月別アーカイブ: 2011年8月

二者択一を迫られる被災者を尻目に神学論争を続ける人々

ドイツのテレビ局ZDFの『Frontal 21』という番組の『福島原発事故、その後…』について、福島中央テレビによる申し立ててYouTubeから削除された件も含め、いまネットでいろいろと話題になっているようだ。
僕自身もツイッターで、低線量内部被ばくについて、ある方と少し議論になった。
その方は「ECRR(欧州放射線リスク委員会)はトンデモ団体で、彼らが低線量内部被ばくについて論じていることは全くあてにならない」というご意見だった。
僕は東大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏の意見を今のところ信用しているので、「ICRP(国際放射線防護委員会)の設定したしきい値には、最先端のゲノム科学が全く反映されていないので採用できない」という意見だ。

また、肥田舜太郎氏の実体験にもとづく『内部被曝の脅威』(ちくま新書)を読んで、ABCC(原爆傷害調査委員会)が決して中立ではなく、戦後日本で原子力の平和利用を促進するため、広島・長崎被ばく者の疫学調査のうち、内部被ばくの長期的な影響について必ずしも正確な統計を公表していないという意見も目にしている。
京都大学のいわゆる反体制派の原子力工学の専門家である熊取六人組(小出裕章助教も含む)の一人、今中哲二助教も、ECRRをこき下ろしている。
『第99回 原子力安全問題ゼミ 2004年12月15日 低線量被曝リスク評価に関する話題紹介と問題整理』
この資料の最後の「まとめ」には次のように書かれている。
・ECRRのリスク評価は、『ミソもクソも一緒』になっていて付き合いきれない。
・ECCRに安易に乗っかると、なんでもかんでも「よく分からない内部被曝が原因」となってしまう。
・湾岸戦争でのDU弾使用とその後のバスラ住民の「健康悪化との相関関係」に関するデータはたくさんあるが、「放射線被曝との因果関係」を示唆するデータはほとんどない。
しかし、その今中哲二助教は別の文章、『低線量放射線被曝とその発がんリスク』で、ABCCによる広島・長崎の被ばく生存者を対象とする寿命調査を、「放射線被曝の人体影響に関する比類のないデータとなっている」として、全幅の信頼をおいている。この同じ文章の中でも、今中哲二助教はECRRについては否定的である。
日本において、反体制派の原子力工学社である今中哲二氏が、低線量内部被ばくのリスクについてABCCの疫学調査を支持し、ICRPを批判するECRRに対しては「付き合いきれない」とまで書いている。
一方、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授は、ICRPは最先端のゲノム科学を反映しておらず、採用できないとしている。
ICRPが内部被ばくの健康被害リスクを過小評価しているという、結論部分だけを取れば、児玉龍彦教授とECRRは一致している。
2011年7月27日(水)衆議院厚生労働委員会「放射線の健康への影響」参考人説明より 児玉龍彦(参考人)文字起し
以上のように、内部被ばくの健康への影響リスクについては、政治的立場を超えて見解が一致していたりするので、一筋縄ではいかないことだけは明らかだ。
このような問題について、僕が今日ツイッターで議論をふっかけた方のように、科学的に中立の立場が実在するかのように議論をするのは、非倫理的である。その方が僕との議論を終えた後のツイートを引用してみる。
「お前は原発推進派か?反原発派か?」「ECRRを否定するということは、お前はICRPを信頼するんだな?」。なんでそうやって単純な二項対立に当てはめようとするかね。
差し当たり「単純な二項対立」という思考の枠組みを採用せざるをえないのは、じっさいに福島第一原発の周辺の住民が、転居するか、そのまま住み続けるかの二者択一を迫られているからだ。
もしかすると今後、福島第一原発の事故が首尾よく収束しなければ、首都圏の住民も同じように、転居するか、そのまま住み続けるかの二者択一を迫られるかもしれない。
そういうときに、「なんでそうやって単純な二項対立に当てはめようとするかね」というスタンスは、直接の被害にあっていないという特権的な立場からくる、傍観者的で、非倫理的とさえいえる発言である。
現実に二者択一を迫られている住民からすれば、こういった「高みの見物」的な物言いは、許しがたいものであるに違いない。
児玉龍彦教授が、厚労委員会の場をふくめて、ときに感情的になるのは、すでに原発事故が起こってしまっている状況で、このような傍観者的発言や、「単純な二項対立」を排した神学論争をしている場合ではない、ということだろう。
たぶん今、ツイッター上では、内部被ばくの問題について、僕が今日議論をふっかけた方と同じように、なんでも「単純な二項対立に当てはめ」たがるヤツはバカだ、という論調がたくさん見つかると思う。
しかし、すでに原発事故が起こっている状況では、そうした傍観者的物言いをし、自分自身の立場を明言しない人たちこそ、人命を軽視している非倫理的な人たちだと、僕は言いたい。
※2011/09/01追記:
上記の方とのその後の議論はややまどろっこしくなったが、先方の立場をようやく明確に伺うことができたので、追記させて頂く。
また、この方もじっさいには決して第三者的議論をされているわけではなく、ご自身の切実な問題として「倫理的」に考えられていたことを付け加えさせて頂きたい。
この方のお考えは、基本的に反原発でも原発推進でもないが、電力安定供給が損なわれることによる死亡確率の方が、原発事故による死亡確率より高いと判断するので、電力安定供給を最優先と考える、とのことだった。
死亡確率についてそのようにお考えの理由は、一度に100mSv以下の被曝によって健康に影響が出たという疫学データが存在しないから、とのことだ。これはこれで一つの考え方だと思う。
つまり、この方のお考えでは、長期間におよぶ累計の被ばく量、および、外部被ばくと内部被ばくの健康への影響の違いについて、信頼できる疫学データは存在しないということのようだ。
ただ、僕から見ればこれは一つの立派な「原発推進」という政治的立場である。
外部被ばくについてしきい値を設定しているICRPと、この方の考え方は基本的に同じであり、功利主義的なコスト・ベネフィット計算が背景にある。
ICRPが過去数十年にわたって、しきい値を少しずつ上げてきているのも、原子力発電所の運転を続けるための費用対効果を計算しているからこそだ。それ以外に、ICRPがしきい値を少しずつ上げてきた経緯を正当化する理由はない。
僕個人の意見では、この方には申し訳ないが、ICRPの功利主義的立場を、反原発でも原発推進でもない中立的立場と断言することはできない。れっきとした原発推進派である。
以上、追記させて頂いた。

