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中国ドラマ『地下鉄の恋』字幕で中国語をマスター42


我继续翻译中国电视剧《地下铁》的字幕。今天是第四十二次。
二十一集电视连续剧《地下铁》 第六集
范阳:小郭 傅总呢
郭君、伝部長は?
小郭:刚才我看到和李导一块出去了
いま李監督と一緒に出て行くのを見ました。
范阳:哦 你先吃吧
ああ。先に食べなさい。
工作人员:范阳 电话
范陽!電話だよ!
范阳:好 来了
わかった。行くよ。
李导:好 倒 倒
いいよ。(バック)オーライ!オーライ!
回车 回车
ハンドルきって。きって。

カット!
开得这么好你哪用我教啊
運転がこんなに上達して、僕が教えなくてもいいじゃないか。
明明:是你教导有方
あなたの指導が的を得ているからよ。
李导:哎 明明啊
なあ、明明。
明明:
うん?
李导:几年不见 成熟多了啊
何年か見ないうちに、大人っぽくなったな。
你这几年平步青云得早把我这个人忘了吧
nǐ zhè jǐ nián píngbùqīngyún de zǎo bǎ wǒ zhège rén wàng le ba
この数年でとんとん拍子に出世して僕みたいな男、忘れてしまっただろ。
明明:哪有啊 我一直想找你啊
なんで。ずっと会いたいと思ってたわ。
小案子我也不敢找你啊 你那么大牌
xiǎo ànzi wǒ yě bùgǎn zhǎo nǐ a nǐ nàme dàpái
小さな案件じゃ、あなたに依頼しないわ。あなたも売れっ子でしょ。
李导:什么话 哎 只要是你找我
何を言ってるんだよ。な、僕に依頼してくれれば
不给钱 我都来拍
タダでも撮影するさ。
明明:那我怎么好意思啊
それじゃあ申し訳ないわよ。
只要你对案子别太挑剔了
zhǐyào nǐ duì ànzi bié tài tiāoti le
あなたが案件にあまりうるさく注文しさえしなければ
我都会找你
あなたに依頼するわよ。
李导:好 一言为定
わかった。約束は守るさ。
明明:一言为定
約束よ。
李导:来 再练一次
さあ、もう一度練習だ。
明明:
ええ。
明明:(在后视镜里看到范阳)干吗 范阳
(バックミラーに范陽を見つける)どうしたの?范陽。
范阳:现场一切准备就绪了
xiànchǎng yīqiè zhǔnbèi jiùxù le
現場は準備万端です。
就等李导过去开工了
李監督がお越しになって仕事を始めるのを待っています。
晶晶:云翔
雲翔。
云翔:怎么啦
どうした?
晶晶:我们之间 算是开始交往了吗
私たちって、付き合い始めたことになるわよね。
我是说 也许我们该要多想一想
私思うの。私たちもっと考えてみるべきかもしれない。
毕竟我们对彼此都还不是很熟悉
bìjìng wǒmen duì bǐcǐ dōu hái bùshi hěn shúxī
結局私たちまだお互いをよく知らないし。
云翔:不用多想了吧 我相信我自己的直觉
そんなに考えることはないさ。僕は自分の直感を信じてる。
我觉得在冥冥之中
wǒ juéde zài míngmíngzhīzhōng
僕はぼんやりした中にも
好像 好像对我们有一种安排
まるで、まるで僕らには運命みたいなものがあって
我也觉得对你有很熟悉的感觉啊
君をよく知っているような感覚があるんだ。
晶晶:是吗
本当?
云翔:
うん。
晶晶:我也觉得 你的声音 还有你的语气
私もあなたの声、それから話し方が
都给我一种熟悉的感觉
どこかよく知っているような感覚があるの。
云翔:所以啦 不用多想了
だからね。あまり考えこまないで。
我们跟着感觉走就对了
感覚にしたがっていけばそれでいいんだ。
怎么啦
どうしたの?
晶晶:你真的 不介意我是一个盲人吗
あなた本当に、私の目が見えないことを気にしてないの。
也许你现在会觉得很好奇
