月別アーカイブ: 2011年11月

続:NHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」の根本的誤り

引きつづき、2011/11/23のNHK『クローズアップ現代』で取り上げられていた現代型うつ病の話題。
この番組の後半に登場した中年男性患者が、自分の他罰性(何でも他人のせいにする傾向)に気づいて再就職への道を模索し始めた、となっていたのは、認知療法として一定の意味はあるのではないか、というご意見をツイッターで頂いた。
このご意見をいただいて、僕自身、自分の精神疾患についての考え方について気付かされたことがある。それは、僕自身が暗黙のうちに「治療と社会復帰は別問題」という前提をおいていたことだ。
たしかに、「現代型うつ」の認知療法による治療として、まず本人に自分の「他罰性」に気づかせるのは意味があるだろう。そのことは否定しない。
しかし、そのような認知療法が一定の治療効果をあげ、患者さんが社会生活により適応しやすくなったとしても、その患者さんがもともと仕事をしていたような職場にもどって、また同じように仕事ができるようになるかというのは、全く別の話だ。
認知療法は、患者さん本人がなぜ自分が社会とうまく折り合いをつけられないのか、その理由を「個人的に」納得するにはたしかに役に立つだろう。
しかし、それはあくまで「個人的な」納得でしかない。患者さん自身が納得したとしても、社会が患者さんを見る目も同じように納得し、変化してくれるわけではない。
職場に復帰するということは、まずは職場まで徒歩や交通機関をつかって出社できること。そして出社した後、リハビリ勤務中は短時間勤務だとしても、一定の時間、連続して業務ができることが最低条件になる。
誤解をおそれず単純化すると、職場復帰は精神的な問題ではなく、ほとんど肉体的な問題だ。
かつて強烈な不安を感じた空間に、一定時間いつづけられる体力があるか。めまいがしたり、吐き気がしたりしないか。すぐ下痢をしてトイレに駆け込んだりしないか。そうした身体的な問題についての不安の方が、職場復帰にあたってはより重要になる。
職場の人たちは、職場復帰した患者が心の中で何を思っているか、いちいち想像してくれるほどヒマではない。各人が実際に職場ではたしている外面的な機能でしか見てくれない。
極論すれば、精神的な問題がまったく改善していなくても、決められた勤務時間中だけ、なんとか他人と一定レベルの意思疎通ができ、一定の思考能力と体力が続きさえすればいい。たとえ帰宅後、自分の部屋でぐったりして翌朝までろくに動けなかったとしても職場復帰はできてしまう。
この最低ラインをクリアするために、何種類もの薬を服用しつづけなければならないとしても、いちど職場から完全にドロップアウトしてしまう損失に比べればまだ良い、という考え方もある。
たぶん僕は、患者にとっては、じっくり時間をかけて治療するより、どんな手を使っても元の生活に近い生活を送れるようになることの方が、はるかに重要な場合があると、暗黙のうちに前提していたらしい。
ご承知のように精神疾患には、体の病気のように完治という区切りをつけることがむずかしい。
「寛解」という専門用語を見ればわかるように、完全に治ったとは言えないが、ふつうの生活に支障がないくらいには回復しているというところで、精神疾患の治療にはひと区切りつく。
その「寛解」の状態が、本人の内面的な納得と、周囲の人たちの内面的な納得の両方に支えられていればたしかに理想的だし、再発の可能性も低くなるだろう。しかし、そういう理想的な状況を実現するには、時間がかかるし、したがって費用もかかる。
しかも、周囲の人たちの内面的な納得を得るには、患者の周囲にいるかも知れない、ちょっと困った人、つまり、「自分の他罰性に気づいていないが、自分が精神疾患にかかることがないような図々しく無神経な人」に対しても、一種の認知療法をほどこす必要がある。
神経科や精神科を訪れてきた患者であれば、自分が病気だという認識(=病識)があるので、認知療法をしても一定の効果が期待できる。
