月別アーカイブ: 2011年1月

あえてバイクのおじさんではなく、町山智浩さんを批判してみた

Twitter(ツイッター)で下記のトゥギャッターのリンクが転送されてきた。ざっと読んで、当然ながら映画評論家・町山智浩氏が圧倒的に優勢なので、あえて町山氏に反論してみたい。
「町山智浩さんとバイクのおじさんのサウジの人権をめぐる議論」(トゥギャッター 2011/01/29 07:13)
最初に書いておくと、この「バイクのおじさん」の町山氏に対する反論や反応が、お話にならない内容だということは言うまでもない。
ただ、町山氏のサウジ批判も、あえて単純化すれば「欧米は進んでいて、アラブ圏は遅れている」というかなり素朴な啓蒙主義なので、以下の3点で再検討してみたい。
(1)社会はさまざまなレベルの社会から成り立っている。
(2)社会は誰かが意図をもって作ったものである。
(3)社会はお互いに依存し合っている。
■社会はさまざまなレベルの社会から成り立っている
例えば、日本に住んでいる僕は複数の社会に属している。
家族、親戚、勤務先の会社、Twitter(ツイッター)や新浪微博(中国のマイクロブログ)のタイムライン、mixi(ミクシィ)のマイミクさんたちやコミュニティー、住んでいる地方自治体、日本という国家などなど。
その「勤務先の会社」という社会の中には、さらに、自分が所属している部署、自分が勤務している事業所、会社全体など、さまざまなレベルの社会がある。
学生さんなら、学校という社会に属していて、その中にクラス、所属している部活、仲良しのグループなど、いろんなレベルがある。
僕が言いたいのは、「社会=国家」という考え方を暗黙の前提にしてはいけないということだ。もちろん町山智浩氏はこんなことを前提にしていない。
日本は「国家」というレベルで見れば、確かに憲法で言論の自由が保障されているので、言いたいことが言える。書きたいことが書ける。
でも、勤務先の会社や、家族、ご近所、地域のコミュニティー、mixi(ミクシィ)のコミュニティーなど、個々の社会の内側では、憲法で保障されている言論の自由を完全に行使できるわけではない。
ある社会(例:勤務先の会社)の構成員であり続けるためには、別の社会(例:国家)で保障されていること(例:言論の自由)が部分的に制限されるのはやむを得ない。
東京都の青少年保護育成条例や、神奈川県の受動喫煙防止条例などを考えてみてもいい。公共の施設でタバコを吸う自由を行使したいなら、神奈川県から出たほうがいい。
他の例で言えば、非常に厳格なある種の宗教に帰依して生きて行きたい人は、もしかすると肉を食べる自由を奪われることを甘受する必要があるかもしれない。
このように、一人の人間が生きているのは、国家という社会の中だけではない。
その他のたくさんの社会の中で生きているのであって、それら複数の社会にはそれぞれの規則がある。
ときには、それら複数の社会どうしで矛盾した規則が存在するという、困った状況に置かれる場合もある。
■社会は誰かが意図をもって作ったものである
そして、それらたくさんの社会は自然に出来上がったものではない。誰かが特定の意図をもって時間をかけて作り上げて来たものだ。
国家という社会ももちろんそうである。
現在の日本という国家は、一応、欧州で特定の人物たちが考え出した近代法やら、民主主義やら、自由主義やらといった、特定の考え方に基づいて時間をかけて作り上げられてきた。
別の国家は、何千年という歴史をもつ宗教の経典に基づいて作り上げられているかもしれないし、別の国家は、特定の一人の人物の思想に基づいて作り上げられているかもしれない。
いずれにせよ、すべての国家は、誰かが意図をもって作り上げた人工物だ。
日本という国家の基礎になっている欧州起源の法哲学や政治哲学は、歴史上、特定の時期に、広い世界の中のフランスだったりイギリスだったりという、とても限定された地域で考え出されたものだ。
そして、それらの欧州起源の思想は、キリスト教とギリシア哲学という、特定の宗教や思想に基づいていたりする。
それと同じように、別の国家は、別の時代の、別の地域で生まれた、別の人々の考え出した、別の思想に基づいて作り上げられた人工物である。
2011年現在、世界中に存在する国家が、すべて欧州起源の思想の上に作り上げられた国家という点で同じだ、というのは、完全に間違った認識だ。
そして、このあたりにくると、もしかすると町山智浩氏はこの完全に認識を持っているのではないかと思うのだ。これが僕の誤解ならお許し頂きたい。
