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鬼束ちひろ、最初の3枚と最近の3枚の大きな差異

先日、鬼束ちひろからファンレターの返事をもらったことについて書いた記事を、Twitterでかなり取り上げて頂いているようだ。
受け取った本人の感想を改めて書いておくと、「鬼束ちひろって、やっぱり性格がかわいい人だ」の一言に尽きる。あの返事を怪文書と評価するのは、センスを疑う。
それはどうでもいいとして、鬼束ちひろのニューアルバム『剣と楓』、ジャケットが彼女の妹直筆の筆文字で、演歌風ということもあり、「聴かず嫌い」の扱いをうけているような気がする。
HootSuiteで「鬼束ちひろ」をキーワードに検索したTwitterのタイムラインを作って、たまにのぞいているとそんな感じがする。
これまでのアルバムの中に位置づければ、『剣と楓』はフォーライフミュージックのコピーである「原点回帰」というより、新しい一歩であることに違いない。

ただしそれは、今の彼女の外見からは想像できない新しい一歩だ。
1st『インソムニア』から3rd『SUGAR HIGH』までは、僕個人はすべての収録曲をシャッフルしても違和感なく聴けると思っている。つまり、この3枚で1枚のアルバムのようなものだ。
Insomnia - 鬼束ちひろInsomnia – 鬼束ちひろ
This Armor - 鬼束ちひろThis Armor – 鬼束ちひろ
Sugar High - 鬼束ちひろSUGAR HIGHT – 鬼束ちひろ
それくらい羽毛田丈史氏のアレンジによる鬼束ちひろ作品は、強い一貫性のあるイメージを持っている。それが鬼束ちひろの精神的な束縛になっていたことも事実だけれど。
そして4th『LAS VEGAS』、5th『DOROTHY』、6th『剣と楓』は、最初の3枚のアルバムと比べると、明確に一連の作品として位置づけられる。
LAS VEGAS - 鬼束ちひろLAS VEGAS – 鬼束ちひろ
DOROTHY - 鬼束ちひろDOROTHY – 鬼束ちひろ
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ
『LAS VEGAS』だけは小林武史プロデュースのせいで、一聴すると異質なようだが、鬼束ちひろの作詞・作曲スタイルは、東芝EMI時代と一線を画している。
最初の3枚のアルバムでの作詞・作曲は、本人が言うように、まさに「降りてくる」ままに書いた曲たちと言える。
なので「Castle・Imitation」などの曲に最も明確に現れているように、歌詞がシュールレアリズムの自動筆記的で、日本語としてかなり意味不明なものもある。
作曲については、理由はよくわからないのだが、8分の6拍子の曲が最初の3枚と比べると、復帰後の3枚では格段に多くなっている点、そして「蝋の翼」や「EVER AFTER」など、純然たるJ-POPと言いたくなる曲をさらりと書いてしまっている点、この2点が大きな違いだ。
東芝EMI時代で言えば「Sign」も純然たるJ-POPと言える曲だが、この曲について本人が、自分自身と距離をおいて脚本を書くようにして書いた、と語っている。
とすると、最近の3枚のアルバム収録曲で、歌詞が日本語として分かりやすく、かつ、いかにも歌詞らしい脚韻などの「形式」を備えるようになって来ているのは、「降りてきた」曲をそのまま書くのではなく、いったんそこから距離をおいて作品として仕上げる作曲スタイルへと、確実に変わっている。
この点で、最初の3枚と最近の3枚とでは、大きく作風が変わっている。
逆に言えば、最近の3枚の収録曲は、アレンジを差し引いて、鬼束ちひろの作詞・作曲だけに注目すれば、言われるほどバラバラではない。一貫した流れがある。
ケルト民謡への傾倒や、それが原因なのか、8分の6拍子の曲が増えているのも、最近の3枚のアルバムに共通している。
歌い手としての鬼束ちひろにも変化があり、楽曲によって声の出し方や表現方法を意図的に変えている。
ものまね芸人が「月光」を歌ってよくマネする、あの声色も健在だが、音色の幅は確実に広がっている。
以上のことをふまえた上で、やっぱり東芝EMI時代の鬼束ちひろの方が良かったというファンは、彼女がソングライターとしてスキルを上げてきていること、自分自身を客観的に見つめられるようになってきていることを、無意識のうちに拒否しているのかもしれない。
ニューアルバムの『剣と楓』は、鬼束ちひろが、より確信犯的に鬼束ちひろ風の曲や、全く鬼束ちひろ風でない曲を書き分けるようになっている点で、新しい一歩を踏み出している。
いつまでも過去の殻に閉じこもっていたいなら、東芝EMI時代の鬼束ちひろだけを聴き続けるのも、ファンとしては一つの選択肢だろう。鬼束ちひろには成長を拒否して欲しかったというのも、ファンとしての願望の一つかもしれない。
僕はどちらかと言えば、彼女の新しい「展開をいそがない/ならば少し待ち切れないでいよう」という気分なのだが。