ドイツZDFの『福島原発事故、その後』日本語字幕文字起し

ドイツのテレビ局ZDFの『Frontal 21』という番組で、福島第一原発事故のその後がレポートされた。
YouTubeにアップロードされていた動画は、福島第一原発の水素爆発の場面を無断で使われたという理由で、日本テレビ系列の福島中央テレビによる申し立てて削除されている。したがって、ここには日本語字幕だけ文字起ししておく。
もとにした動画はtwitvidにアップされているこちら
なお、この日本語字幕を作成したのは、こちらのブログCANARD PLUSの筆者の方のようだが、字幕を作成しました、という報告のエントリーは削除されており、Googleのキャッシュにしか残っていない。
また、僕のブログ記事よりも正確なまとめ記事を教えていただいたので、リンクを張っておく。
『ドイツZDF作成のFrontal21 「福島原発事故、その後(日本語字幕)」動画の、元番組の動画、フルテキスト、関連リンクなど』(2011/08/31 ブログ『メモノメモ』より)
ドイツZDF Frontal 21 「福島原発事故、その後…」
日本屈指の豊かな農地福島県。都会の人の観光地としての人気だ。原発事故でその広域が汚染されてしまったのだ。
大沢さん(61歳)は本宮の農家。原発からは80キロ離れている。畑で採れたジャガイモ・ナス・ネギを、隣町の市民放射能測定所に持ち込んだ。
原発事故以来自分で栽培した野菜は食べていない。放射能汚染を恐れたからだ。
大沢さん:「政府の発表はもはや信用できない。最初から事態を小さく見せようとばかりしている。直ちに健康に害がないの繰り返し。正確な数値も出さない。まともな測定もしない。汚染問題の中にみんなを放置した」
事故後大沢さんはすぐ作物の検査を行政に依頼したが、「畑は20・30キロ圏から遠く離れている。検査の必要はない」と断られた。
市民放射能測定所の意見は正反対である。汚染のない作物はない。特にセシウム137がひどいからだ。
市民放射能測定所:「こんな汚染数値の場所は本当は絶対避難するべきです」
大沢さんのジャガイモも例外ではなかった。原発から60キロ離れた伊達市のシイタケからは、1キロあたり7000ベクレルの汚染が測定された。基準値は500ベクレルだ。
市民放射能測定所・ハセガワ氏:「もはや食べ物ではなくて放射性廃棄物です」
汚染調査は本来県の食品衛生検査所の管轄だが、ほとんどパンク状態である。コンセプトもない。人手も計測器の数も追いつかない。
食品衛生検査所・アラカワ氏:「一般の方の検査はお断りせざるをえません。我々が選んだサンプルを検査し判断を出しておりますが、それだけで手一杯の状態です。市民の検査も引き受けたら、役所の仕事に手が回りません」
我慢強い日本人もだんだん食品の汚染問題に気付きはじめている。野菜、緑茶に続いて牛肉、原発を所有する東電の反応は?
今までと同様、ノーコメント、管轄外の一点張りだ。
東京電力・ヒトスギ氏:「私達の仕事は原発の中です。測定は国と地方行政の管轄で私達はお手伝いするだけ。ですからコメントできません」
大沢さんの農作物検査結果について我々が質問すると、原発担当大臣はうろたえるばかりだった。危機管理担当の役人達は長々と書類をチェックしたあげく、大臣はついに不備を認めた。
細野原発担当大臣:「万全の監視体制のつもりでしたが、牛肉問題で検査の強化の必要が認められました。今後汚染食品が出回ることを防止しなければなりません」
一方グリーンピースは独自の調査結果を発表。魚も汚染されていた。
