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音楽が売れなくなったのは違法コピーのせい、という大ウソ(2)

「違法コピーが増えたから、音楽が売れなくなった」という大ウソについて、前半では主にマクロ的な要因を論じてみた。あらためてまとめてみる。
―そもそも1984~1998年の音楽生産総額の急増は単なる「J-POPバブル」だった。
―その「J-POPバブル」の主な原因は以下の3つである。
(1)日本経済全体がバブルでGDPが右肩上がりに伸び、マスメディアとのタイアップで音楽生産も拡大できた。
(2)日本の総人口の中で2つの大きなかたまりである、団塊の世代と団塊ジュニアが、たまたま音楽をもっとも消費する年齢層である15~49歳に入った。
(3)音楽の製作現場のデジタル化で楽曲の大量生産が可能になった。
―1999年以降(1)と(2)の要因がなくなったため「J-POPバブル」は崩壊した。
―そうして音楽生産金額は、音楽消費の中心となる年齢層の減少ペースにそった、本来の減少ペースに落ちついた。
―2004年以降、音楽のデジタル配信という新たな技術により音楽生産総額は再び増加した。
以上が、1971年以降の音楽生産総額の推移のまとめだ。
夢見るクリエイターである音楽業界の方々は、こんな身もフタもない説明に反感をもたれるだろうが、小室哲哉のような才能も、経済環境があってこそ開花する。それが商業音楽というものだろう。
「才能がなければ売れない」というのは正しいが、「才能があれば売れる」という考え方は間違っている。典型的な必要条件と十分条件と取りちがえだ。
では後半は、音楽生産金額・数量を媒体別、シングル/アルバム別、単価などで分析してみる。
音楽生産の資料はすべて日本レコード協会のもので、1970年から2009年まで確認できる。
まず、シングル/アルバム別に、生産数量と生産金額の推移を見てみる。
なお、シングル/アルバムの区別については、レコードについてはEP盤を全てシングル、LP盤を全てアルバムと見なしている。CDについては8cmを全てシングルと見なしている。12cmのCDは日本レコード協会の統計上、シングルとアルバムに分けられているので、そのまま採用している。
Chart 3をご覧いただきたい。
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シングル/アルバム別の生産数量を見ると、ひと目でわかるのは、レコードからCDへ切り換わるまでは、アルバムよりシングルの方が生産枚数が多かったことだ。
それに対して、CDに切り換わってからは、アルバムの生産枚数が圧倒的に増えており、現在に近づけば近づくほどその差は開く。
1970~80年代のアイドル系に比べ、1990年代以降は音楽性の高さで訴求し、歌手を「アーティスト」と呼ぶようになり、それにつれてレコード会社の販売戦略もアルバム中止に転換したようだ。
全体の販売数量に占めるシングルの割合は、減少の一途であることが分かる。
それに対してChart 4で金額ベースの推移を見ると、当然ではあるが1970年以来一貫してアルバムの方が高くなっている。
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このことは、シングル/アルバム別の生産単価の推移を見るとわかる。Chart 5をご覧いただきたい。
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当然のことながら、アルバムよりシングルの1枚あたりの単価は低い。
ただ、単価の推移で注目すべきは、アルバムの単価がレコードからCDへの切り替わって以降、下落し続けていることだ。逆にシングルの単価は少しではあるが上がり続けている。
シングルの単価がわずかに上がり続けているのは、レコード会社がシングルの収録曲数を増やし、ミニアルバム的な形態にして、単価の下落を防いでいると思われる。
アルバムの単価が下落し続けているのは、コンピレーションなど、単価の安い企画物のアルバムの比率が上がっているからではないかと思われる。つまりプロダクトミックスの変化が原因であって、アルバム全般の単価がおしなべて落ちているわけではない。
ここで興味があるのは、制作コストに対して、アルバムとシングルのどちらが利益率が高いのか、ということだ。
これは僕の推測だが、おそらくアルバムの方が利益率が高いため、レコード会社はシングルよりアルバム販売に軸足を移したのではないか。