つまり、町山智浩氏は、以下のいずれかの根本的に誤った認識をお持ちなのではないかと危惧する。
(A)2011年現在、世界中に存在するすべての国家は、欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家である。なのに、その基礎となる考え方に反した権力行使(不当な言論弾圧など)を行う、けしからん国家がある。
(B)2011年現在、世界中に存在するすべての国家は、本来は、欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家であるべきである。なのに、そうなっていない国家がある。すべての国家が欧州起源の考え方に基づいて作り上げられれば、世界から少なくとも国家体制についての問題はなくなる。
なぜ僕がこのような危惧を、町山智浩氏に対して持つのか。
それは、町山智浩氏が、まるで欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家が、無条件に「いちばんマシな」国家体制だと思い込んでいるかのように見えるからだ。
仮に町山智浩氏がこのように思い込んでいるとすると、いくつかまずいことがある。
まず、米国で生活しているらしい町山智浩氏が、欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家のさまざまな属性、つまり、憲法による国家権力に対する命令などの法哲学が、世界中で最も優れたものであると「感じる」のは、当たり前である。
なぜなら、そういう社会の姿に慣れていて、そういう社会の中で町山智浩氏個人の生活が成り立っているからだ。
しかし、自分が生活している社会の価値観を、世界中で最も優れたものであるとか、もう少し控えめに、チャーチルのように、最悪だけれどこれより良いものはない、などと考えるのは、単なる循環論法だ。
僕には町山智浩氏が、「自由主義国家は優れている。なぜなら自由主義でない国家より優れているからだ」という循環論法を展開しているだけにしか見えないのだ。
自由主義国家に暮らしている僕らは、自由主義の外側にある価値基準を利用しないかぎり、自由主義ではない国家に対して、「良い」「悪い」の価値判断を下せないはずだ。
自由主義国家と全く別の価値判断のモノサシを持つ国家に対して、自由主義国家のモノサシをあてがって、「悪い!」と判断するのは、「自由主義は自由主義だから優れているのだ」という循環論法でしかない。
もちろん、この循環論法について、カント的な定言命法で「自由は絶対的に正しい!!」と言い切ることはできる。
しかしその場合は、そう言い切る前に、キリスト教の文脈にどっぷり漬かっているカント哲学が、無条件に世界中の国家に当てはまる真理だということを、主張しなければならない。
果たして町山智浩氏は、ご自身の循環論法を分かった上で、確信犯的に欧州起源の哲学を、全く別の価値判断のモノサシを持つアラブ圏に押し付けているのだろうか。
それとも、複数の社会には、それぞれ全く異なった価値判断の基準があるという事実を、うっかり忘れていらっしゃるのか。
■社会はお互いに依存し合っている
最後に、もしも町山智浩氏の念願がかなって、サウジの民衆が独裁的な政権から解放され、自由を獲得したとしよう。
少し話は脱線するが、そうするためにはサウジの民衆は取りあえずクーデターでも起こすしかないわけだが、独裁政権がむざむざと「無血開城」するなど考えられない。町山智浩氏も、そんなおめでたい空想はお持ちでないに違いない。
おそらくサウジの民衆が本当に自由を獲得しようと思えば、現政権に対抗できるだけの武力は必須だ。さて、その武力はいったい誰が提供するのだろうか。
仮にどこかの国家から都合よく圧倒的な武力を調達できたとしても、現政権を倒すためには無数の血が流れるだろう。
町山智浩氏は、たとえ数万人、数十万人のが戦死したとしても、サウジの独裁的な政権が倒れればそれで良いと言い切れるのだろうか。
そして町山智浩氏は、そこまでサウジの独裁的な政権を非難するのであれば、サウジの民衆と共に、自らの命を賭けて武装蜂起に参加すべきではないのか。
話をもとに戻す。
仮にサウジの独裁的な政権が倒れ、サウジの民衆が自由を獲得したとしよう。