グリーンピース・Jan van der Putte:「魚は相変わらず高濃度のセシウムに汚染されています。原発から55キロ離れた所まで調査した魚の半分が、基準の500ベクレル/キロを大きく上回っていました。汚染が広範囲であることを物語っています」
日本人の主食、米も同じ運命のようだ。
大沢さんの田んぼの土は二度検査所に提出された。最初の検査は合格したが、二度目の結果は公表されない。
大沢さん:「今年も作付けを出来るか知りたかったので、自費で独立の研究所に検査をしてもらった。3万5千ベクレル/キロのセシウム137が検出された。基準値の7倍だ。米作りはあきらめた」
福島市のほとんどの住民はこうした汚染数値を知らされていない。おりしも夏祭り、売られている物は何でも食べる。空中線量が下がって以来、人々は日常生活に戻った。
子供の被曝許容量が20ミリシーベルト/時に引き上げられたことへの怒りも、忘れ去られたようだ。
英国クリストファー・バスビーのような専門家は、まさにそのことに警鐘を鳴らす。
バスビー:「日本政府の無責任ぶりは犯罪的だと思う。子供に平気で高い被曝をさせている。都合がいいというだけで短期間でこれほど基準を変えてしまうとは、この判断は間違いなく多くの子供を死に至らせるだろう。文明国のやることとは思えない」
だがここはまさに原子力ムラの国なのだ。権力を握る電力会社、政治家、官僚が原発のあらゆるスキャンダルを隠蔽し、大したことがないように見せてきた。
何兆円ものビジネスを守るために、今回も同じ手段を使おうとしている。大沢さんはまさに文字通り、それを「身」をもって体験した。
大沢さん:「自分の体がどれくらい放射能被曝しているか検査したかった。だが福島の大学には拒否された。市民の検査はしないと。友人は隣の県の病院に問い合わせた。ところが福島県知事から福島県民の診察を受け入れないように指示されているそうだ」
そのような指示の出された事実はないと当局は言う。しかし大沢さんは農家を捨てなければならない。自宅で毎時90マイクロシーベルトを測定したのだ。9日間でドイツ原発作業員の年間許容量に達する数値だ。原発から80キロも離れた場所なのに。
バスビー:「これは人間の想像力を越える惨事です。制御不能の状況であることは当初から明らかだった。どうしたらいいのか誰にもわからないし簡単な答えもない。これは人類史上最悪の惨事だと思う」
福島の至る所に人々はひまわりを植えた。土の中の放射能を吸収すると言われている。
(日本語字幕文字起しここまで)
なお、このレポートに登場するクリストファー・バスビー氏とは、欧州放射線リスク委員会(ECRR)という市民団体の科学事務局に所属している。
Christopher Busby (Wikipedia)
*元の日本語字幕で「福島大学」となっている部分は、ドイツ語のナレーションは「Universitaet von Fukushima(福島の大学)」であるというご指摘をいただいたので、字幕を作った方には無断ではあるが修正しておいた。
*「5万3千ベクレル」という部分は、基準値の5倍という文脈からも、実際の発音からも「3万5千ベクレル」が正しいとの指摘があったので、こちらも字幕を作った方には無断だが修正しておいた。
*さらに修正。本宮は福島第一原発から80キロというのは誤りで、実際は50~60キロの距離とのこと。これはZDFの誤りらしい。こちらのツイーとを参照⇒ https://twitter.com/#!/yagihexe/status/109189825600552960

