月別アーカイブ: 2010年10月

松浦社長の時代遅れの著作権観。だからCDが売れないんですよ

昨日たまたま、明石家さんまと所ジョージが司会の『金プラ さんま&所世の中を動かしているのは誰だ会議』という番組を見ていたら、エイベックス社長の松浦勝人氏が出演していた。

CD市場が大幅に縮小したことについて、松浦勝人氏もやはり、インターネットでの違法ダウンロードや、中国などでの海賊版の横行が最大の原因であるかのように、しつこく繰り返していた。
CD市場の大幅な縮小が、単に音楽の聴取形態が多様化していることと、CDの主な購入層の人口減が主因であることに、レコード会社の社長自身が全く触れないのは、フェアではない。
仮に違法ダウンロードや海賊版の流通規模が、松浦勝人社長の言うように、そのままCD販売の機会損失になっていたとすれば、CDの売上はゼロになっているはずだ。
しかし実際には人気歌手のCDは数十万枚単位で売れるものがザラにある。自社が発売したCDが売れないとすれば、まず自社のプロデュース力やプロモーションに原因を求めるべきであって、違法ダウンロードや海賊版に矛先を向けても、CDの売上げ回復に全くつながらない。
その意味で、レコード会社社長である松浦勝人氏のああいった発言は、単なる責任転嫁と言える。
もっと言えば、もしYouTubeの違法動画、インターネット上の違法アップロード、海賊版を100%排除できていたとしたら、おそらく中国や台湾で、浜崎あゆみや大塚愛、安室奈美恵といった歌手のファンは、数えるほどしかいなかっただろう。
現実には、ネット上の違法動画や違法音楽ファイルが、エイベックスのようなレコード会社が宣伝費をかけなくても、リスナーが自発的に、無料で行ってくれる宣伝活動という一面も持っていることは否定できない。
音楽の権利保有者団体が、ファイル共有ソフトの開発者や、音楽ファイルを違法アップロードした一般リスナーを告訴し、前科者にすることで、レコード会社やアーティストが、違法な配信を阻止できたことによる売上増以上に、一般リスナーからの恐怖や憎悪の的になってしまうことの弊害を、彼らは考えたことがないのだろうか。
今の著作権法を改めて、違法アップロードした一般リスナーを前科者にするのではなく、そのリスナーが負担可能な金額の罰金を徴収して、権利者に配分する程度の罰則にとどめれば、レコード会社やアーティストは、一般リスナーから下手な恐怖や憎悪、あるいは膨大な印税収入に対する一般人の嫉妬というリスクを避けつつ、失った利益の一部を回収することができる。
著作権違反をどんどん厳罰化していくことで、逆に違法アップロードや海賊版はますます巧妙化・アンダーグラウンド化し、かつ、権利保有者団体に対する一般リスナーの憎悪(ルサンチマン)は大きくなり、結果として正規のCD購入はますます減るだけ、ということを、なぜレコード会社やアーティストは理解しないのだろうか。
ネット社会になることで、著作権管理を過剰に厳格化できるようになっている現実を見ずに、いつまでも今までどおり著作権管理をどんどん厳格化しさえすれば、レコード会社やアーティストの利益は守られる。
こういった全く間違った考え方を、エイベックスの松浦勝人社長でさえ持っているということに、あきれて物が言えなかった。
僕の言っていることが「とんでもない」とお思いになったら、ぜひ上に貼り付けておいたローレンス・レッシグ教授の『FREE CULTURE』という本を読んでいただきたい。
現代の著作権管理は、まるで土地を持っている人が、上空を通りすぎる飛行機から「通行料」を取るようなもので、明らかに過剰な権利主張であることが、とっても分かりやすく書かれている。

「センカクモグラを守る会」って冗談なんですよね

今日いちばん笑ったのは、「センカクモグラを守る会」設立会見を取り上げた産経新聞の記事。
『【集う】「センカクモグラを守る会」設立会見(7日、東京・霞が関の環境省)』(産経新聞 2010/10/26 07:51)
喜多由浩という記者が、これは尖閣諸島に上陸する名案だ、日本人を覚醒させる突破口になるだろうかと絶賛しているのだが、何を考えているのか。
この「センカクモグラを守る会」の発起人の一人である、アルピニストの野口健は「これが『日本の領土内』で起きている問題だ。竹島のようになってからでは遅い」と、設立会見の場でしゃべってしまっているではないか。
本当にこの「センカクモグラを守る会」が、日本が尖閣諸島を実効支配する足がかりを作るための「名案」なら、発起人たちは徹頭徹尾、領土問題など存在しないかのように振る舞い、純粋に絶滅の危機にさらされている生物を調査する科学的目的による上陸でだという演技を続けなければならない。
それでこそ、対中国の強かな市民レベルの行動と言える。
それを設立会見で、一部の記者から「政治的意味があるのか」と質問されて、早速ネタばらししてしまった野口健は、やはり救いようのないほど素朴な人物であるようだ。
野口健という人物のおめでたさには、完全に失望した。素晴らしいアルピニストであり、山の環境保護活動家としての野口健に対する尊敬の念は、この記事で完全に吹っ飛んだ。
喜多由浩という産経新聞の記者も、逆に売国奴と罵られても仕方ないだろう。野口健がうっかりばらしてしまったネタを、記事にすることでさらに拡散させておきながら、「なるほどこれは『アイデア』ではないか」と賞賛するという、完全に矛盾したことをやっている。
それでいて、その矛盾に全く気付いている様子がない。こちらも救いようのない素朴な人物である。
この程度の人物が産経新聞で右寄りのことを書き立てている限り、日本の平和は安泰だよ、まったく。
念のために書いておくと、僕個人は「センカクモグラを守る会」に賛同しているわけでは全くないので、野口健が見事にボロを出してくれたことは、感謝に耐えない。
また、右翼言説をになう産経新聞の記者が、かくもおめでたい人物であることも、感謝に耐えない。