しかし、患者の周囲にいる「自分の他罰性に気づいておらず、その他罰性に何ら問題を感じないまま周囲に対して攻撃的で無神経な人」には、当然、病識がなく、いかなる治療もできない。
いまの社会で、認知療法が社会復帰のための治療として機能するには、じっさいには患者本人だけでなく、患者の周囲にいる人たちも巻き込む必要があるのではないだろうか。
ただ、患者の周囲にいる人たちは、自分たちが病気でもないのに、なぜ新たな患者を職場から出さないために、あるいは精神疾患で休職中の社員の職場復帰のために、まるで自分たちの方に問題があるかのように「トレーニング」を受けなければならないのか、納得がいかないという気分になるに違いない。
そういう納得がいかない気分は、首記の『クローズアップ現代』に登場した企業の人事担当者の「メンタル社員」という蔑称によくあらわれている。「メンタル社員」という蔑称は、非があるのはあいつらなのに、なんで自分たちがいちいち研修なんかやらなきゃいけないんだ、という本音を表現している。
このような現代社会で、患者に対する認知療法に一定の成果が出たからといって、それがそのまま社会復帰につながるかのような『クローズアップ現代』のレポートの組み立て方は、あまりに楽観的すぎる。
楽観的すぎるだけでなく、精神疾患の患者を「メンタル社員」という差別用語で呼ぶ企業側の理論を、補強するだけに終わるおそれがある。
その意味で、認知療法の効果を信じている医師は、患者の職場や家庭まで巻き込んで、拡大された意味での認知療法をやる覚悟を持つ必要がありそうだ。
そうでなければ、患者ひとりが自分の「他罰性」に気づいたところで、その患者が職場へもどった後に、また病気の遠因となったタイプの人間に行き当たることになる。
つまり、自分の「他罰性」に気づかないまま周囲に当たり散らすタイプの人間に、精神的に打ちのめされ、せっかく職場復帰した患者はまた「他罰性」をとりもどすおそれがある。そして、弱い「他罰性」と強い「他罰性」のぶつかり合いで、またその患者は敗れ、職場からドロップアウトするかもしれない。
そのくり返しになるくらいなら、より強力な「他罰的」人間になって職場へもどっていくという選択肢をとらざるをえない場合もあるのではないか。むしろ現代の日本の職場においては、そういう選択肢の方が、精神疾患の患者が決定的に社会からドロップアウトするのを防ぐのに有効ではないのか。
僕は個人的にはこう考えているし、現実の日本社会は、すでにそうなっていると考えている。
仮に認知療法のような根本的な治療法が、多数派の治療法として患者の社会復帰に有効に機能しているなら、職場の精神疾患は順調に減っているはずだし、年間の自殺者数も減っているはずだ。
しかし実際には毎年3万人強がコンスタントに自殺している。職場の精神疾患も減らないばかりか、「現代型うつ病」と名付けられる新しいタイプの精神疾患が出てきている。
これは、認知療法のような根本的な治療が成果をあげておらず、社会の成員の一人ひとりが、自己理解と相互理解を深める方向になっていない証拠、つまり、認知療法のようなタイプの治療が失敗している証拠ではないだろうか。
そういう中では、いったん社会からはじき出された患者は、再び社会に適応することが極めて難しくなる。
さらに、認知療法のような治療法を最初からあきらめ、おもに薬の力で「身体的」条件を回復して職場復帰した患者は、ふたたび社会に適応できるが、いわばそういう「ドーピング的治療」で社会復帰する患者が増えると、こんどは別の人々が職場からはじき出されることになる。
こういう社会を全体として眺めると、次のようになる。
向精神薬や抗うつ薬の処方量が増えていく一方で、精神疾患の患者数や自殺者数は減らない。かといって、精神疾患によって社会からドロップアウトした人々が、街頭や公園にあふれかえるような、目に見えて悲惨な状況にもならない。
今の日本社会は、いったん、こういう悪しき均衡状態にあるのではないか。
出発点の2011/11/22放送分、NHK『クローズアップ現代』からずいぶん離れてしまったが、今の日本社会が精神疾患の増加によってどのような姿になっているか、僕個人の考えを書けば、以上のようなものになる。