その結果、サウジが米国や日本に似た、つまり資本の独占がなく(ところで米国に独占資本はないだろうか?)、貧富の格差が小さく(ところで米国の貧富の格差は小さいだろうか?)、同性愛者が差別されず(ところで米国の全ての州で同性愛者は差別されていないだろうか?)、宗教の自由もあるような社会になる、というのは、根拠のない楽観論である。
独裁的な政権がなくなり、民衆への抑圧がなくなりさえすれば、欧米諸国や日本のような自由主義国家に生まれ変わるという保証が、いったいどこにあるのか。
百歩ゆずって、サウジが欧米諸国や日本のような自由主義国家に生まれ変わったとしよう。
その結果、例えば、サウジの石油利権が自由主義経済のむき出しの市場原理にさらされ、その結果、例えば、原油価格が不安定になり、その結果、例えば、輸入原油に依存する日本の一部産業の業績に影響し…
…などなど、いわば「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、町山智浩氏自身の映画評論家としての生活を脅かさない保証はいったいどこにあるのだろうか。
もっと言えば、世界中の全ての国家が、欧米諸国や日本のような自由主義国家になりさえすれば、歴史上「もっともマシな」世界平和が実現されるという保証は、いったいどこにあるのか。
じっさいには、逆の可能性もあるのではないか。
つまり、サウジの独裁的な政権がサウジの民衆を抑圧している「おかげで」、僕ら日米安保同盟に守られている日本人は、今の自由な国家という恵まれた環境を享受できている可能性はないだろうか。
このように、複数の社会はお互いに依存しあっている。
そのうち一か所を押せば、必ずそれが他の社会に影響する。そしてその影響は、その別の社会の価値基準にとって必ずしも「良い」結果になるとは限らない。
町山智浩氏はこのことを理解なさっているのか、一連のツイッターでの発言を読んで強く疑問に感じた。
以上、かなり長文になってしまったが、町山智浩氏と「バイクのおじさん」の一連のやりとりを受けて、町山智浩氏を擁護するツイッター利用者が、「バイクのおじさん」をよってたかって糾弾しているように、僕には見える。
これは、日本における、国家よりも小さい社会(職場や学校)でよく見られる、「村八分」とか「いじめ」といったものによく似ている。
きっと「バイクのおじさん」は、こんな日本の社会は、ジェッダよりもくつろげないなぁ~と感じているに違いない。
そして町山智浩氏は、不覚にもそうした日本の小さい社会によく見られる、「村八分」「いじめ」的なものの引き金をひいてしまったことを、を自覚されているだろうか。
つまり、サウジの独裁的政権を糾弾する論争の中で、日本社会の特定の側面を、自ら強化するような行為をしてしまったことを、自覚されているだろうか…。

mixi(ミクシィ)を言論統制だと非難したことのおわび

ユーザー名は忘れたが(忘れたほうがいい)、ツイッター上で、ある人のリツイートからあるユーザーへ、そのユーザーのリツイートから別のユーザーへとわたり歩いているうちに、Amazon.co.jpのブックレビューが不当に削除されていると糾弾するブログを見つけた。
人のふり見てわがふり直せということで、ふと僕自身、ミクシィが利用者の書き込みを恣意的に削除している事実を糾弾していることを考え直すきっかけになった。
どうやらAmazon.co.jpのブックレビューの恣意的な削除は、政治的党派性にもとづいているらしい。愛国主義的すぎたり、共産主義的すぎたりする内容を、システムの不具合のせいにしつつ、しれっと削除しているようだ。
一方、ミクシィの恣意的な削除は、東京都の青少年健全育成条例にもとづいている。東京都知事から目をつけられそうな内容は削除して、削除した理由については一切ノーコメントである。
これらのことを僕がどう考え直したのかと言えば、Amazon.co.jpやミクシィのような、ただの民間企業に対して「利用者の言論の自由を認めろ」というのは、もしかすると的はずれな要求かもしれない、ということだ。
こうした言論統制が国家によるものであれば、国家は近代法上、国民から私的な暴力を取り上げる代わりに、警察や軍隊などのかたりで暴力を合法的に行使できるので、当然、僕らに「言論の自由を認めろ」と糾弾する権利はある。
主権者である日本国民には、主権者から国家に対する命令である憲法の中で、言論の自由が認められているからだ。憲法という命令に従わなければいけない国家が、憲法に反するのは矛盾している。
一方、Amazon.co.jpやミクシィのような企業と利用者の間では、まったく事情が違ってくる。そもそもAmazon.co.jpやミクシィは、利用者が利用規約に合意している前提でサイトを運営しているからだ。