消費者としても、収録曲数の多いアルバムの方がお得感が強いため、レコード会社の販売戦略と利害が一致していると思われる。
ただ、皮肉なことに、Chart 4にもどって、生産金額の推移を見ると、金額では1999年以降、シングルよりアルバムの生産金額の落ち込みの方が激しい。
「J-POPバブル」の崩壊は、より単価の高いアルバム生産の方に影響が大きく、それだけ生産金額の総額を急激に押し下げることになってしまった。
これも意地の悪い言い方をすれば、レコード会社の自業自得とも言える。
CDへの切り換え以降、アルバム中心の販売戦略をとり、「J-POPバブル」期にイケイケドンドンで生産金額を伸ばすことができたため、バブル崩壊後もその戦略を見直せなかった。
その結果、生産金額の落ち込みを必要以上に大きくしてしまった。
その落ち込みを補う手段として、音楽配信をテコ入れするわけだが、音楽配信の単価が著しく低いことは、録音媒体別の生産単価のグラフをご覧いただければ分かる。
Chart 8に、媒体別の生産単価の推移を示してある。
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その前に、レコード(EP/LP)の生産単価に比べて、CDの生産単価が高いのは、レコードに占めるアルバムの比率より、CDに占めるアルバムの比率が格段に高いからだ。
これは、Chart 3の数量ベースのシングル/アルバムの推移を見ればわかる。
さて、Chart 8にもどろう。音楽配信の単価は、着メロ・着うた、パソコンでの配信にしても、1曲単位の購入ができるようになったため、単価が極端に低く、100~200円となっている。
しかし、Chart 6で生産数量を見ると、音楽配信の曲数はすでにCDの生産枚数を超えていることが分かる。音楽配信は数量を稼がなければ利益の出ない、超薄利多売と言える。
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超薄利多売であっても音楽配信に乗り出さなければ、CDだけでは金額ベースの生産は落ちていく一方なので、背に腹はかえられなかったのだろう。このことは、金額ベースの推移を見ると分かる。Chart 7をご覧いただきたい。
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CDの生産数量のほとんどを占めるアルバムの、1枚あたり単価そのものが下落傾向にあるので、一定の生産金額を確保するには、音楽配信に乗り出さないわけにはいかなかったと言える。
以上の統計的な推移の背景について、少しうがった見方をしてみたい。
1970~1980年代のアイドルブームのころ、シングル中心だったレコード生産は、CDへの切り換わりと同時に、アイドル性の否定、アイドルよりも「高級」な「アーティスト」としての訴求とともにアルバム中心に変わる。
そのまま「J-POPバブル」に浮かれた音楽業界は、アルバムがほとんどを占めるプロダクトミックスに、歌手たちが本物の「アーティスト」になったという、大いなる勘違いをしてしまった。
その結果、「J-POPバブル」が崩壊したとき、アルバム偏重というまさにその戦略のしっぺ返しを喰らい、生産金額の急落に苦しむことになる。
くり返しになるが、1999年以降の音楽生産金額の急落は、音楽配信が始まる5年以上前のことであり、決して音楽配信によってCDの販売が減ったのではない。
音楽業界の大部分は、単なる流行歌手を「アーティスト」と勘違いしたまま、商業的にも成功しようと音楽配信に乗り出した。
しかし、芸術家という意味での「アーティスト」と商業的な成功は、ほとんどの歌手にとって夢のまた夢である。芸術家を自称するのであれば、むしろCDは大量に売れなくて当然なのだ。
その証拠に、「アーティスト」ではなくアイドル性を訴求して成功した歌手は、1970~1980年代と同様、シングルも売れており、アルバムの生産金額への偏りは穏やかだ。
アイドルから「誰でもアーティスト」へ、シングルからアルバムへという、いわば分不相応な芸術性の追求が、流行音楽産業の生産規模を激減させてしまった。
そして、いまだに「誰でもアーティスト」の大いなる勘違いから抜け出せないレコード会社が、挙句の果ては「CDが売れなくなったのは違法コピーのせいだ」と、まったく事実と異なる主張をし始める。
だがそもそも、高い芸術性と商業性の両立が成功する確率はきわめて低い。
自ら成功確率の低い販売戦略にふみ出しておきながら、その失敗の原因を消費者の違法行為にこじつけるのは、J-POPの音楽業界がまだ「誰でもアーティスト」という大いなる勘違いをし続けている証拠だ。
