著者でもある。
内科医であり毒物学者であるジャネット・シャーマンは次のように言う。「私たちは引き続き研究をしていますが、それによればここ米国での実際の死亡者数は18,000に及ぶかもしれません。これは同じ期間のインフルエンザと肺炎による死亡者数の5倍にもなります。死亡者は全ての年齢層にわたっていますが、幼児が最も影響を受けていることが継続して観察されています。その理由は、幼児の組織の成長は速く、免疫機構が未発達で、放射性元素の影響が大人よりも大きいためです」
(日本語試訳ここまで)

とりあえずあまり時間がないので途中までしか訳さないが、気になった方は論文の原文(英語)を上記のリンク先のPDFファイルでお読み頂きたい。また上記の記事に誤訳があればご指摘頂きたい。