鬼束ちひろ『剣と楓』レビュー(2)なぜ「青い鳥」が1曲目なのか

鬼束ちひろ『剣と楓』について、わかったような気分になれるレビューを、数回に分けて書いてみるシリーズ。
今回からは、歌詞について。
鬼束ちひろ自身がつねづね、曲を作るとき歌詞を先に書くと語っているように、彼女の曲にとって言うまでもなく歌詞は最重要。

ただし彼女は歌詞をいったん書いてしまうと、どういう意味なのか深く考えることはしない、とも言っている。鬼束ちひろの作詞についての考え方は、自伝エッセイ『月の破片』p.179~p.184で、彼女自身が詳細に解説しているので、必読。
ここで歌詞を分析するのは、鬼束ちひろ自身の意図をさぐろうというのではなく、解釈の可能性を示したいだけであることに注意。
まず1曲目の「青い鳥」。青い鳥が幸福の象徴であるのは言うまでもない。
この歌詞の中でも、幸せなど、どこにあるのかもわからず、またたく間に飛び去ってしまうものとして記述されている。
「宙をすり抜ける速さで」「幸せなんてどこに」「ロマンを突き抜ける速さで」などの言葉が、つかまえようとしてもつかまえられない幸福の比喩といえる。
「エデン」も原義どおり楽園であり、幸福のある場所と読める。ただし、幸福を求めているのは「迷子」だ。「迷路」に足をとられている。
「孤独よりも悲しい迷子/迷路がこの足を引きずる」
その「迷子」は道に迷っている以前に、まず「孤独」であり、「まただめになってひとり」の状態にある。その「孤独」より、今は「迷子」である状態の方が悲しむべきことというのだ。
「また」だめになってということは、失敗が一度ではなかったことを意味している。
「焼けた線路」は困難な現実をあらわす。現実は灼熱であるだけでなく、時に極寒でもある。「凍えた痛みを温めて/似せた重音にくちづけて」。
「似せた重音にくちづけて」が分かりづらいが、この「迷子」が鬼束ちひろのうつし絵だとすれば、初期の透明感のあるアレンジの作品から、重いロックにも似た音楽性へ近づいてきたことを示しているのかもしれない。
それは「エデン」へと向かう模索の、一つのプロセスに過ぎない。あくまで「くちづけ」にとどまり、それ以上、深入りすることなく、また「エデン」へと歩き出す。
Aメロの1番、2番でくり返される歌詞は「エデンの奥へと」、「どこまでいけるだろう」。つまり「孤独」な「迷子」は、「エデンの奥」に幸福があると信じている。
その「エデン」がどの方向にあるのか、手がかりになるのは、まず今の自分からの逃避。
「駆けてゆく/何から逃れるのだろう/それは誰?/返事さえも通り過ぎる」
この部分は、自分が何から逃れようとしているのか、そんな自分はいったい何者なのか?自分自身に問いかけても、自分の中から聞こえてくる返事さえ、うまくつかめずに通り過ぎてしまう、と読める。
今の自分から逃避すれば、自分が誰なのかも、自分が何から逃れようとしていたのかもわからなくなる。
結果として、いま自分が生きている現実を語るべき言葉をも失うことになる(「言葉を失った現実」)。
さらに、現実ではなく、今までの自分が見ていた夢までも思い出せなくなる。「それを思い出せない夢」の「それ」は「夢」を指している。英語で書けば The dream, it can’t be recalled.
自分自身があてにならないとすれば、手がかりは「羽音」だけになる。「錆びれた羽音は今でも/やっとのことで聞こえてる」。
この「羽音」は自分自身ではなく誰かの声、他者の声を表象している。誰かの声であることは、自分でもかすかにわかっている。「誰かが恋しいのかも」と書かれてあるからだ。
とても大切なのは、最後に残された幸せのある場所、エデンへの手がかりが、視覚的なものではなく「羽音」であることだ。
ここまで来れば、かろうじて聞こえる青い鳥の羽音に導かれて、つかめるかどうかも分からない幸せの方へ、もつれた脚で歩んでいるのが、鬼束ちひろにとてもよく似た存在だと分かる。
その歩みは、言うまでもなくまだ終わらないし、終えることができず、永遠に続くかのように思える。「いつかまた/終にさえも触れられずに」
この「青い鳥」がアルバムの最初の曲になっているのは、その歌詞が、ときにプライベートな幸せを犠牲にしても、音に導かれた終りのない探求、音楽性の探求を象徴しているからだ。
これほど鬼束ちひろのニューアルバム『剣と楓』のオープニングにふさわしい歌詞はないだろう。
青い鳥 - Single - 鬼束ちひろ青い鳥 – Single – 鬼束ちひろ
(つづく)