アニメのコピーのコピーのコピーの存在意義

朝日新聞オンライン版の「小原篤のアニマゲ丼」という連載コラムで、筆者の朝日新聞社の小原篤氏が、押井守監督の講演にふれていることを、グーグル・ニュースで見つけた。
『小原篤のアニマゲ丼』(2011/11/21 朝日新聞オンライン版)
2011/11/12に東京芸術大学大学院映像研究科が「第2回映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考」という講演会を開催し、第一部は竹宮恵子、第二部が押井守の講演だったようだ。
小原篤氏が第一部の竹宮恵子氏の講演にまったく触れていないこと自体が、とても示唆的なのだが、それは置いておこう。
まさか小原篤氏が、少女マンガを日本のマンガ史上、単なる傍流だとみなして無視したのではあるまい。仮に無意識にであっても、そういう考え方から無視したのであれば、そもそも小原篤氏に日本のマンガやアニメを語る資格はない。
さて、小原篤氏によれば、講演の中で押井守は次のように語っていたらしい。

「そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、『現実に根拠を持たない』アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。
これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」

これはあくまで小原篤氏が要約した、押井守の発言であり、押井守のオリジナルの発言の文字おこしではないことに注意すべきだ。
ただ、この要約から押井守の意図を抽出すると、アニメが本質的にそなえている表現方法としてのせっかくの可能性を、現在のアニメのほとんどはムダにしており、単なる「オタクの消費財」と化してしまっている、となる。
押井守は、アニメが「現実の劣化コピーに過ぎない実写」と違って、「誇大妄想の極限」とでも呼べるような可能性をもつ表現方法であることを、プラスにとらえている。
そして、そのせっかくのプラスの側面、アニメの持つ本質的な可能性を、現在のアニメ作品のほとんどが活かせていないことを非難している、と読める。
押井守がアニメという表現方法を、何らかの思想や内容を伝えるための、単なる手段に過ぎないとみなすはずがない。
したがって、ここで押井守が「全世界・全歴史に向けて自分の言いたいこと」と語っているのは、アニメという表現方法でしか伝えられない思想や内容というものが存在し、それらは実写作品では決して伝えられない、という前提に立っているのだろう。
ここまでは、僕も完全に同意できる。
世の中には、次のような誤った考え方を持つ人がたくさんいる。少し長くなるが、その誤った考え方を書き下してみよう。

表現すべき思想や内容というのものは、表現方法に先立って、作者の頭の中に存在する。そして、小説、実写映画、絵画、アニメ、マンガ、音楽、演劇、などなどの表現方法は、単なる「手段」である。
だから、ある手段で表現できる思想や内容を、わざわざ別の手段を使って表現する必然性はない。アニメに表現できて、実写で表現できない思想や内容などないし、マンガに表現できて、小説に表現できない思想や内容もない。
ところで、アニメやマンガというのは、実在する事物をデフォルメしたり、単純化したりして描写するので、実在する事物から大事な本質を奪いとってしまう、「劣った」表現方法である。
同じ思想や内容を表現するなら、アニメやマンガよりも、小説や実写など、実在する対象をより実物に近くリアルに表現できる方法をとるべきだ。
にもかかわらず、あえてアニメやマンガといった表現方法を選択するのは、そもそもその表現者の表現したい思想や内容が、アニメやマンガといった「劣った」表現方法でも十分伝わる「劣った」思想や内容だからだ。
したがって、アニメやマンガという「劣った」表現方法で表現されているような思想や内容は、そもそも鑑賞する価値がない。


かなり長くなったが、以上のような誤った考え方をもっている人は意外に多い。例えば、橋田寿賀子ドラマや韓流ドラマのファンだが、『輪るピングドラム』のようなアニメ作品は唾棄すべきものとみなす人がいるかもしれない。
この誤った考え方を一言でいうと、表現における内容と形式の完全な独立、ということになる。表現方法と、表現される内容が、お互いに完全に独立している、という考え方だ。
こういった素朴なリアリズム、「現実」というものに対する素朴な考え方を持っている人は多い。
このような人たちは、小説であれ、映画であれ、絵画であれ、どのような表現形式で表現しても、表現される側の「現実」の方は何の影響もうけず、確固たるものとしてあり続けると思い込んでいる。
つまり、誰がどのような方法で表現しても、決して影響をうけない確固たる「現実」というものが存在すると思い込んでいる。
西洋や東洋の哲学史を少しでも勉強したことがあれば、このような意味での「現実」自体が、人間の作り出した単なる「虚構」でしかないことは、説明するまでもないだろう。
同じ「現実」を目の前にしても、それがどのように見えるかは、一人ひとり違う。しかも、そもそも「現実」とは何かということは、一人ひとりの持っている表現方法によって違ってくる。
いちばん分かりやすい例は、言語だろう。
ある民族の言語では、雪の色を表現するのに何とおりもの単語があるというし、空にかかる虹の色を表現する色の単語の数も、言語によって違う。極端な話、自然科学の専門用語を使えば、虹の色はいくらでも精緻に区別することができる。
このことは、表現方法によって何の影響もうけない「現実」が、ゆるぎないものとして先に存在するのではなく、むしろそれぞれの人がもっている表現方法によって「現実」がどのようなものであるかが決まる、ということだ。
したがって、橋田寿賀子の脚本によってはじめて表現できるドラマ『渡る世間は鬼ばかり』的な「現実」もあれば、幾原邦彦の脚本によってはじめて表現できるアニメ『輪るピングドラム』的な「現実」も存在する。
どちらの「現実」がより優れているかは、純粋にその人の個人的な考え方であり、絶対的な基準があるわけではない。実写のドラマは大人の見るもので、アニメやマンガは子供の見るものだという考え方は、逆に子供っぽく、あさはかな考え方だ。
ここまで来て、ようやく最初に引用した、押井守の発言にもどることができる。
押井守は、現実の劣化コピーでしかない実写に対して、アニメという表現方法の方がより大きな可能性を秘めていると主張している。
しかし、そのアニメという表現方法の中にも、現実の劣化コピーではない真の描写としての優れたアニメと、既存のアニメのコピーでしかない劣化したアニメが存在するとも主張している。