その勘違いにもとづく過剰な著作権管理が、音楽のデジタル配信の時代に、かえって新人歌手の育成をさまたげているというお話は、また次回。

音楽が売れなくなったのは違法コピーのせい、という大ウソ(1)

音楽業界の人たちはよく、違法コピーが増えたから音楽の売上が減ったと言う。
違法コピーではなく正規版を購入すべきなのは当然だが、違法コピーが増えたから音楽の売上が減ったというのは、大ウソである。
もっと厳しいことを言えば、自分たちの失敗を、リスナーの違法コピーのせいにしているフシがある。
この音楽業界人の大ウソを、誰でも入手できる統計をもとに検証してみる。
まず、Chart 1ご覧いただきたい。
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赤色の折れ線は、名目GDPの時系列統計を1971年を100として指数化したものだ。
オレンジ色の折れ線は、日本レコード協会による音楽生産金額の総額を、同じく1971年を100として指数化したもの。
右端のほうにちょろっと舌を出している、肌色の折れ線は、その音楽生産金額の総額から、音楽配信(ダウンロード販売、携帯電話の着メロ・着うた等)を覗いたもの。
音楽配信がなければ、音楽生産金額は1999年以降、急落しつづけていることがわかる。
水色の折れ線は、総人口に占める15~49歳の割合(右側の軸)。
青色の折れ線は、総人口に占める50歳以上の割合(右側の軸)。
15~49歳は、音楽ソフトを購入する中心と思われる年齢層、50歳以降はそれほど音楽ソフトの購入にお金をかけなくなると思われる年齢層と仮定している。
もちろん個人差はあるので、あくまで仮定である。
ただ、49歳という区切りを多少ズラしたとしても、少子高齢化社会なので、総人口に対して、若者の割合が減り、熟年以上の割合が増えつづけている。
結果として、音楽消費者の中核となる年齢層が減りつづけていることは確かだ。
まず、名目GDPの折れ線を見てみる。
なお、名目を選んだのは、音楽生産金額の統計が名目であることと、音楽ソフトが再販制度の対象になっていることからだ。
名目GDPは、1971年から1997年まで右肩上がりに伸び、1998年からほぼ横ばいとなっている。これは周知の事実なので、詳しくは書かない。ところで、自殺者数が3万人を突破したのも1998年以降である。
次に、音楽生産金額の総額を見てみる。こちらも、1971年から1998年まで右肩上がりだ。
1981年~1985年だけ減っているのは、レコードからCDへの切りかえ期だからだ。この間、LPレコードの生産金額の落ち込みと入れ替わりに、12cmCDの生産が急増している。
この例外を除いて1998年まで、音楽生産金額の総額は、ずっと右肩上がりである。
そして、1999年以降は、逆に急降下が始まる。パソコンや携帯電話への音楽配信が始まる6年前なので、音楽配信ファイルの違法コピーと、CDの売上低迷は、まったく関係ない。
この点こそ、音楽業界人の言っていることが大ウソである証拠だ。しかも、音楽生産総額がもちなおすのは、音楽配信サービスが始まって以降である。
つまり、音楽のデジタル配信は、音楽業界にとってプラスでこそあれ、決してマイナス材料ではなかったのだ。
そして、この音楽生産総額の、GDPに対する比率を見ると、さらに興味深いことがわかる。
Chart 2をご覧いただきたい。
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こちらは、1971年時点の、GDPに対する音楽生産金額の比率を100としたとき、その後の推移を指数化したものだ。
この折れ線の下がり具合と、Chart 1の15~49歳が総人口に占める割合の下がり具合を見比べると、よく似ている。
ここから、GDP全体の伸びよりも、音楽生産総額の伸びがにぶかったのは、音楽消費者の中核となる年齢層の人口が減り続けていることが一因と思われる。
しかし、それでも1984年~1998年の期間は、GDPに対する音楽生産総額の割合が急回復している。
この急回復の始まりは、レコードが姿を消し、CDの販売が始まった時期と重なっている。ここでも音楽業界は、技術の進歩の恩恵を受けているのである。
シーケンサーやMIDIの発達により、楽曲の「大量生産」が可能になったことも、生産総額の急回復の原因であり、やはり技術の進歩の恩恵がある。
これらの延長線上にある技術が、音楽のデジタル配信の基礎になっていることは言うまでもない。
この時期、1990年代は、小室哲哉氏のプロデュース作品が大成功を収め、J-POPの黄金期と言える。