森達也監督『A2』:人工物としての「信仰の自由」

森達也監督のオウム真理教についてのドキュメンタリー映画『A2』(2001年公開)を、ニコニコ生放送のタイムシフトで観た。上祐史浩が出所した1999年前後のころの、各拠点の信者たちを、主に信者の側から撮影したものだ。

この映画では、信者たちの日常生活が意外なほど淡々としていること。むしろ彼らに対する警察、右翼団体、追放運動をする地域住民の行動の異様さを、たくみにあぶり出している。
もちろん監督の森達也氏は、教団が組織的に起こした凶悪犯罪をゆるしているわけでは決してない。
逆に森氏はこの映画の最後で、被害者からの賠償請求に応じるなど、教団が態度を軟化させているのは、逆に過去に対する欺瞞ではないかと、信者を問い詰めている。
森達也氏がそこまで信者に率直な物言いができるのは、この映画の撮影を通じてオウム信者たちとの距離を縮められたことと、そして、オウム真理教という組織が、じっさいには部活の延長線のように未熟であることがあるだろう。
その意味で、この映画全体は、森達也氏にしか追及できなかった、オウム信者たちに対する根本的な問題提起といえる。
ところで、過去に凶悪犯罪を犯したオウム真理教にさえ、日本国憲法第二十条の「信仰の自由」は保証される。
オウム真理教の地下鉄サリン事件を見て、新興宗教をすべて反社会的でいかがわしいものととらえ、「信仰の自由」自体を否定的に考えるのは、完全に間違っている。

ただし、その「信仰の自由」とは、社会から遊離した抽象的な概念ではなく、日本国民にとっては、あくまで日本国憲法と、日本国の法律の枠内の概念でしかない。
したがって、オウム真理教に限らず、すべての宗教団体は、日本の法律に従わなければ「信仰の自由」も保証されない。たとえ今の日本の法律にいろいろな不備があっても、である。
これは一見当たり前のことのようだが、「信仰の自由」が人類の歴史の中では比較的新しい発明であり、時間をかけて作り上げてきた社会の決まりごとであることを忘れてはいけない。
たとえある宗教がその教義の中で、「現世」のいかなる法律も認めないと宣言しても、現実に法律に反する行為をすれば、その社会の定める手続きにしたがって処罰される。
「信仰の自由」は日本の法律があるからこそ存在するのであって、日本の法律を逸脱し、かつ、「信仰の自由」が保証されるという状態は存在しない。
オウム真理教だけでなく、オウム真理教の反対運動を行ういかなる日本国民も、同じように日本の法律に従う必要がある。
この映画で、オウム真理教の信者たちより、彼らをとりまく市民や右翼団体、警察が「滑稽」に見えるのは、これらの人たちが、オウム真理教のような「犯罪集団」に対しては、日本の法律など無視して、国家に代わって「私的」な罰をあたえてもいいのだという、とんでもない勘違いをしているように見えるからだ。
オウム信者は悪いやつらで、一般市民は善良、という善悪二元論を、素朴に信じている人たちがいるかもしれない。
そういう人たちは、社会にとって誰が「悪い」人間で、誰が「良い」人間かは、憲法や法律のような、それら自体、人間の作り上げた社会の約束事として決まっているに過ぎないことを、たぶん分かっていない。
社会における善悪は、単に社会の約束事として、憲法や法律などのかたちで決まっているだけの「人工物」であり、永遠普遍の真理として決まっているのではない。
もちろん人間は、普遍的な「善」「悪」の概念について考えることもできるが、それは哲学の仕事であり、現実の社会をまわす制度をつくるのとは別次元の話だ。
一つの社会の中で、異なる善悪の主張がお互いに矛盾する場合は、これもその社会が定めた手続き、つまり裁判などにしたがって調停するしかない。
そこで考えたいのは、この映画の最後で森達也監督が、なぜオウム真理教の幹部に「大人しい宗教団体に変わるだけで、過去を精算したことになるのか?」と問い詰めているのか、という点だ。
森達也氏自身、自分がオウム真理教に何を期待しているのかよくわからないと告白している。
ただ、おそらく森達也氏はオウム真理教に、教義を変えることを期待しているわけではない。森達也氏の中では、社会への適応に二つの段階が分けられているように見える。