既存のアニメのコピーであるアニメは、アニメという一つの「現実」を、アニメという一つの「表現方法」で表現したものである。
アニメという一つの「現実」を表現するには、たとえばアニメ作家を主人公にした小説を書くという表現方法もあるし、アニメ作品を分析する批評を書くという表現方法もある。同じように、アニメについてのアニメを作るという表現方法もある。
もし、押井守の言いたいことが、アニメのコピーであるアニメが無条件に「表現」の体をなしていないという主張であるなら、押井守のこの主張は、押井守自身のアニメ擁護論と完全に矛盾している。
アニメというものも、人によってさまざまな見方のある「現実」の一つでしかない。そのアニメという「現実」を表現したいとき、方法としてアニメを選択するのは、押井守自身の論によれば、「現実の劣化コピーでしかない」結果をまねかないための優れた方法であるはずだ。
アニメについての評論を書く代わりに、アニメについてのアニメを作ることが、無条件に押井守から「『表現』の体をなしていない」というマイナス評価をうけるいわれはない。
おそらく押井守は、アニメという表現方法を特権化しすぎているのではないだろうか。あまりにアニメという表現方法を特権的なものと考えすぎるあまり、アニメが単なる「現実」の一つであることを忘れてしまっているのではないか。
より正確に言えば、アニメが表現方法であると同時に、表現される「現実」の側でもあることを、押井守はうっかり捉えそこねているのではないか。
アニメに限らず、小説でも映画でも批評でも絵画でも、あらゆる表現方法が、「小説についての小説」「映画についての映画」「批評についての批評」「絵画についての絵画」など、自己言及的でありうるということは、押井守自身がいちばんよく知っているはずだ。
表現方法は、表現される思想や内容に奉仕する奴隷ではないし、逆に、表現される思想や内容も、表現方法に奉仕する奴隷ではない。どちらも現在の社会を構成する、さまざまな機能の一つでしかない。

表現方法と、表現される思想や内容は、社会においては、ともに入れ替え可能な機能の一つでしかない。ときには一方が他方を表現することもあり、一方が他方によって表現されることもある。
押井守が本当に、実写は現実の劣化コピーでしかないと考えているなら、アニメという現実を表現するにあたっても、その表現方法として、アニメは実写より優れているはずだ。
であれば、アニメがアニメを「コピー」し、そのコピーをまたアニメが「コピー」している状況を、「オタクの消費財」であると断定するのは早すぎはしないか。
少なくともアニメの「コピーのコピーのコピー」と見えるものの中にも、単なる「オタクの消費財」と化していない、アニメによるアニメという「現実」の表現があることを指摘すべきではないか。
表現される現実と、表現方法の入れ替え可能性が、即、何ら新しい可能性を生み出さないということにはならない。戦闘機に乗って闘う存在が、たとえ純粋に機能的に入れ替え可能な存在だとしても、即、そうした機能を果たす存在に意味がないということにはならない。
アニメという「現実」を表現するアニメがあり、そうした「現実」をさらに表現するアニメがある。そのような、表現される側でも、表現する側でもありうるアニメという「現実」の、自己言及的な表現・被表現の連鎖、原作があり、二次創作があり、さらにその二次創作がありといった連鎖が、何の付加価値も生み出さない「消費財」に過ぎないということにはならないだろう。
押井守がアニメという「現実」かつ表現方法に、その程度の価値しか見ていないのであれば、押井守は単に個人的にアニメに絶望しているというだけのことだ。
そもそも、表現し、表現されるという自己言及的な創作の連鎖と無縁な表現方法など存在するだろうか。例えば、古典が古典として読み継がれるために、子供向けに表現し直されたり、演劇や映画に翻案されたりしてきたのではないか。
押井守が本当に冒頭のようなことを講演でしゃべったのだとしたら、とても残念だと思ったので、長くなったが、アニメの「コピーのコピーのコピー」の存在意義について、僕の個人的な考え方を書いてみた。

NHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」報告の根本的誤り

昨日、2011/11/23のNHK『クローズアップ現代』で現代型うつを取り上げていたが、大いに疑問が残った。
現代型うつが、従来のうつ病と違って「他罰的」であるというのはいい。
しかし、番組後半に登場した病院で、現代型うつの患者どうしが自分の病歴を話し合うことで、それぞれの他罰的な傾向に気づき、その気づきから社会復帰のきっかけをつかむ、という部分。
この流れはどう考えてもおかしい。
他罰的という言葉の意味は、他人の責任にするという意味だ。
従来型のうつ病患者は一般的に、「すべて自分が悪い」と自分を責める「自罰型」で、自分自身に対して攻撃的になり、自分の身体を傷つける自傷行為に走ったり、私生活でも部屋に閉じこもるなど、活動レベルが下がると言われている。
それに対して現代型うつは、「すべて周囲が悪い」と他人のせいにして、私生活では自分の趣味にかえって活動的になるなど、単なるサボりと誤解されることが多いとされる。
しかし、他罰的か自罰的かというのは、単なるうつ病の症状のパターンにすぎない。
たとえば、昨日の『クローズアップ現代』の後半で紹介されていた、現代型うつ患者の中年男性。
今まですべてを周囲のせいにしていた考え方を改め、自分自身の責任も認識できるようになったということと、彼がこれから社会復帰できるかどうかは、まったく別問題だ。
というのは、読者のなかで会社勤めをしている皆さんも、自分の職場を思い出してみればすぐ分かる。職場で何か問題があっても、まったく自分の責任を感じる様子のない人というのは、どの会社にもいる。
しかしそういう人たちが全員、他罰的だからといって、それが「原因」で現代型うつ病になって休職したり、退職したりするわけではない。
その人の精神的な傾向が、他罰的であれ、自罰的であれ、それがつねに休職や、社会からのドロップアウトにつながるわけではないのだ。
つまり、他罰性や自罰性は、その人が休職するなど、社会生活に適応できなくなった「結果」、たまたま目立って見えてくる特徴に過ぎないのであって、他罰性や自罰性が「原因」で、うつ病になるのではない。
こんなことは、少し考えればわかるだろう。
したがって、昨日の『クローズアップ現代』の後半にあったように、あたかも自分の他罰的傾向に気づくことが、社会復帰への鍵であるかのような伝え方は、完全に間違っている。
むしろ、同じように他罰的だったり自罰的だったりする人たちのなかで、なぜ一部の人たちだけが、仕事を続けられなくなるほど体調を崩してしまうのか?ということの方が、本質的な問題だ。
もっと言えば、現代型うつであれ、従来型うつであれ、その真の原因は、一方的に個人の側にあるのではない。
個人の期待や考え方と、周囲の環境との食い違いが生じたとき、それを個人の側、環境の側の両方から歩み寄って解決しようという社会的なしくみが不足していること。この点こそが本質的な問題だろう。
うつ病の人間などいらない、という組織であれば、環境の側からの歩み寄りを、わざと止めればいい。そうすれば、適応できない人間は「勝手に」うつ病になり、最終的には退職してくれるだろう。
そうしてドロップアウトした人間は、国が失業保険や生活保護の形で面倒を見るしかない。個々の組織がコストを負担してまで面倒を見るのがイヤなので、わずらわしい人間は国に押しつけ、税金で面倒を見てもらおうという考え方だ。
そういう個々の組織の「部分最適」な考え方は、最終的には毎年の自殺者が3万人台だったり、失業した結果、経済力のない若者が子供を持たなくなるなど、日本社会の構造的問題に帰結する。
そして、日本経済の内需を衰退させ、市場の縮小や、社会保険料の企業負担分の増額など、回りまわって個々の組織そのものの首を締めることになる。
これは典型的な合成の誤謬、「部分最適」な考え方が社会「全体」の効率を悪化させる例だ。
要はどんな組織であれ、国のセーフティーネット(失業保険や生活保護)にタダ乗りすれば、最終的には自分自身がツケを払わされるというだけのことだ。
残念なことに、今の営利企業のほとんどは、基本的にこういう「タダ乗り」式の考え方で運営されており、その考え方は職場の「空気」に反映される。
その結果、独力で環境との食い違いを解決できない人間は、診断名は従来型うつ、現代型うつ、適応障害でも何でもいいが、とにかく組織からはじき出されることになる。
ではなぜ最近になって、「独力で」環境と自分自身の期待や考え方の食い違いを解決できない人が増えてきたのか?
それは、今までは職場から見ると「独力で」解決していたかのように見えていたが、実際には個々の社員の背後にある家族や友人や恋人が、会社組織の代わりに解決してくれていただけのことである。
つまり、今までの職場が、社会問題になるほどうつ病患者を出さずにやって来られたのは、単に営利企業という組織が、個々人を支える社会的な資源(家族や友人や恋人など)にタダ乗りしていただけのことなのだ。
ではなぜ最近の会社員には、そうした社会的な資源を利用できる人間が減ってしまったのか。ここまでさかのぼって初めて、本質的な問題を議論することができる。
本質的な問題から生じた結果の、そのまた結果でしかない「他罰性」を、表面的、一時的に本人に納得させたところで、現代型うつが解決するわけでは決してない。ましてそうした現代型うつ病の社員に、「メンタル社員」というレッテル貼りをするような組織に、本質的な問題解決の能力があるはずがない。
以上のような理由で、昨夜のNHK『クローズアップ現代』の「現代型うつ」のとり上げ方は、ほぼ完全に間違っていた。というより、まさに社会への適応に障害をもつ人たちを生み出す側の、企業の論理で語られていた、と言える。