ところが、1998年を頂点に、GDPに対する比率においても、音楽生産総額は急落し始める。
繰り返しになるが、1999年は音楽のデジタル配信が始まる6年前であり、インターネットを通じた違法コピーは、この急落とは全く関係ない。
ところで、J-POPの黄金期が仮に存在しなかったとして、1984年時点の折れ線と、デジタル配信が始まる前、音楽生産総額が落ちきった2004年時点の折れ線を結んでみよう。
すると、なだらかな下降線となる。この下降線は、音楽消費者の中核である15~49歳の割合の下降線と、ほぼ一致する。
そして、1984年~1998年の間だけ、音楽生産額が回復したのは、言うまでもなくバブル経済という背景がある。
さらに、この時期に、団塊の世代の子供たちである「団塊ジュニア」という、大きな人口のかたまりが、当時のJ-POPの中心的な消費者である、15~24歳の年齢層に入ったのだ。
この2つの事実と、音楽制作現場のデジタル化による楽曲の大量生産によって、日本の音楽業界は、空前絶後の好況を経験したということになる。
これを「J-POPバブル」と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
この時期に、突然、日本の流行歌のクオリティが急速に良くなったとは考えづらいだろう。
テレビドラマやテレビCMなど、マスメディアとのタイアップで、商品としての音楽を売りまくる、そういう音楽業界の変質によって、この空前の「J-POPバブル」はもたらされた。
だとすれば、バブルが崩壊するのは当たり前だ。
まず、バブル経済の崩壊というマクロ経済要因により、マスメディアとのタイアップで自動的に販売金額が伸びる環境がなくなった。
次に、音楽消費の根っこを支えていた団塊の世代が、1999年以降から50歳を越える。まず団塊の世代によるニューミュージック系の音楽の消費が減る。
そして団塊ジュニアは30代に入り、バブル経済の崩壊、そして個人の生活面では、結婚して家庭を持つとともに、収入を音楽ソフトにまわさなくなる。
団塊の世代と団塊ジュニアという、大きな2つの人口のかたまりが、音楽消費から遠ざかることで、音楽生産総額は急速に落ち込んだ。
ただしこれは、人口動態で説明できる音楽消費の下降線に「もどった」と見なすべきだろう。
逆に言えば、「J-POPバブル」時代が異常だったのであり、音楽のデジタル配信が始まるころまでに「もとにもどった」のだ。
そのまま放置すれば、音楽生産総額は、人口動態とともに2004年以降も落ち込んでいく一方だったはず。
それを回復させたのが、携帯電話への着うた・着メロ配信という、新しい音楽の楽しみ方だ。
しかし、J-POPの楽曲そのもの魅力による回復ではなく、デジタル配信という新しいメディアによる回復なので、長続きしない。
今後もデジタル配信の生産金額は、「J-POPバブル」の時期のような劇的な伸びは見せないだろう。これは断言してもいい。
以上のように、音楽業界が「J-POPバブル」を起こせたのは、音楽そのものの品質の向上というよりは、環境要因であることを見てきた。
つまり、(1)マクロ経済の環境がバブル経済に入ったこと、(2)団塊の世代と団塊ジュニアという2つの大きな人口のかたまりが、ちょうど音楽消費の中心的な年齢層に入ったこと、(3)音楽制作現場のデジタル化が楽曲の大量生産を容易にしたこと、これら3点だ。
後半は、音楽生産金額を、媒体別、シングル/アルバム別、生産単価の推移から分析してみよう。そこから見えるのは、アルバム中心主義への以降と、単価の下落傾向である。
(つづく)

ヤマト運輸のトホホな中国進出

今朝の情報番組で、香港に進出したヤマト運輸の社員が、孤軍奮闘する様子が紹介されていた。
正直な感想を言えば、ヤマト運輸の中国大陸担当の営業統括責任者は、どうかしているのではないかと思った。
香港へ単身赴任したこの男性社員が、とてもマジメで、日本では非常に有能な人材であることは、映像からも見て取れた。
そんな社員を、北京語や広東語や英語のごく基本的な教育さえせず、しかも単身赴任で香港に送り込む。
香港支店には、日本人社員は彼を含めて2人だけ、日本語のできる現地通訳は1人しかいない。そんな場所へ丸腰で赴任させ、現地スタッフの教育から新規取引先の開拓までの全責任を負わせるのだ。
中国に単身赴任して、うつ病になる日本人サラリーマンが多いのも、なるほどとうなずける。ヤマト運輸のような大企業さえ、こんなバカげたことをするのだから。
北京語も広東語も英語もできないこの社員は、当然、現地採用スタッフとほとんどコミュニケーションができない。その様子も番組で紹介されていた。