一つは「信仰の自由」自体を成立させている、日本国の憲法や法律への適応。この適応ができなければ、宗教団体は「信仰の自由」を自己否定することになる。
地下鉄サリン事件はこの適応を拒否した結果であり、この事件の実行主体としてのオウム真理教は、もはや日本社会においては宗教団体ではなく、犯罪組織になってしまった。「信仰の自由」を自ら否定してしまったからだ。
もう一つの段階は、山本七平の言うような意味での日本的な空気の支配する社会への適応。文脈依存性の高い(=言外の含みが多い)コミュニケーションや、みんな同じでなければいけないという同調圧力の強い、日本的な社会への適応だ。
オウム真理教がいかにも日本的な社会へ適応してしまったら、同じ過ちをくり返すのではないか。森達也氏の危惧はおそらくここにある。
つまり、日本的社会への適応を拒否する人々や、そこからドロップアウトした人々が、別の価値観を求めてオウム真理教に入信している。なのに、そのオウム真理教が日本的社会への適応を目指してしまえば、信者の一部がオウム真理教からもはじき出されるおそれがある。
そうなると、教団からもはじき出された信者たちが、かつてテロ集団へ先鋭化していった道と同じ道を準備することになってしまう。
その意味で、逆説的ではあるが、宗教団体はいたずらに日本的な社会の「空気の支配」や「同調圧力」に適応するのではなく、その「信仰」に忠実である方が、かえって社会にうまく組み込まれる、ということになる。
森達也監督はオウム真理教のある種の「世俗化」に、直感的にこのようなことを危惧していたのではないか。
いずれにせよこのドキュメンタリー映画は、ナレーションもなく、劇的な演出もなく、現場で撮影した素材を秀逸な編集でつないだだけだが、2時間15分があっという間に感じられる秀作である。

肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)

肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)を読んだ。

本書は2005/06/10、東日本大震災の前に出版され、人類の原子力利用の歴史において、とくに第二次大戦後、内部被ばくによる健康被害が軽視され、ときには意図的に隠蔽されてきた事実を告発している。
著者のうち、肥田舜太郎氏は自ら広島で被曝した医師で、戦後一貫して原爆症患者の治療にたずさわってきた。鎌仲ひとみ氏はジャーナリストだ。
内部被ばくがもたらす健康被害の実例として、湾岸戦争で米国によって大量に使用された「劣化ウラン弾」によるイランの子供たちの健康被害(各種のガンや先天性異常)、肥田氏自らいまも体験している広島・長崎の原爆後遺症、そして、米国のハンフォード核施設周辺の住民がうけた健康被害などだ。
ところで、ニュースでよく「ホールボディーカウンタ」の話を聞くが、この機器はガンマ線しか測定できず、内部被ばくで重要なアルファ線、ベータ線がまったく測定できないのは、すでにご承知のとおりだ。
マスコミは「ホールボディーカウンタ」が、福島第一原発の近隣住民の健康調査をする鍵であるかのように報道しているが、完全な誤報である。
この点ひとつ取ってみてもわかるように、内部被ばく、なかでも低線量の内部被ばくによる健康被害の問題は、今のところマスメディアや一般市民に正しく認識されていない。そのことが、本書を読むとよくわかる。
また、今後長期間にわたって東日本全体で明らかになってくるかもしれない、内部被ばくによる健康被害を考えるとき、重要な観点がごっそり抜け落ちていることも、本書を一読すればよくわかる。
内部被ばくの健康への影響については、放射線医学の専門家のあいだでも意見が分かれるようだ。

