月別アーカイブ: 2009年6月

台湾第20回金曲賞、梁静茹、最優秀標準語女性歌手賞を逃す

台湾で昨晩開催された第20回金曲賞(日本レコード大賞みたいなもの)だが、梁静茹はまたもや最優秀標準語女性歌手賞(最佳国语女歌手奖)を逃したようだ。どうして!?
受賞したのは陈珊妮 chén shān nī でアルバム《如果有一件事重要的》らしい。
最優秀標準語男声歌手賞は周杰伦でアルバム《魔杰座》。最優秀歌曲賞も周杰伦の《稻香》。周杰伦は去年の第19回でも《青花瓷》で最優秀歌曲賞を受賞している。周杰伦しかいないのか、という感じ。
彼は第15回では、母親の名前そのままのアルバム『叶惠美』で、最優秀標準語アルバム賞受賞している。ジェイ・チョウしかいないのか、と言いたくなるくらい。
どうやら、最優秀標準語男声歌手賞のプレゼンターの一人は、欧陽菲菲だったらしい。見たかった。
そして、最優秀標準語女性歌手賞のプレゼンターは、陈奕迅 chén yì xùn と孙燕姿 sūn yàn zī だったらしい。見たかった。
孙燕姿は第16回で最優秀標準語女性歌手賞を受賞している。
梁静茹はいつになったら最佳国语女歌手奖を受賞(得奖)するの?ノミネート(入围名单)曲が『今天情人节』だったからじゃないのか?
最優秀標準語アルバム賞は、香港出身の陈奕迅 chén yìxùnの『不想放手』。
彼の歌う名曲『十年』は、alanさんが日本デビュー前に中国で発売した『声声醉如兰』でもカバーされていたし、ジェイド・インさんもカバーしているので、知っている名前だった。
で、最優秀新人賞は Joanna Wang が『Start From Here』でノミネートされていたので期待したが、盧廣仲 lú guǎngzhòng が『100種生活』で受賞。
盧廣仲って誰?と思って調べてみたら、何とavex台湾所属で、梁静茹と『不是我不明白』という美しいバラードをデュエットしたことがある。曲のイメージとオタクっぽいルックスが何とも不釣り合い。
(ちなみにこの『不是我不明白』の作詞は今回最優秀標準語女性歌手賞を受賞した陳珊妮)
最優秀グループ賞は、日本人の愛紗がボーカルの大嘴巴に少し期待していたが、南王姐妹花(Nanwang Sisters)がアルバム『南王姐妹花』で受賞した。
このアルバムのプロデューサ陳建年は、今回、最優秀アルバムプロデューサ賞を受賞している。
陳建年って誰?と思って調べてみたら、張惠妹(A-Mei)と同じ卑南族で出身地も同じ。第11回金曲賞では最優秀標準語男性歌手賞を受賞している。
第20回金曲賞関連歌手リンク:
盧廣仲 lú guǎngzhòng
陳奕迅 chén yìxùn
陳珊妮 chén shānnī
陳建年
陳珊妮って梁静茹よりキャリアが長く、作詞も作曲もできるので、まあ梁静茹をおさえて最優秀国語女性歌手賞を受賞するのも仕方ないか。

中島美嘉の誕生日メッセージ、暗号化する必要ある?

先日、誕生日だったので、中島美嘉の携帯サイトから直筆のHappy Birthdayメッセージが届いた。
もちろん直筆のと言っても、直筆のメッセージをスキャンしたJPEGデータが、中島美嘉の携帯サイトから期間限定でダウンロードできるようになっているだけだ。
MicroSDカードに書き込んで、パソコンで開こうと思ったら、拡張子が「~.jpg.huf」となっていて、暗号化されているので開けない。
携帯電話でプロパティーを見たら、横480ドット、縦800ドットと、かなり大きな画像なのに、どうしてパソコンで見られるようにしてくれないのか。
理由は単純。パソコンで開けるようにすれば、画面キャプチャしてインターネットにアップロードされ、誰でもダウンロードできるようになってしまい、「直筆」メッセージのありがた味が薄れるからだ。
ソニー・ミュージックが中島美嘉の権利については、他のミュージシャンに増して非常に厳しく、言いかえれば「高く売ろう」としていることは理解できる。
たしかに中島美嘉の才能には、「高く売る」だけの価値がある。
ただ、Happy Birthdayメッセージ(なぜかBIRTH DAYと分綴されているのだが)くらい、暗号を外してくれないだろうか。
ここまでやられると、正直言って、逆に、中島美嘉をプロデュースしている人たちは、いったいどこまで貧乏くさいんだと思ってしまう。
もう少しファンの善意を信じてほしい気がする。