そんな日本人社員が、香港の現地スタッフを、ヤマト運輸の名に恥じないサービスレベルにまで教育するのに、いったいどれだけの時間がかかるか。
それに比べれば、例えば日本に3年程度の滞在経験があり、かんたんな日本語なら不自由なく話せる中国人留学生を、インターンシップのような形で期間を定めて採用し、香港に駐在させるコストと、どれほど差があるのか。
もっと言えば、日本で中国人留学生を雇用するのは、ヤマト運輸にとってもメリットがあるのではないか。
これから中国大陸へ本格的に進出するこのタイミングで、期間限定であれ中国人を受け入れておけば、ヤマト運輸本社にとっても、中国人社員をどのように管理すればよいか、人事管理上のノウハウが蓄積される。
それに、日本の本社で中国人を採用した実績としてアピールすれば、今後、中国で現地スタッフを採用するとき、当然、より有能な人材を獲得しやすくなるだろう。
丸腰の日本人社員をいきなり香港へ単身赴任させるのに比べて、どう考えても、日本で雇用した中国人を通訳としてつける方が、ヤマト運輸にとってメリットが大きい。
それとも、ヤマト運輸は慢心しているのだろうか。
FedExなど、すでに香港で実績のある外資系に比べても、ヤマト運輸は日本企業であるというだけで、中国で圧倒的なブランド力があるという、とんでもない勘違いをしているのだろうか。
番組の中でも、かの日本人社員と現地スタッフが、香港の街中を、クロネコのマークがついた緑色の台車を押して歩きまわるのを、現地の人たちがけげんな目で追っている様子が映っていた。
いつまでも高度経済成長期のイケイケドンドン的な、頭の悪い体育会系ノリで、日本のサービス業が海外でも通用すると考えているらしいのは、いかにも滑稽だ。

AndroidのScreenCaptureを取るまでがとっても面倒

Androidの画面キャプチャを取るまでが、とっても面倒だった、というお話。
インストール先のPCは32bit Windowsなので、下記のページから「Recommended(おすすめ)」となっているWindows用のインストーラー(exe形式)をダウンロードし、実行した。
すると、2つめの画面でJava SE(Standard Edition) SDKがないというメッセージが表示され、それ以上インストールが進まない。
そこでその画面にあるOracleサイトへのボタンをクリックすると、Webブラウザが立ち上がってOracleのJava Standard Edition SDKのダウンロード画面が開く。
そのページを少しスクロールすると、Java Standard Editionの「JDKダウンロード」という、赤字に白文字のボタンがあるので、これをクリック。(これを書いている時点でのJDKのバージョンは6)
すると、英語のダウンロード・ウィザード画面に遷移するので、まず「Platform」欄で「Windows」を選択し、「I agree to the Java SE Development Kit 6u24 License Agreement」にチェックマークを入れ、「Continue」ボタンをクリック。
画面が切り替わり、「jdk-6u24-windows-i586.exe」というファイルへのリンクがあるので、これをクリックしてダウンロード。ダウンロード後のファイルを実行してJDKをインストールする。
ここまでは、いちおう順調。
JDKのインストールが完了したので、先程のAndroid SDKのインストーラーをダブルクリックして起動する。
ところが、やっぱり2つめの画面でJava SE(Standard Edition) SDKがないというメッセージが表示され、インストールを進められない。
過去にJDKをインストールした経験から、たぶんJDKのコンパイラのあるbinフォルダにWindowsのPATHが通っていないのではと思い、環境変数を確認してみる。
すると、PATHという環境変数にちゃんとjavac.exeのあるbinフォルダへのパスが設定されているではないか。しかし、よく見ると設定されているパスが、一つマイナーバージョンの古いパスになっている。
どうやら、過去に別バージョンのJDKをインストールしたマシンの場合、旧バージョンのbinフォルダへのパスが残ったままとなり、新バージョンのパスが追加されないことが分かった。
そこで、環境変数PATHに設定されているbinフォルダを、いまインストールしたJDKのバージョンに手で書き換えると、無事、コマンドラインプロンプトで、「javac」と入力するだけでJavaコンパイラが実行できた。