例えば、近藤宗平著『人は放射線になぜ弱いか』(講談社ブルーバックス、1998年)では、人類は長い年月をかけて自然に存在する放射性物質に適応してきたので、低線量の内部被ばくに健康被害はないと断言している。
たとえばオンラインで読める近藤宗平氏の論文には、『放射線は少し浴びたほうが健康によい』というものもある。これを「ホルミシス効果」と呼ぶらしい。
肥田舜太郎氏は上掲書『内部被曝の脅威』の中で、近藤氏の『人は放射線になぜ弱いか』をとりあげ(p.86~)、この「ホルミシス効果」など、低線量内部被ばくに健康被害はないとする見方を否定している。
肥田氏が内部被ばくの問題を医師としてのライフワークとするきっかけになったのは、広島・長崎で内部被ばくしたと思われる、さまざまな原爆症患者を診察してきたことだ。
広島・長崎に原爆が投下されて数日たってから市内に入った人々が、似たような症状で亡くなっていく。その症例は本書の第二章前半に書かれている。
そして自らの体験を裏づける理論が、後に米国から出てくる。それがピッツバーグ大学医学部放射線科のスターングラス教授の見解であり、「ペトカウ効果」というものだ。
「ペトカウ効果」についての詳細は、本書『内部被曝の脅威』のp.90以降か、肥田舜太郎氏が竹野内真理氏と共同翻訳した『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために』(あけび書房)をお読みいただきたい。

また、『内部被曝の脅威』における「ペトカウ効果」の引用の仕方が不正確だとするブログ記事も紹介しておく。コメント欄に竹野内真理氏自身が意見を寄せている。
『「ペトカウ効果」は低線量被曝が健康に大きな影響を与える根拠となるのか?』(2011/06/16 ブログ「ぷろどおむ えあらいん」)
『低線量放射線の健康影響をどう考えるか』(2011/06/16 ブログ「ぷろどおむ えあらいん」)
僕自身は、低線量内部被ばくと健康被害に相関性があるのかどうか、判断できるだけの専門知識はない。
ただ、福島第一原発の事故が現在進行形である今の日本で、環境線量と外部被ばくの問題にくらべて、低線量の内部被ばくの問題があまりに見過ごされているのが、きわめて不可解だと考える。
ビデオニュース・ドットコムによれば、福島県で3月下旬に子供たちの甲状腺の内部被ばくの国と県による合同の調査結果について、当事者たちへの説明会が始まったのが、ようやく2011/08/17のことだ。
個人的には、低線量内部被ばくについて、放射線以外の要素を完全に除外した、正確な疫学的調査などできるわけがないと思う。
その意味で、事後の疫学的観点からは、健康被害を肯定する意見も、否定する意見も、それぞれに一定の根拠を持つのかもしれない。
しかし、いま日本が置かれている状況で重要なのは「予防」だ。内部被ばくによる健康被害について、専門家の意見が全員一致でない限り、「予防」の必要性まで否定する権限は誰にもないはずである。
学問的な議論とは別に、住民の協力を得つつ「予防」を現実に進めるためには、前提として内部被ばくによる健康被害の可能性は「ゼロではない」と、いったん社会的に暫定合意せざるを得ないのではないか。
その暫定合意までを、医学的根拠がないとして否定するのは、「隠蔽」と批判されても仕方ないのではないか。
…というのが、僕の暫定的な意見である。