佐柳恭威氏のパンデミック対策は単なる「机上の空論」

『日経ビジネスオンライン』で、格付け会社スタンダード&プアーズ危機管理顧問の佐柳恭威という人物が、相変わらず的外れな事業継続のためのパンデミック対策を語っている。
ただ、他からもツッコミが入ったのか、微妙に発言が軌道修正されている。たとえば、社員の家族の感染を防止することも重要だと語り始めている。
しかし依然として企業目線の議論に終始しており、「企業が社員を通じて家族の啓蒙に努め、学校での感染拡大を防ぐ取り組みを支援する必要がある」などと書いている。
佐柳恭威氏は自分の議論の根本的な欠陥に、まだ気づいていないらしい。
一つは(1)パンデミックが起こったときの状況を、「国と自治体」「企業」など、個々のプレーヤーの観点のみで考えている点。
もう一つは(2)パンデミックによる被害を「予防」したり「最小化」する観点のみで考えている点だ。
(1)に関して言えば、社会を個人から国家まで、さまざまなレベルのプレーヤーの相互作用としてとらえていない。
繰り返しになるが、社員は社員である前に一人の人間だ。
会社が事業継続のために何を計画しようと、自分や家族の命がかかれば、会社の命令に従わない可能性も考えておく必要がある。
ところが佐柳恭威氏の議論は、一貫して、社員はつねに会社の命令に従い、会社の事業存続のためによろこんで協力するという、無理のある前提に立って組み立てられている。
危機管理の専門家なら、社員が会社の命令にしたがわないリスクも、当然、考慮に入れるべきだろう。
また、佐柳恭威氏の議論では、パンデミックの際に、国が個人の行動を規制する可能性についても、十分に考慮されていない。
国によって個人の行動が規制されれば、自動的に企業の行動も規制される。
しかし佐柳恭威氏は、あたかも国や自治体に対して、企業が独立して行動できるプレーヤーであるかのような前提で議論を組み立てている。
佐柳恭威氏は、コントロール可能(計算可能)なリスクしか考慮に入れておらず、コントロール不可能(計算不可能)なリスクを考慮に入れていない、とも言える。これは、格付け会社の限界なのだろうか。
計算可能なリスクしか考慮に入れていないことから、佐柳恭威氏の(2)の欠陥が生じる。
誰だって、強毒性ウィルスのパンデミックが起こったら、感染したくない。そのためなら喜んで在宅勤務もするだろう。
しかし、世界中の労働人口が、大人しく在宅勤務をして感染を防げるくらいなら、そもそもパンデミックなど起こらないのではないか?
たとえ佐柳恭威氏の言うとおりに、企業がパンデミック対策の事業継続計画を立てていても、それを発動しなければいけないほどの大騒ぎになっているころには、すでに、事業継続計画など、実行しても仕方ない状況になっている可能性の方が高い。
つまり、いまさら在宅勤務しても、すでに大半の社員やその家族は感染している可能性の方が高い。つまり、すでに在宅勤務どころではなくなっている可能性の方が高い。
パンデミックが「予防」できたり「最小化」できるなら、パンデミックは初めから起こるはずがない。
それでもパンデミックが起こったとすれば、パンデミックがそもそも「予防」したり「最小化」できない、不可抗力だからだ。
そういう理由で、僕は前回、パンデミックのことを地上戦にたとえた。
佐柳恭威氏は、パンデミックが地震などの自然災害とは違うと言いながら、地震のように事前の対策で、ある種類の被害を「予防」できたり、被害全体の規模を「最小化」できたりすると思いこんでいる。
しかし、たとえば日本で地上戦が勃発したとして、あなたやあなたの会社の経営陣が、その地上戦によってあなたの会社がうける影響を、「予防」したり「最小化」できるだろうか?
パンデミックとは否応なしに降りかかってくる、逃げ場のない事象であり、それに対して社会が結果としてどういう反応をするかは、関係者があまりに多すぎるために計算できないのである。
佐柳恭威氏はそのことを全く理解していない。
社会を構成するさまざまなプレーヤーの相互作用を単純化してしまい、パンデミックが社会に引き起こす影響を予測可能な性質のものと思い込んでしまっている。
こういった「机上の空論」におどらされて、セミナーに参加し、一所懸命、パンデミックのための事業継続計画を立案する企業関係者が哀れだ。
※『日経ビジネスオンライン』の佐柳恭威氏の記事はこちら。
「強毒性インフル対策、時間に猶予なし」
「災害対策の経験だけでは不十分」
「新型インフル、フェーズ6に。究極の対策は「日常化」」