これで大丈夫だろうということで、もう一度Android SDKのインストーラーをダブルクリックして起動するが、やっぱり2つめの画面でJava SE SDKがないというメッセージが表示され、インストールが進まない。
なので、インストーラでのインストールは断念して、Android SDKのWindows用インストーラ(exe形式)ではなく、zip形式のファイルをダウンロードし、C:Program Files直下に展開した。
たぶん、C:Program Filesandroid-sdk-windows内のSDK Manager.exeを起動すればいいのだろうと思って、起動すると、追加モジュールをインストールするように、という画面が出てきた。
それを受け入れると、Android開発用の追加モジュールやヘルプドキュメントのダウンロードが始まる。これがかなり時間がかかる。
ようやく終わったところで、スクリーンショットをとるための「ddms.bat」が、「C:Program Filesandroid-sdk-windowstools」配下に見つかる。
いよいよAndroid端末側で、USB接続の設定のデバッグモードをONにし、PCに接続すると、「新しいハードウェアの検索ウィザード」が始まってしまった。
要するに、Android端末用のドライバがまだインストールされていないのだ。(ちなみにここではWindows XP SP3のPCを前提としている)
僕の手持ちのAndroid端末はHTC Desire IIだが、HTC Syncという付属のソフトウェアをPCにインストールしていない状態だと、Android SDKで端末を認識させるためのドライバがない状態らしい。
そこでウェブを検索してみたところ、非常にトリッキーなことをやらなければならないことが分かった。
「C:Program Filesandroid-sdk-windowsextrasgoogleusb_driver」内にある「android_winusb.inf」というファイルの、[Google.NTx86]セクションに、以下の3行を追加しなければいけないらしいのだ。
;HTC Desire
%SingleAdbInterface% = USB_Install, USBVID_0BB4&PID_0C87
%CompositeAdbInterface% = USB_Install, USBVID_0BB4&PID_0C87&MI_01
取りあえずこの3行を追加してから、改めてAndroid端末をPCに接続する。
「新しいハードウェアの検索ウィザード」が開始されたら、「はい、今すぐおよびデバイスの接続時には毎回接続します」を選択し、「次へ(N)」をクリック。
「一覧または特定の場所からインストールする」を選択し、「次へ(N)」をクリック。
「次の場所で最適のドライバを検索する」を選択し、「次の場所を含める」にチェックマークが入った状態で「参照(R)」ボタンをクリック。先ほど書き換えたINFファイルのある「C:Program Filesandroid-sdk-windowsextrasgoogleusb_driver」を選択し、「次へ(N)」をクリック。
するとHTC Desire II用のドライバのインストールが無事に始まる。このドライバのインストールはOSの再起動は必要ない。
インストールが終わると、Android端末がAndroid SDKからアクセス可能な状態で接続される。

ここまで来てやっと、「C:Program Filesandroid-sdk-windowstools」配下の「ddms.bat」を起動する。
すると、CUIの黒いウィンドウとともに、「Dalvik Debug Monitor」というウィンドウが立ち上がり、接続中の端末がデバイスとして認識され、黒いウィンドウにAndroid端末の動作ログがずらずらと書き出され、スクロールしていく。
ここで、Dalvik Debug Monitorのメニューにある「Device」⇒「Screen capture」をクリックすると、画面キャプチャを表示するためのウィンドウが立ち上がある。
あとはAndroid端末側でキャプチャを取りたい画面を表示させた状態で、画面キャプチャをとるためのウィンドウの左上「Refresh」ボタンをクリックしてから、右上「Copy」ボタンをクリックする。
そして、Windowsの「ペイント」なり、Excelなりに貼りつけると、画面キャプチャを画像ファイルとして保存できる。
いやいや、たかが画面キャプチャを取るだけのために、ここまで時間をかけなければいけない理由がよく分からない。