たとえばAmazon.co.jpの利用規約の「レビュー、コメント、コミュニケーション、その他のコンテンツ」欄には、次のように明記されている。
「Amazon.co.jp は、いかなる行為またはコンテンツも監視し編集または削除する権利を保有しますが、義務はありません。」
なので、Amazon.co.jpの利用者はレビューを削除されたからといって、同社に抗議する権利はない。気に入らなければAmazon.co.jp以外のサービスを利用しなさい、というだけの話である。
レビューを削除されたことに対して、Amazon.co.jpにそのレビューを編集(たとえば復活)する義務を負わせるかのような行動をとることは、Amazon.co.jpを利用しながら利用規約に違反していることになる。
つまり、Amazon.co.jpのサポートにしつこく電話をして、削除されたレビューを復活させろと言い続けることは、逆にAmazon.co.jpに民事訴訟で損害賠償請求されたり、脅迫として警察に通報されるおそれがある。
ミクシィの利用規約にも「第20条 弊社の削除権限」という条項がわざわざもうけられている。引用すると長くなるので、実際に下記のリンクからお読み頂きたい。
mixi利用規約
この利用規約の内容をじっくり読んで、僕は反省することしきりである。
ミクシィは東京都から「この書き込みは東京都の青少年健全育成条例に違反してますよ」と指摘されれば、この利用規約の第20条にしたがって堂々と削除できるのだ。
そして僕はこの利用規約に同意した上でミクシィを使っている。だから、仮に自分の書き込みが東京都の恣意的な規準で条例違反と見なされ、削除されたからといって、ミクシィに抗議するのはとんでもないスジ違いなのである。
抗議するなら東京都だし、気に入らなければ他のサービスを使え、というだけの、きわめてシンプルな話である。
過去の「愛と苦悩の日記」の記事は反省の意味をこめて、あえてそのままにしておくが、ここでミクシィに対して言論弾圧などと見当違いな抗議をしたことを、皆さまおよびミクシィにお詫びしたい。
ごめんなさい。
えっ?でもAmazon.co.jpもミクシィも、日本の法律に従わなければいけない以上、憲法で保障されている言論の自由を制限しちゃいけないでしょ?
という意見が聞こえてきそうだが、日本国憲法の第21条で禁止されている検閲は、行政機関が主体の場合に限るという最高裁の判例があるらしい。なので、Amazon.co.jpやミクシィが利用者の書き込みを削除しても、それは憲法違反ではない。
いやいや、Amazon.co.jpやミクシィのような企業も、社会的責任として利用者の言論の自由は最大限に尊重すべきでしょ?
という意見も聞こえてきそうだが、基本的に企業の法令遵守や社会貢献活動は、あくまで経済合理性の範囲内でおこなわれる。会社自体がつぶれたのでは、法令遵守も社会貢献もクソもないからだ。
企業といえども社会的責任を果たすべきという意見は、その社会的責任とは何か、企業がなすべき善とは何かなどなど、議論する価値はあるが、Amazon.co.jpやミクシィくらい有名な企業なら、利用者の書き込みを恣意的に削除するな!という主張は無条件に正しいとは言えない。
今回は、Amazon.co.jpのブックレビュー削除を批判している右寄りな皆さんを反面教師として、大切なことを学ばせて頂きました。感謝いたします。

videonewsドットコムの会員登録、やっぱりやめた

テレビはつまんないし、通勤時間はスマートフォンで各種ニュースを読んでも、似たような記事ばかり。ひまつぶしにと、久しぶりにビデオニュース・ドットコムのウェブサイトを開いた。
ビデオニュース・ドットコム
2010/12/30の無料放送回をまだ観ていなかったので、音声だけダウンロードしてスマートフォンにコピーし、2日かけて電車の中と自宅で聞いてみた。
その結果、驚くべきことにい気づいた。社会学者・宮台真司が早口すぎて、何を言っているのかさっぱり分からないのだ。
単に年齢のせいで集中力が続かなくなったのか、そもそも宮台真司が物理的に早口すぎるのか、どちらが主因なのかもわからないくらい早口すぎる。
たぶん僕の頭脳が、年齢のせいで鈍りつつあるだけだと思う。そうだとすると、宮台真司の生トークを理解するには年齢制限が付くことになる。