水樹奈々CD売上枚数推移グラフ

ヒマなので水樹奈々の2001/12/05発売『supersonic girl』から2011/08/03発売の最新シングル『純潔パラドックス』まで、オリコンの推定初動売上枚数と、累計売上枚数の推移を横棒グラフにしてみた。
Nanamizuki_rankingsingle201111
Nanamizuki_rankingalbum201111
このグラフを見ると、最初のブレイクは2002年秋だったことがわかる。
2ndアルバム『MAGIC ATTRACTION』の初動売上枚数に対する、2週目以降の売上の多さと、シングル『POWER GATE』と『suddenly~巡り合えて~』の累計売上の差で、そのことが明らかだ。
ただ、この時期は最初のコンサートツアー『ATTRACTION 2002』が始まる前だし、シングルのタイアップにも目立つ作品はないし、フェイト・テスタロッサ役は2004年に始まるので、この最初のブレイクの理由がよくわからない。
水樹奈々ファンの方、ご教示いただければ幸いです。
第二弾のブレイクは2005/10/19発売のシングル『ETERNAL BLAZE』のようだ。翌年発売のアルバム『HYBRID UNIVERSE』の初動、累計とも、その前のアルバム『ALIVE & KICKING』の約1.5倍に跳ね上がっている。
この第二弾のブレイクは、やはり『魔法少女リリカルなのはA’s』で、水樹奈々が演じるフェイト・テスタロッサが、ヒロインの高町なのはのパートナー役になったことによる、作品自体のヒットが原因だろうか。
第三弾のブレイクは2007/04/18発売のシングル『SECRET AMBITION』で、この曲で、シングルの方の売上は累計8万枚が一種のベースラインになったようだ。これも『魔法少女リリカルなのは』シリーズの主題歌で、やはりテスタロッサ人気と連動しているのだろう。
一方、アルバムの方は『HYBRID UNIVERSE』、そしてその次のベストアルバム『THE MUSEUM』、『GREAT ACTIVITY』と順調に初動、累計とも売上を伸ばしている。じわじわとファンが増えているのがわかる。
このあたりは2002年以降、毎年コンスタントにコンサートツアーを行なっていることも寄与していると思われる。
第四弾のブレイクは2009/06/03発売のアルバム『ULTIMATE DIAMOND』だろうか。2009年はシングルの累計売上の変動がないのに大して、このアルバムは初動だけで一つ前のアルバム『GREAT ACTIVITY』を軽く超えている。
また、ウィキペディアによれば、声優によるオリコン週間アルバムチャート初登場1位は、1968年から始まったオリコンの歴史で初めて、とのことだ。
ここまでの彼女の最高累計売上シングル『Trickster』や、『深愛』『STARCAMP EP』が収録されているというだけで、この伸びは説明できない気がする。これもお分かりの方は、ご教示いただければ幸いです。
その後、シングルは2010/01/13発売の『PHANTOM MINDS』が初動でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得し、今に至るまで水樹奈々の最高累計売上のシングルとなっている。この曲も『魔法少女リリカルなのは』シリーズで、劇場版の主題歌。やはりテスタロッサ人気は根強い。
シングルはこの『PHANTOM MINDS』以降、比較的落ち着いた動きを見せているが、同じ年2010/07/07発売の『IMPACT EXCITER』は前作『ULTIMATE DIAMOND』よりさらに売上を伸ばしている。
2003/11/27発売のアルバム『DREAM SKIPPER』以降、アルバムについては、ほぼ勢いが衰えることなく売上を伸ばし続けている。しかも毎回、2週目以降の売上も伸び続けており、固定ファン以外に新たなファンを獲得し続けていることもわかる。
ただ、『IMPACT EXCITER』以降のシングル売上の推移を見ると、明日フラゲ日、明後日の2011/11/23発売のベストアルバム『THE MUSEUM II』は、おそらく『IMPACT EXCITER』と同程度の売上枚数にとどまりそうな感じがする。
何の内容もない記事で済みませんでした。