何が「病気」で何が「健康」かは社会の要求水準による

ふと思ったのだが、上野玲氏の「うつは薬では治らない」という主張には、2つの政治的文脈がありそうだ。
一つは、社会的権威である医師が病名をつけることで、逆に、患者が差別されるおそれがあるという考え方。
もう一つは、薄毛や禁煙まで健康保険を適用して医者が治療する流れに対して、単なる金儲け主義じゃないかと非難する考え方。
まず前者の考え方は、国家の権威による管理・支配からの弱者の解放という、いかにも左翼的な図式だ。個人的に大学生の頃かじったフランス哲学で言えば、J・P・サルトルやミシェル・フーコーなどをイデオロギー的に解釈した考え方。
例えば、ハンセン病患者が長らく隔離政策によってうけてきた差別などと同様、精神病患者を精神病と診断し、病院に隔離すること自体が差別であり、そうした権威による精神病患者の支配から、患者の主体性と自由を回復しなければならない、という考え方である。
たぶん、上野玲氏が執拗にうつ病患者の主体性にこだわるのは、うつ病患者は医師による管理という美名の下に実は差別されていて、うつ病患者の主体性と自由を奪還しなければならないという、やや時代錯誤な左翼的動機が背後にあるのではないか。
このような左翼的な考え方が、僕らの生きている現代社会では、もはや通用しないことは言うまでもない。
なぜなら、患者の主体性や自由をうんぬんする以前に、そもそも日本の近代社会が、西欧のように個人の主体性や自由を基礎に作り上げられたものではないからだ。
逆に、日本社会は、被差別者が権威に頼ることで解放されるという筋書きが、良くも悪くも成立してしまう社会だと言える。
そのために、一貫して維持されてきたのが天皇制で、占領軍もこの究極の権威を利用しなければ、戦後日本の占領政策が成り立たないことを知っていた。
なので、日本のうつ病患者が社会的な偏見から解放されるには、残念ながら医師による診断という権威に頼る方法がもっとも有効であり、社会的な説得力を持つことに違いはない。
こうした日本社会の権威主義体質を変えようというのは、最終的には天皇制の廃止に行き着く議論であり、無謀な試みだ。
上野玲氏のうつ病に対する極端な考え方が、やや滑稽に見えるのは、時代錯誤の左翼的「革命」観を思わせるからだろう。
さて、もう一つの政治的文脈は、医者の金儲け主義批判である。
肩こりや薄毛は市販薬で対応するのが当たり前で、「病気」などではないというのが今までの常識だった。
ところが、薄毛については、テレビCMなどで数年前から大々的に「お医者さんに相談だ!」と、「病気」と見なして医師にかかろうというキャンペーンが展開されている。
禁煙も自助努力でやるのが当たり前だったが、今やニコチン中毒という「病気」と見なして医者にかかろう、ということになりつつある。
これらは日本医師会が親切心でやっているわけではなく、市場規模が大きくて「おいしい商売」なので、新たな収入源にすべく展開しているキャンペーンだろう。
さて、禁煙や薄毛と同じ理屈が、うつ病にも適用できるだろうか。
医師が金儲けのために、うつ病の概念を恣意的に拡大して「新型うつ」などというものをでっち上げたのだ、と主張することに、意味はあるだろうか。
この問題は、そもそも「病気とは何か?」という問いに行きつく。
時代とともに、何が病気で何が病気でないかは変わっていく。今まで病気とされなかった状態が病気とされる場合もあれば、病気とされていた状態が病気ではなかったとされる場合もある。
さらに生活の質(quality of life)の向上も、医療が担うべき仕事の一つだという考え方まで出て来ている。
一つ言えるのは、病気そのものを単独で定義することはできない、ということだ。ある社会で何が病気であるかは、その社会が要求する「健康」の水準によって決まる。
例えばソマリアで「新型うつ」や喫煙の害の啓蒙活動をするのは、ほぼ無意味だし、優先順位が違うだろう。
現代の日本社会が「新型うつ」を病気と見なし、治療することを要求しているという大きな文脈がれっきとして存在する。
この社会的文脈を無視して、問題を個人のレベルに引きずり下ろし、「新型うつは病気ではなく個人の甘えだ」とか「うつ病の患者は治療を薬だけに頼るべきでない」などと主張したところで、社会的に意味のある発言にならないのである。