もともと宮台真司は読み手や聞き手に、かなり高いハードル求めながら、自分はしごく当たり前のことを言っているに過ぎないという、メッセージとメタメッセージが矛盾した二重規範的なものの言い方が大好きだ。
ところが、ときどき教師の立場になって、他人を効果的に説得するプレゼンテーション技術について語ったりする。実際には宮台真司自身が、早口すぎるという、ごくごく基本的なプレゼンテーション能力の欠如を露呈しているにもかかわらず。
宮台真司はきっと、話す相手によって話し方を変えているだけだと弁解するに違いない。
まあ、宮台真司のプレゼンテーション能力の欠如にかかわらず、ビデオニュース・ドットコムのウェブサイトの仕様が変わり、音声ファイルをダウンロードできなくなっていたので、会員登録はやめた。自由に使える時間が少ない会社員にとって、通勤中に聴けないのは致命的だ。
マル激トークオンデマンドのバックナンバーは、電子書店パピレスでもダウンロード販売しているが、こちらの動画ファイルもDRMで保護されている。Androidスマートフォンにはそのままコピーできない。
著作物の私的利用の過剰な制限を、たびたびマル激トークオンデマンドの話題にしていることと矛盾すると思うが、ビデオニュース・ドットコムも商売でやっているので仕方ない。
それとも、宮台真司のあまりに要求水準の高い議論の内容に、うんざりして来ただけなのか。
それさえ、どうでもいいと感じるようになっているのだった。

続・NHKニュースウォッチ9に登場した安替(anti)なる人物の謎

先日、NHKニュースウォッチ9に出演していた,安替なる中国人ジャーナリストの件。日本版ニューズウィーク誌のウェブサイトで、決定的な記事を見つけてしまった。
『反日デモの知られざるメカニズム』(日本版NEWSWEEK 2010/10/26 12:02)
この記事を書いた長岡義博氏はいちおう信頼して、安替氏の講演会の内容を正確に伝えていると見なす。この記事から一部を引用する。
「中国人ジャーナリストでブロガーの安替氏が先日、東京で講演会を開いた。その中で、南京生まれである安替が興味深いことを言っていた。曰く、『ネットで情報を得るまでは、世の中のすべての悪いことは日本が起こしていると思っていた』『だから、中国では放っておけば毎日どこかの都市で反日デモが起きる』」
時期的に尖閣諸島問題に関連した発言に違いないのだが、あたかも中国のデモの大半が反日を動機としているかのような見方は、たしかに欧米や日本の反中勢力に受けがいいだろう。
マイケル・ムーアの『華氏911』のあら探しをするニューズウィーク誌が、米国の保守勢力よりの意見を代弁していることは間違いない。
そんなニューズウィーク誌にとって、安替氏の反中世論をあおるような講演会の内容は、尖閣諸島問題がホットだった2010/10/26頃にはうってつけだったに違いない。
つまり、安替氏は決して中国のふつうの市民の意見を代表しているわけではなく、欧米人や日本人に分かりやすい、反自由主義的な中国像を伝えているだけ、ということだ。
もっと言えば、安替氏は、どういうことをしゃべれば自由主義国のメディアにうけるか、そして自分がジャーナリストとして食べていけるかを知った上で、確信犯的に語っている。
その安替氏の意見を、中国国内に「潜伏」(?)するリベラルな知識人として紹介する、ニューズウィーク誌やNHKのような視点は、はっきり言ってナイーブすぎるだろう。
新浪微博で安替氏について僕にコメントをくれた、日本語の堪能な中国人が、人権方面の活動をしてるからでしょ、と言い、「こいつ新浪微博まで持ってたのか」と言い捨てた理由も、たぶんそこにある。
中国政府の検閲をくぐりぬけて、日常的に日本や米国のネットに接続し、日本語や英語が読める中国人にとって、安替氏のような人物は、中国から自由主義国に脱出した「モノを言う」中国人の典型例の一つでしかない、ということだ。
ふつうの中国人にとっては、きっと日本メディアが反中言説をあおったり、安替氏のような「自由主義寄生型中国人ジャーナリスト」を持ち上げたりしていることよりも、日々の生活で感じる問題の方がはるかに重要だということだ。
そして、時代はすでに変わっていて、仮に北京の共産党政府が倒れたとしても、仮に「言論の自由」(ところで日本に言論の自由などあるのだろうか?)を手に入れたとしても、日々感じている問題が自動的に解決するわけでもないことを、すでに知っているのだ。
ほとんどの日本人や欧米人は、中国人に対して、大いなる「啓蒙主義的勘違い」をしているのだろう。つまり、こういう勘違いだ。