alan、中国帰国後第一弾シングル『我回来了(ただいま)』の歌詞日本語試訳

alanの中国帰国後、そして中国大陸でavex Chinaから楽華娯楽へ移籍して第一弾のシングル『我回来了(ただいま)』の歌詞を日本語に試訳してみたい。
個人的な感想をひとことで言えば、とても美しい歌詞だ。
日本での活動の想い出や、日本のファンの温かい応援をあえて振り切って、中国で新しい一歩を踏み出す、そういうalanの心境をそのまま描いたような歌詞になっている。

《我回来了(ただいま)》
作詞:王雅君 作曲:林俊杰
经过了多少个街灯
街灯をいくつも通りすぎて
才找到回家的大门
やっと家の玄関にたどりついた
今晚我舍不得关灯
今晩は灯りを消すのも惜しい
只要不被打扰的
そっとしておいてくれさえすれば
回忆像开过的列车
回想は列車のように走ってゆく
幸福是每一次启程
幸せはいつも旅立ちのようなもの
直到你的手松开后
あなたが手を離したそのときに
我才彻底的醒了
私はようやくはっきり目ざめる
每个吻都有几次 伤透心的可能
口づけするたび
心は何度も傷つくかもしれない
才熬成不让眼泪 每一次都会疼
でもそうして初めて
涙流しても心は痛まなくなる
我 不曾完整走的旅程 却走得曲折
私はまだ歩み終えていない旅路を
曲がりくねった道でも歩いてゆく
每个人都在渴望 需要爱的眼神
人はみな 愛する人のまなざしを求めている
却忘了时间仍然留不住他的体温
でもいつまでも
その温もりにとどまることはできない
我 乱了永恒 才甘心的等待下一次的旅程
私は永遠をかき乱して
ようやく次の旅路を心から待ち望む
(*恋人の胸の温もりの中にいつまでもいたい気持ちをふりはらって、初めて新たな旅に出る心の準備ができる、という意味と、日本のファンの応援という温もりの中に、いつまでもとどまっていたい気持ちをふりはらって、初めて、中国での新しい活動を始める心の準備ができる、という意味が、二重になっていると思われる)
离开了 昨天的 天亮了 复活了
さよならした 昨日とは 夜は明け よみがえる
这一刻 我回来了
この瞬間 「ただいま」
每个人都在灼热 需要爱的眼神
人はみな 愛する人のまなざしを求めている
却忘了时间仍然留不住他的体温
でもいつまでも
その温もりにとどまることはできない
我 乱了永恒 才甘心的等待下一次的旅程
私は永遠をかき乱して
ようやく次の旅路を心から待ち望む