宮台真司氏、Twitterに対する楽観的すぎる反応

宮台真司さえ、最近ビデオニュース・ドット・コムで「Twitter」にハマっていると言うようになった。
僕は話題が何であれ、宮台真司の鋭い問題点の指摘や、その論旨には大いに賛成だ。
ただ、この手の新しいツールに対する宮台真司の反応は、実に「おやじ臭い」。
梅田望夫的ナイーブさがある、と言い換えてもいい。
日本の若者は、すでにモバゲーなどの携帯サイトや、携帯電話のSMSなどで、短いメッセージで、ほぼリアルタイムの連絡をとりあうことに慣れている。
なので、日本の若者(といっても30代まで含まれるだろうが)に、はっきり言ってTwitterは不要だ。
日本でTwitterを使うのは、ちょうど宮台真司氏のように、情報感度が高く、情報リテラシーが高く、会社員と違って時間を自由に使える、一部の人々に限定される。
ふつうの若者は、いちいちパソコンを起動しなければいけないTwitterよりも、当然、携帯サイトを使い続けるだろう。
僕個人としても、Twitterにはまったく魅力を感じない。
一度、Twitterからこのブログ「愛と苦悩の日記」にトラックバックを受けたことがある。
けれど、僕は一つの話題についてきっちり語るためにブログをやっているので、たった100文字程度のTwitterからのトラックバックには、返答のしようがない。
また、ソフトバンクのホワイトプランのように、携帯電話の通話料金に定額制があることも、日本でのTwitterの普及を妨げるだろう。
新しいネット上のサービスに、梅田望夫的に、ナイーブに反応するのは見苦しいのでやめた方がいい。
僕は過去、日本ではBlackBerryは、米国のようには絶対に流行しないと断言したが、実際ユーザー層が、iPhoneのように広がる気配はまったくない。
Twitterも同じで、ごく一部の人々のおもちゃになって、それ以上ユーザー層が広がることは絶対にないと断言できる。
同じく、『日経ビジネスオンライン』の伊東乾氏の連載にも、Twitterが全く新しい媒体であるかのように論じている記事がある。
それに対する僕の反論は、こちらの「伊東乾氏のツイッターに関する厚顔「無知」な記事」をお読み頂きたい。
要は、Twitterのリアルタイム性は、すでに一部の女性タレントが、一日にブログを100回単位で更新することで実現している。Twitterの返信は、ブログのトラックバックやコメント機能にあたる。
技術的にも、Webサーバーがユーザーからの投稿データを管理しているだけで、インターネット普及初期のホームページと本質的な差異はない。
Twitterに、本質的に新しい点は、何一つ存在しない。

無謀にも梁静茹『没有如果』の歌詞を翻訳する


いまさらながらフィッシュ・リョン(梁静茹)の『没有如果』の歌詞を日本語に翻訳してみたい。かなり難易度が高いので、正直言って自信がない。一部は意訳。
ちなみにBIG ECHOに、この曲のカラオケが入っているのに最近気づいた。
なぜアルバム『崇拜』からは1曲も入らなかったのだろうか?
没有如果
如果我说 爱我没有如果
もし私が「もし」抜きで愛してって言ったら?
(※ある台湾人のネット友達によれば「没有如果」の「如果」は「結果、成果」の意味ではないかということ。「つまり結果が出なくても愛して」の意味)
错过就过 你是不是会难过
逃したらおしまいなんて つらくない?
若如果拿来当藉口
「もし」を言い訳にするなんて
那是不是有一点弱
ちょっと頼りなくない?
如果我说 爱我没有如果
もし私が「もし」抜きで愛してって言ったら?
真的爱我就放手一搏
本当に愛してるなら 思い切って踏み出してよ
还想什么还怕什么
何がしたいの? 何をこわがってるの?
快牵起我的手
早く私の手を引っ張って
有人说
ある人が言ってた
世界上最遥远的距离不是 生与死
世界でいちばん離れているのは
生と死じゃなくて
而是 我就站在你面前 你却不知道我爱你
あなたの目の前に立ってるのに
あなたが私の愛に気付かないこと
我常说
私はいつも言ってる
如果人类连爱一个人都被自己绑住
もし人類が一人の人を愛するだけで
縛られてしまうなら
那世界末日已来到
世界終末の日は来たも同然
不需要等到地球毁灭掉 的那天
地球滅亡の日を待つ必要もないわ
如果 如果 没有如果 如果 如果
最后变成路过 我也不能接受
「もし」も最後は通りすがりに変わってしまう
そんなのは耐えられない
错过 错过 不想错过 错过 错过
我比你更难过 我不会一错再错
僕の方がずっとつらい もう二度と逃さない
嗯 这次不要再随便错过
うん。今度こそ うっかり逃したりしない
别怕太快乐
楽しすぎても恐れちゃだめ
别怕失去我
私を失うのを恐れちゃだめ