鬼束ちひろ『剣と楓』レビュー(1)曲順の緻密な構成

鬼束ちひろ『剣と楓』について、わかったような気分になれるレビューを、数回に分けて書いてみたい。
まずアルバムの収録曲の構成を見てみる。
1. 青い鳥
2. 夢かも知れない
3. EVER AFTER
4. IRIS
5. 僕を忘れないで
6. An Fhideag Airgid
7. SUNNY ROSE
8. NEW AGE STRANGER
9. CANDY GIRL
10. 罪の向こう 銀の幕
11. WANNA BE A HAPPY WARRIOR
12. 琥珀の雪
鬼束ちひろ本人が「鬼束節」と名づけ、アルバムの最初と最後にしたかったというバラード2曲が、「青い鳥」と「琥珀の雪」だ。

「青い鳥」は、アルバム『LAS VEGAS』収録のシングル「everyhome」以降、「帰り路をなくして」や「VENUS」など頻繁に鬼束作品に現れる8分の6拍子のバラード。ただしアレンジはロック色が強い。
「琥珀の雪」は「月光」「眩暈」など、初期作品からおなじみの4分の4拍子バラード。「罪の向こう 銀の幕」も全く同系統のバラードだ。つまり、1、10、12は「鬼束節」としてグルーピングできる。
次に、フォークロックついては、「青い鳥」も含めれば「IRIS」「WANNA BE A HAPPY WARRIOR」で、1、4、11の3曲。
次は、鬼束ちひろのアルバム曲としては、最も異色を放つJ-POP系。「夢かも知れない」「EVER AFTER」「CANDY GIRL」で、2、3、9の3曲。うち後者2曲は、彼女の自伝エッセイ『月の破片』の中で、某アイドルグループを想定して作ったと書いている。
次は、個人的にトラディショナルとくくってみる。「僕を忘れないで」「An Fhideag Airgid」「SUNNY ROSE」で、5、6、7の3曲。後者2曲は明らかに民謡または民謡風。
「僕を忘れないで」は鬼束ちひろ本人が「みんなのうた」とJ-POPの中間だと語っているように、3拍子で日本の童謡を思い起こさせるので、トラディショナルと分類してみた。
以上のように、常に3曲セットで同系統の曲が、アルバム全体に適度にちりばめられていることになる。
―鬼束節:1, 10, 12
―フォークロック:1, 4, 11
―J-POP:2, 3, 9
―トラディショナル:5, 6, 7
そしてこれら3曲セットから唯一はずれる曲が、8曲目、4つ打ちエレクトロポップの「NEW AGE STRANGER」である。鬼束ちひろがアルバムの中で核になるのはこの曲だと語っているのは、こういう理由だ。
アルバム全体は6曲目、7曲目のケルティックを折り返し地点とすると、8曲目の「NEW AGE STRANGER」が1970年代エレクトロポップの、いわば「懐かしい未来」という矛盾した表象になっている。
これと向かい合う位置におかれている5曲目「僕を忘れないで」は、端的にNHK「みんなのうた」のような「懐かしい過去」を表象している。
このように、相変わらず何も考えていない、他人に任せきりと言いつつ、鬼束ちひろのアルバムの曲順は緻密に計算されているのだ。
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ
(つづく)

鬼束ちひろからファンレターの返事がとどいた

鬼束ちひろの公式サイトに、「ファンレター送ってね!返事書くよ!」とあったので、中学生以来で芸能人にファンレターを書いてみた。
そしたら、早速今日、返事が届いた。同封した返信用便箋と返信用封筒に入っていたのは、以下の写真のもの。
「なきにしも荒川」と書かれた便箋と、鬼束ちひろが作ったらしい意味不明の小物。
Fanletterres20110425a
いちおう小さな星型のキャンドルで、黄色い方には「SICK」とマジックで書いたセロテープが貼られており、カラフルなカールコードに挿し込まれていた。
Fanletterres20110425b
ピンク色の星型のミニキャンドルには「DEAD」とマジックで書かれたセロテープが貼られていた。
Fanletterres20110425c
たぶん封に入れたときは、どちらもカールコードに挿し込まれていたのが、途中でピンク色の方だけはずれたと思われる。
最近の奇抜なスタイルを見ただけで鬼束ちひろを誤解してはいけない。なんてキュートな返事なんだ!!
Fanletterres20110425d
(注)あの…この記事をツィートしてもらうのはうれしいんですが、鬼束ちひろのニューアルバム『剣と楓』も聴いてね。ジャケットは演歌だけど、中身は「EVER AFTER」みたいなアニソン風の曲も入ってるんだよ!
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ

鬼束ちひろの音楽から失われたもの

鬼束ちひろの『剣と楓』について、あえて、鬼束ちひろの音楽から何が失われたのか?を考えてみた。
たぶん、不自由さだろう。
自伝エッセー『月の破片』によれば、鬼束ちひろは高校時代にJewelを聴いて、ミュージシャンになるんだと否応なしに思ったとある。
「私も曲を書かなくちゃ! アルバムを聴いて、すぐにそう思った。『書こうかな』とか『書いてみたい』などというような、夢見心地な思いつきではなかった。書けるかどうかという、迷いすら思い浮かばないほど」(『月の破片』p.174)
高二の鬼束ちひろにそこまで思わせたのは、それまでずっと、学校の集団生活にどうしても適応できない自分を感じていたからだ。
「たとえば、教室という箱の中に同じ年の子供たちが、ギュウギュウに詰め込まれているあの感じとか、机とイスが整然と並んでいる感じとか、全員が同じ歩幅で行進したり、整列したりするところとか、決まりごとばかりあるところとか……。思い出すと今でも気が狂いそうになる!」(同 p.032)
つまり、彼女にアーティストへの第一歩を踏み出させたのは、学校という環境に彼女が感じていた不自由さから解放されたいという気持ちではないのか。
初めて受けたオーディションに合格して、上京した後に待っていたのは、ホームシックだ。
「宮崎から上京した私は、毎日寂しくて死にそうだった」(同 p.059)
初めて家族と離れて暮らす孤独は、彼女が自分でコントロールできるレベルのものではなかった。否応なしに孤独という環境におかれた不自由さ。そのなかで、鬼束ちひろの曲のストックは産まれていく。
「上京してから、本格的に作曲をするようになった。デビューまでの一年弱、ひとり暮らしを始めたばかりの部屋で、寝ても覚めても曲を作り続けた。ちょっとした修行のような日々」(同 p.046)
どうしたって逃げ出せない孤独感という不自由さが、産まれていく曲に反映されていないはずがない。
デビューした後には、あまりにも厳しすぎるマネージャーとの人間関係。
「アーティストとしての振る舞い方や生活態度にいたるまで、細かく激しく怒られた。怒られるたびにその晩ひとりで泣いて、次の日もまた怒られて……ストレスの無間地獄」(同 p.061)
鬼束ちひろを「ベールに包まれた存在」として売り出すために、当時の所属事務所は、彼女をストレスの無間地獄という不自由な状態におとしいれた。
そうして活動していく中でファーストアルバム、セカンドアルバムを発売し、二度目の全国ツアーを行っているとき、今度はパニック障害という病気が、彼女を綱渡りの状態にする。

さらに慢性の不眠症との戦いもそうだ。鬼束ちひろ自身は、過緊張が不眠症の原因だと書いているが、今度は今夜も眠れるかどうかという不眠症への不安が過緊張を生む。
パニック障害も不眠症も、彼女が本当はこうしたいのに、ということを妨げ、不自由さをもたらしてきたはずだ。
しかし、現在の彼女の音楽制作の環境は、以前に比べれば不自由さから大きく解放されている。
「デビュー間もない頃は、スタイリストさんが用意してくれる衣装が”超”が付くほど不満だった。シンプルで清楚で透明感のあるイメージ」(同 p.144)に、おそらく彼女が学校という箱に抱いていたのと同じ、強い違和感をもっていた。
いまは彼女が自分で自分をコーディネートしている。お仕着せの不自由さからの解放。
そして音楽のプロデュースも、自分の思うままにできるようになった。
「今回のアルバムで一番嬉しいのは、”Produced by Chihiro Onitsuka”っていうクレジットが入っていること。要するに、セルフプロデュースができたことだ」(同 p.237)
こうして、一つ、また一つと、それまで鬼束ちひろとに不自由さを強いてきたものから解放され、ようやく「自分らしさ」に近づいてきた。
彼女自身もそういう認識をもっているとすれば、それによって彼女の音楽から失われたものも確実に存在するはずだ。
鬼束ちひろ自身の存在が今にも粉々にこわれてしまいそうなほど、激しい緊張感をもたらしていた不自由さから解放されることで、鬼束ちひろの音楽から失われてしまったもの。
その失われたものに、昔からの彼女のファンは気づいているのではないか。
単に容姿が、昔のように「清楚で透明感のあるイメージ」ではなくなった、というだけの問題ではなく、どうしたって鬼束ちひろの音楽から聴き取れてしまう、逃れようのない不自由さにこそ、昔からの彼女のファンは惹かれていたのではないか。
ニューアルバムの『剣と楓』に解放感があるとすれば、それは鬼束ちひろの音楽から失われたものをはっきりと指し示している。ロックが不自由さからの解放の音楽なら、なおさら。
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