iOSがAndroidより信頼性が高いと言われる本当の理由

Linuxが日本のIT業界で話題になり始めた頃、マイクロソフトが大嫌いなITの専門家たちは、Windows Serverの対抗馬として、手を変え品を変えLinuxをほめそやしたものだった。
その一つに、Linuxはソースコード(プログラムそのもの)が公開されているので、Windows Serverよりもウィルスなどの不正なプログラムが混入されにくい。したがってWindows Serverよりもウィルスの攻撃に強い、というものがあった。
もともとLinuxは、世界中のITの専門家(IT業界のことをよくご存じない方のためにあえて「ハッカー」や「ギーク」などの単語は使わない)が無償で機能改善に協力して作り上げた基本ソフトだ。
なので、たとえ誰かが悪意で不正な働きをするプログラムを忍び込ませても、あっという間に見つかってしまうし、誰かがLinuxの弱点を突くようなウィルスを開発しても、あっという間に誰かがその弱点を改善してしまう。
なので、マイクロソフトという一企業が、ソースコードを公開せずに開発しているWindows Serverより、ウィルスに強く、サーバーの基本ソフトとしては信頼性が高いというのが、登場したばかりのLinuxに対する一つの有力な見方だった。
さて、そのLinuxに少し手を加えて出来上がった基本ソフトにAndroidというものがあり、グーグル社が開発したものだが、やはりソースコードが公開されている。
もう一つ、Apple社の開発したiOSという基本ソフトがあり、こちらは全体の一部分しかソースコードが公開されていない。
ご承知のようにAndroidもiOSも、いわゆる「スマートフォン」と呼ばれる、最近よく売れている進化型携帯電話のほとんどに使われている基本ソフトだ。Androidは各種メーカーのスマートフォンに搭載されているが、iOSはApple社のiPod、iPad、iPhoneにしか搭載されていない。
やや強引かもしれないが、10年以上前のWindows Serverに当たるのが、現在のスマートフォンの世界ではiOS、Linuxに当たるのがAndroidとなる。
前者は一企業が開発した基本ソフトで、ソースコードが全て公開されているわけではない。後者はOHAという複数の企業で組織された団体が開発した基本ソフトで、バージョン 2.xまではソースコードが全て公開されている。
ITの専門家の基本的な考え方が変わらなければ、当然、Androidの方がより信頼性の高い基本ソフトという評価になるはずだ。
ところが不思議なことに、ほとんどのIT専門誌の評価は、AndroidよりもiOSの方が信頼性が高く、ウィルス感染のリスクも低いとしている。
その理由は、iOSはソースコードが公開されていないので、基本ソフトの根本的な機能を悪用するようなウィルスを開発しづらいし、かつ、iOS用に一般人が開発したアプリケーション(応用ソフト)が「App Store」で公開される前に、Apple社という一企業が厳しくチェックしているからだ。
逆に、Androidはソースコードが公開されているので、より悪質なウィルスを開発される危険性があるし、かつ、Android自体の開発主体が複数企業の集合体であるために、一般人がAndroid用に開発したアプリケーションが「Androidマーケット」で公開される前に、十分にチェックされていないからだ。
僕が思うのは、そもそもAndroidがLinuxを基礎にして開発されたのは、Linuxが信頼性の高いOSだからではないのか。それならなぜ、いまのIT業界は、ほぼ一方的にiOSの方がAndroidよりも安全性が高いという意見に偏っているのか。
おそらく、10年以上前のLinux礼賛も、いまのiOS礼賛も、IT業界の動機は同じである。つまり、どちらが自分たちにとってより稼ぎになるか、という一点だ。
10年以上前にLinuxが礼賛されたのは、Windows Serverやその周辺のアプリケーションがたくさん売れてもマイクロソフトが潤うだけだが、Linuxは新興ソフトウェア開発企業にとって、新たな事業機会であり、新たな収益の源泉だったからだ。
そして今、AndroidよりもiOSが礼賛されているのは、Apple社の株価が高どまりしており、その株価が下がると困る人たちが、Google社の株価が下がると困る人たちよりもたくさんいるからではないかと、僕は勘ぐっている。
つまりAndroidやグーグル社をけなして、Apple社やiOSを礼賛するのは、いわば公開でApple社の株価を、とくに米国のメディア中心に一生懸命つりあげているだけではないのか。
そして日本の自称ITジャーナリストの皆さんは、いつもどおり深く考えることなく、原稿の締め切りに追われて、対米追従してお茶を濁しているだけではないのか。
本来、話半分に聞くべきiOSとAndroidの比較論を真にうけて、本当にiOSの方が信頼性の高い基本ソフトだと信じてしまう、一般のサラリーマンの方が、さらに救いがたい愚かさなんだけれども。