まあでもAndroid端末には、それを上回るだけの利便性と将来性があるので、良しとしよう。ははは。

そうだ、京都を出よう~あいまいな京都のあいまいなえん罪~

そうだ、京都を出よう。
日本国憲法で規定されている「思想・良心の自由」は、とうとう京都府からなくなってしまうらしい。
『京都府:日本一厳しい児童ポルノ規制へ 「規制」と「冤罪」巡り議論』(毎日新聞 2011/02/23)
京都府では条例によって、児童ポルノの単純所持が処罰の対象になるようだ。単純所持とは、誰かに提供したり、販売したりする目的ではない所持のことである。
児童ポルノがけしからんものというのはいいとして、果たして、児童ポルノの単純所持者をどうやって突きとめて、どうやって証拠をあげて、どうやって逮捕するのかを、よくよく考えてみよう。
同じように単純所持が刑法で罰せられるものに、例えば覚せい剤がある。
まず覚せい剤は、小麦粉との違いが化学的に分析できる。何が覚せい剤で、何が覚せい剤でないかを、客観的に立証できる。
しかし、児童ポルノについては、それほど事はかんたんではない。残念ながら、ある表現物が児童ポルノであることを、覚せい剤と小麦粉の違いのように、客観的に立証することは難しい。
極端な例を取り上げて、「これは明らかに児童ポルノだ」と言うことはできるだろうけれど、どうしてもグレーゾーンが残ってしまう。
ある人間を逮捕・起訴するかどうかという、その人間の一生を左右する問題なのだから、いい加減に児童ポルノかどうかの判断をするわけにはいかない。
ところで、京都府がもし児童ポルノの単純所持を処罰する条例を作ったら、いったい誰が押収物が児童ポルノかどうかを判断するのだろうか。
そして、その判断が「客観的だ」ということを、どうやって担保するのだろうか。
僕にはすべての場合において、目の前にある表現物が「児童ポルノ」に当たるかどうかを、「客観的に」判断する自信はない。
次に、百歩ゆずって「児童ポルノ」を、誰が判断しても結果が同じになるように、客観的に定義できたとして、誰かさんが「児童ポルノ」を隠し持っているという事実を、警察はどうやって知るのだろうか。
覚せい剤なら、警察はたぶん売人の口を割らせたり、あやしそうな人間を街頭で職務質問するなどして、所持者を見つけるだろう。
では「児童ポルノ」の場合はどうか。
警察が街頭で適当な人間をつかまえて、「あなた児童ポルノを持っているやつを知りませんか」と質問するのだろうか。まさか、そんなことはないだろう。
別の犯罪の容疑者の家宅捜索をしたら、たまたま「児童ポルノ」が出てきて別件逮捕ということはありうる。
書店などで「児童ポルノ」を購入した客を、店の外で張り込んで逮捕というパターンはありえない。言うまでもなく、「児童ポルノ」を販売している書店自体がまず摘発されるからだ。
「児童ポルノ」を販売していると分かっていて、購入者が現れるまで放置するのは、一種の「おとり捜査」だが、どうやら日本ではおとり捜査一般を許容する法的な規定はないようだ。
ますます、警察がどうやって「児童ポルノ」の所持者を見つけ出すのか分からなくなってくる。
可能性があるとすれば、所持者自身がホームページなどで自らしっぽを出してしまうパターン、そして、「あの人、児童ポルノを持っているっぽいんですけど」という第三者による警察への通報の二つぐらいだろう。
しかし、考えればすぐ分かるように、この2パターンは悪用される危険性が高い。要は「ハメられる」おそれがある。
仮に誰かにハメられて逮捕されたとして、自分が児童ポルノを掲載しているホームページの製作者では「ない」ことを、どうやって証明したらいいだろうか。
あるいは、第三者の通報で逮捕され、取り調べを受けるはめになった場合、もし自宅にある自分の持ち物に「児童ポルノ」をこっそり入れられて、家宅捜索でそれが見つかったら、どうやってそれが自分の意思ではないことを証明したらいいだろうか。
覚せい剤なら、覚せい剤以外の物的証拠がないことや尿検査などで、客観的に自分の無罪を証明できる希望がある。
しかし、自分が「児童ポルノ」を所持するような嗜好・性癖がないことを、どうやって客観的に証明できるだろうか。
「児童ポルノ」の単純所持で逮捕され、取り調べを受けることになり、それがえん罪だとしたら、自分が犯人ではないことを証明するのは、たぶん痴漢のえん罪事件よりもはるかに難しい。というより、ほぼ不可能だろう。
痴漢なら、同じ車両に居合わせた人の目撃証言が出てくるかもしれない。物理的に痴漢が無理な姿勢だったことを説明できるかもしれない。