「中国には言論の自由がないので、ほとんどの中国人は、安替氏のような考えを持ったことさえないに違いない。かわいそうだ」
公に発言する自由がないこと、すなわち、自由な考えを持つことができない、という、大いなる勘違いである。仮に、中国人が自由な考えを持つことができないなら、どうして自国政府を冷笑できるだろうか。
一定の教育水準をもち、国営放送のCCTVを「CCAV」(AVは中国ではアダルトビデオのこと)と呼び、国内の新聞やテレビの情報を話半分に受け取る中国人の方が、産経新聞または朝日新聞の記事をうのみにする一部の日本人より、よほどメディアリテラシーが鍛えられている、と言ったら言い過ぎだろうか。
まあ、欧米や日本に、中国に対する「啓蒙主義的勘違い」が存在する限り、安替氏のような「中国人なのに自由主義に啓蒙されている!すごい!」言論人は、食いぶちに困らないので、悪くはないのだけれど。
>>「NHKニュースウォッチ9に登場した安替(anti)なる人物の謎」

NHKニュースウォッチ9に登場した安替(anti)なる人物の謎

うむむ。昨日(2011/01/25)のNHKの9時のニュース、中国特集『巨竜 中国はどこへ』に登場した「気鋭の論客」安替なる人物、いったい何者だったのだろうか。
気になって中国の検索エンジン「百度」で検索してみると、中国版のウィキペディアのような「百度百科」には、こんなあっさりした記述しかない。
安替 百度百科
本名は趙静なので、安替はペンネーム。安替の中国語発音をピンインで書くと「anti」となるので、やはり反体制を暗示させるペンネームをわざと使っているようだ。
実は、僕は自分で「安替=anti」というゴロ合わせに気づいたわけではない。
昨日テレビを見ながら、中国のマイクロブログ「新浪微博」でいつもやりとりしている中国人のネット友だちに「いまNHKの9時のニュースに安替っていう人が出演してるけど、知ってますか?」とつぶやい。
すると、いつもどおりすぐにコメントがいくつか届いたのだが、そのうち3人が氏の名前を「anti」と書き換えて来たのだ。
これは例によって、欧米や日本のメディアは自由主義的な考えの中国人ということでもてはやすけれど、中国では見向きもされていない「かませ犬」かもしれない。
ちなみに今日(2011/01/26)になって、中国人のネット友だち2人から、安替氏を知っているというコメントがあった。
一人は中国の人権方面の活動家だというコメント。中国マイクロブログで「人権」と入力すると検閲にあうので、この友だちはわざわざ「(人,,,権,,,)」と書いてきていた。
もう一人からは、安替氏は「米帝」(米国のこと)に行くとき、本名を「anti」という欧米式の名前に改め、その後、中国語で音訳して安替という名前にした、という情報を頂いた。
ちなみに、安替氏のツイッターは下記のとおり。
安替氏のツイッター
なんだかリツイートばっかりのような気がするし、安替氏の新浪ブログも2010/09以降更新されていないし、本当に気鋭の論客なのか、ますますあやしい。
本当に気鋭の論客なら、中国政府から目をつけられて、とっくに別件逮捕で有罪になり、軟禁されていてもおかしくなさそうだからだ。
ただ、僕の中国マイクロブログの友だちも、ほぼ全員が日本の芸能界やアニメ大好きな20代の皆さんなので、彼らが安替氏を知らないからと言って、安替氏が中国で無名だとは言い切れない。
要するに、中国は一人の人物で代表できるような一枚岩の国ではないということだろう。自分の見ている中国は、中国のごく一部でしかなく、それをもって「今の中国は…」などと論じることは誰にもできない。
昨日のNHKの中国特集でも、貧富の差が拡大し、中国政府は民衆の経済格差に対する不満が反政府運動に向かうことを怖れていると伝えていた。
個人的には、こんな周知の事実を、NHKニュースの中国特集が、わざわざメインコメンテーターを中国出張させてまで伝えることもないだろと思った。
しかし、一部の中国人が中国全体を代表しているかのような論調は、日本や欧米メディアに根強いので、同じことをくり返し伝える必要があるのだろう。
僕ら日本人が「誰それ?」と思うような人物を、米『タイム』誌が大々的に取り上げたりするが、中国人が「誰それ?」と思う安替氏のような人物を、NHKが大々的に取り上げたりすることもある。
その程度のささいな誤解かもしれない。
>>「続・NHKニュースウォッチ9に登場した安替(anti)なる人物の謎」