月別アーカイブ: 2009年2月

柴田淳作詞・作曲『声』を聴いて泣いてしまった

久しぶりに音楽を聴いて泣いてしまった。中島美嘉の最新アルバム『VOICE』の最後に収録されている『声』だ。
最後に音楽を聴いて泣いたのは矢野絢子の『ニーナ』で、それ以来の体験だ。
昨夜、今さら中島美嘉のアルバム『VOICE』の曲を試聴していて、最後の曲『声』が素晴らしいと思い、作詞・作曲を調べたら柴田淳だった。

YouTubeに柴田淳が中島美嘉の『ORION』をカバーしている動画がアップされているが、『声』は中島美嘉から柴田淳へのオファーらしい。
そして今朝、MP3プレーヤーで通勤途中に初めて『声』をじっくり聴き始めたら、サビの歌詞で泣いてしまった。
「私が生きて いつか この声だけが残って
気づいてくれた人が
愛を求め 抱きしめてくれるのなら
私は生きて生きて こうして声張り上げて
歌い続ける 燃え尽きるまで」

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終えた

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終えた。東浩紀批判と宮台真司の依拠するルーマンのコミュニケーション論からの着想に立脚した(?)2000年代サブカルチャー批評として、今までにない視点が得られ、非常に面白く読めた。

ただ、当然の批判として、そもそもサブカルチャー批評そのものが、大多数の人々にとってはどうでもいい「島宇宙」であること、そして先日書いたように、宇野氏の大きな議論の展開そのものが教養主義的な成長指向を無条件に是認していること、そして、コミュニケーションの善悪の判断基準の問題を宙吊りにして、とにかくコミュニケーションの回路を開け!(=「ドアを開けろ!」)という結論が、それまでのセカイ系=決断主義批判に対する結論としてあまりに拙速なことなどがあげられる。
もちろん本書は、宇野氏の模索の出発点と見るべきで、これらの批判は「早すぎる」批判だ。これから宇野氏がどのように議論を展開していくのか、非常に興味深いところだ。
もう一つ、個人的に気になったのはリファレンスの偏りである。特に音楽がほぼ無視されている点だ。
例えば、クラブが自閉的な島宇宙なのか、異なる者とのコミュニケーションの可能性を担保する場なのかによって、クラブミュージックの評価は正反対になるはずだ。
そして浜崎あゆみや倖田來未の、根拠不明の圧倒的なカリスマ性や、音楽ジャンルの無意味と思われるほどの細分化、「ひとりカラオケ」という没コミュニケーションの形態などは、むしろ少女漫画や『仮面ライダー』より、多くの人々に身近な問題として提示できる。
いずれにせよサブカルチャー批評が音楽シーンを無視する理由が、まったく理解できない。この点は宇野氏に限らず、他のサブカルチャー批評にもあてはまる重大な欠陥だ。
サブカル批判は音楽を無視しないでほしい。

殺風景な部屋に彩りを

引越当初は殺風景だった自宅の新築賃貸マンションを、少しずつ自分の好きなように装飾している。以下は愛用のキヤノンEOS kissで撮影したその様子。
特にお気に入りは、昨日、梅田茶屋町のLOFTで見つけたばかりの2,000円の桜柄の風呂敷。タペストリ代わりに真っ白な壁に貼り付けた。お隣には自分でプリントアウトした中島美嘉の『SAKURA~花霞~』の写真。この風呂敷、いい。(少女趣味で悪かったね)
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テレビ周りはややうるさいけど、ぬいぐるみと100円ショップで買った華やかなバラの造花。「歌うペンギン」君もいます。
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お手洗いも殺風景だったので、棚の上に100円ショップで買った造花。ややシュールな雰囲気。
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玄関の目隠しの「のれん」は大きな柄入り。これは裏側で、表から見ると黒地。
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玄関横の目的不明のスペースにも100円ショップで買った造花を。
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パソコンの横、ギターを立てかけてある角にも100円ショップで買った造花。花瓶の前では新潮文庫のマスコットキャラクターが本を読んでいる。
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近所にできたばかりのカラオケボックス発見

格子状に道が走るオフィス街のど真ん中にある自宅賃貸マンション周辺をジグザグ散歩しているといろいろ発見がある。
歩いて5、6分の場所に2008/12/02にできたばかりの3階建てカラオケボックスを発見。大阪市営地下鉄堺筋本町駅すぐの「カラオケ 唄えもん 本町店」。今日初めて行ってみた。
カラオケボックスの例に漏れず既に個室はタバコ臭くなっているが、内装はまだきれい。DAM、JOYSOUND、UGAの3種類の部屋があるが、当然、使い慣れたDAMの部屋に入った。
PremierDAMの部屋もあるが、団体専用の広い部屋にしかないとのことで、残念ながら「ひとりカラオケ」の常用にはできそうにない。よほどのことがない限りもう行かないだろう。
といいつつBB CyberDAMで2時間で19曲歌った。うち中島美嘉の曲が18曲。明らかに依存症。Sing or die状態。歌があれば生きていける。

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』はめちゃ面白い

いま宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読んでいるが、久しぶりに本格的で面白いサブカルチャー批評だ。「愛と苦悩の日記」の読者の皆さんにもぜひお勧めの一冊。

宮台真司の推薦文つきだが、全体としては、東浩紀のサブカルチャー批評に対する根本的な批判の書となっている。
『新世紀エヴァンゲリオン』のひきこもり系の克服としての『バトルロワイヤル』的決断主義とその蹉跌。その後にテレビドラマ、映画、漫画などのサブカルチャーが、どのように課題を解決しようと模索しているかを、シンプルな分析枠組みで、すっきりと論じている。
連載をまとめた本ということもあるが、テレビドラマや漫画のネタバレあらすじ紹介も豊富、同じ論点が繰り返し提示されており、そういった教育的配慮もゆきとどいた読者に親切な本だ。
ただ、面白いのは面白いのだが、東浩紀の自己慰撫的な批評を批判し、超克することで、本来の批評を復権させるという著者の宇野氏の意図自体が、きわめて教養主義的で、本書の存在そのものを自己言及的にメタレベルから見たとき、実は『新世紀エヴァンゲリオン』が葬り去ったはずの『機動戦士ガンダム』的教養小節を召還していることになっている。
また、東浩紀批判はいってみれば宇野氏による「父殺し」の試みであり、著者が必死になって東浩紀のサブカル批評を批判しようとすればするほど、実は宇野氏にとって東浩紀が「大きな物語」として機能している。
つまり本来的な批評を取りもどすという宇野氏の意図そのものが、批評というものをヘーゲル的な歴史観に回収する観点に立っている。
デリダ研究者である東浩紀はそれを分かった上で、サブカル批評には自己慰撫的な批評しか残されていないと決断したのではないか。僕はそう考えており、東浩紀の批評が単に堕落しているのだと切り捨てることには強い違和感がある。
それを差し引いても、この『ゼロ年代の想像力』は2001年以降のサブカルを本格的に論じた初めての批評であり、非常に面白い。