しかし、自宅でこっそり見るものであるはずの「児童ポルノ」を、自分の意志で手に入れたのではない、ということを、一体どうやって反論すればいいのか。
いや、実は京都府の条例が処罰しようとしているのは、「児童ポルノ」の入手ではなく単純所持である。
なので、自分の意志で手に入れたのではないことを証明したところで、単純所持していた事実には変りはない。
たとえ家宅捜索の結果、自宅で見つかった「児童ポルノ」に、自分自身が何の覚えもなくても、単純所持していたのは事実なのだから、その部分の処罰は受けざるをえないのだ。
京都府の条例を考えている識者たちも、さすがにこれはまずいということは分かっている。
なので、えん罪を防ぐため、処罰する前に、京都府が廃棄命令を出すことができ、それでも捨てない場合に、制裁を科すことができるとしている。
ただ、これがえん罪の防止になるかどうかも極めてあやしい。あなたの自宅に「児童ポルノ」を忍び込ませた人物が、同じ方法で何度もくり返しあなたの自宅に「児童ポルノ」を置いたらどうなるだろうか。
あるいは、別の人物を使って、適当な時期を見計らって、再度、警察にたれ込んだらどうだろうか。
廃棄命令に従わなかったとして、あなたは前科者になる可能性が高い。
こうした面倒なことが起こるのは、以下の2つの理由による。
(1)「児童ポルノ」とそうでないものの区別を客観的に証明できないこと。
(2)「児童ポルノ」の「所持」主体と「使用」主体が同一であることを客観的に証明できないこと。
最初の(1)についてはすでに説明した。(2)はどうだろうか。
覚せい剤などの麻薬であれば、最終的に麻薬を「使用」した当事者を尿検査などで特定できるからこそ、その流通経路にある人間も処罰する根拠がある。
ところが、「児童ポルノ」の「使用」とは何だろうか。
「児童ポルノ」を見ただけで「使用」になるというのはナンセンスだろう。
では、下品な話で申し訳ないが、「児童ポルノ」を見せてナニがナニするのを確認できれば「使用」したことになるのか。それともナニからナニが出てくるまで確認して「使用」したことにするのか。
もう少し化学的に、脳に電極を貼り付けて、「児童ポルノ」を見せて特定の部位に微電流が流れたら「使用」したと見なすのか。
このように考えてみると、「児童ポルノ」を「所持」していた当事者が、それを「使用」する目的で主体的に入手したと証明するのは、ほぼ不可能だと分かる。
つまり、「児童ポルノ」の単純所持で逮捕されたとき、また、廃棄命令にしたがって自分で廃棄したつもりが、何らかの「陰謀」で所持している状態にされてしまったとき、「この児童ポルノは私が主体的に入手したものではない」と反論することは、どうやっても不可能なのだ。
「いや、所持しているからには、どこかから購入したはずだから、販売業者を調べればある程度わかるだろう」という反論も役に立たない。
自分自身で製作した「児童ポルノ」を、自分で所持する場合もありうるからだ。例えば、ある種の麻薬を一般の商品から合成する知識がある人間と同じように。
市販されていないから「児童ポルノ」ではない、ということにはならない。
京都府が「児童ポルノ」をどう定義するのか分からないが、自主制作(?)したビデオやマンガも該当するなら、それらを知らない間に所持させられたが最後、「これは自分の意思で入手したものではない」と取調官に言っても、おそらくはムダだ。
どうやら、「児童ポルノ」のえん罪は痴漢のえん罪よりも、えん罪であることを証明するのがはるかに難しくなりそうだ。
しかも「児童ポルノ」の単純所持であれ、痴漢であれ、受ける社会的制裁に大きな違いはないだろう。
上述のように、(1)客観的に定義できないもので、かつ(2)使用によって所持の主体性を証明できない、この二つの特性をもつ表現物を、単純所持だけで処罰するのは、憲法に定められた思想・良心の自由に違反しているおそれが極めて高い。
それでも「児童ポルノ」は単純所持を禁止して当然だろうと思われる方は、例えば「破壊行為を教唆する宗旨をもつ新興宗教の経典」や、「簡易爆弾の作り方マニュアル」、「失敗しない集団自殺法の解説動画」などに置き換えてもいい。
逆に言えば、「児童ポルノ」の単純所持を処罰するなら、単純所持を禁止すべき「危険な」表現物はまだ他にあるはずだ。ここにも、よく理由の分からない恣意性が見られる。
以上のような議論は単なる詭弁だとお考えの方は、ツイッター経由で筆者あてに、ご自身のブログのリンクなどをお送り頂ければと思う。
当然ながら、「児童ポルノ」について、100人いれば100人が同意でき、個人の価値観に依存しない、客観的な定義が最低限必要であることは言うまでもない。