たぶん今はとても好奇心があるかもしれなくて。
想要知道一个盲人是怎么生活的
目の見えない人がどんな生活をしてるか知りたがってるかもしれないけど
但是时间久了 我就会变成一种负担
でも時間がたてば、私は負担になるかもしれない。
因为我很多事情都做不了
だって私はあまりたくさんのことができないし。
甚至连发个简讯
shènzhì lián fā ge jiǎnxùn
ショートメッセージを送ることさえ...
云翔:会发简讯有代表什么
ショートメッセージを送るのが何だっていうんだよ。
是表示时时刻刻想念对方
その時その時の思いを相手に伝えるためかい?
还是怕对方忘了自己
それとも自分が忘れられるのが恐いから?
每天通十几通电话
毎日十何回も電話で話して
报告自己的情况就像对上司一样
自分の状況を報告するなんてまるで上司みたいじゃないか。
那种也不是我要的感觉
そんなのは僕が欲しい感覚じゃない。
你知道吗
知ってるかい?
当我第一次看到你的时候
君と初めて会ったとき
我就知道你跟其他女孩子完全不一样
僕は君が他の女の子とまったく違うと分かった。
当我形容给你听这个世界的时候
君のこの世界がどんなふうかを描写して聞かせてあげたとき
你的反应使我有多大的成就感
nǐ de fǎnyìng shǐ wǒ yǒu duōdà de chéngjiùgǎn
君の反応は僕に大きな達成感を与えてくれた。
我相信总有一天
僕は信じてる。きっといつの日か
你可以重新看到这个世界
この世界を再び見ることができるって。
你就会知道 我形容这个世界
そしたら君は分かるよ。僕が描写したこの世界が
形容得多传神
xíngróng de duō chuánshén
すごくリアルだって。
晶晶:云翔 你从来都没有形容过你自己的样子
雲翔、あなた今まで自分の姿を描写してくれたことがないわ。
你介意我摸摸你的轮廓吗
nǐ jièyì wǒ mōmō nǐ de lúnkuò ma
あなたの輪郭を触ってもいい?
云翔:什么
ええ?
好吧
いいよ。
晶晶:你的眉毛很浓
あなたの眉毛、濃いわね。
还有很挺的鼻子
それに高い鼻
你应该是个帅哥吧
あなたきっとイケメンね。
云翔:你能这样想最好了
そう思っててくれる方がいいよ。
我还怕我自己配不上你呢
wǒ hái pà wǒ zìjǐ pèibùshàng nǐ ne
君に釣り合わないんじゃないかって。
晶晶:不要取笑我了
からかっちゃだめよ。
云翔:我哪敢取笑你啊
からかってなんかいないさ。
要不我随便找个路人问一下
何なら歩いている人をつかまえて聞いてみようか
你到底漂不漂亮
君がいったい美人かどうか。
晶晶:哎 哎 你不要闹了
ちょっと!ちょっと!ふざけないでよ。
云翔:好了 不许你再自卑了
わかったよ。もう自分を卑下しちゃダメだよ。
你的美不只是你的外表
君の美しさは外面だけじゃなくて
还有你的内在是没有人比得上的
内面も誰にも負けないよ。
哦 我待会儿还要回画室
ああ、しばらくしたらやっぱりスタジオに戻るよ。
那么你自己路上注意安全
じゃあ気をつけて出勤するんだよ。
我待会儿打电话给你
あとで電話するよ。
还有不要忘了我会仔细听你的节目
それから僕が君の番組を隅々まで聴いてるのを忘れちゃだめだよ。
所以你要好好播
だからしっかり放送するんだよ。
打勾勾
指切りだ。

船場吉兆の廃業は他人事か?

船場吉兆が意外にも廃業した。船場吉兆の主な客層である、金のためならコンプライアンスなど糞食らえの成金たちは、料理の使い回しなど意に介さないと思っていたが、どうやら自分たちの成金としての顔をつぶされたことに、いよいよ我慢ならなくなったらしい。
ただ、今日の日経朝刊「春秋」にもあったが、料理の使い回しが日本中の飲食店で、船場吉兆だけで行われていたと考えるのは不自然だ。
今回の問題で船場吉兆をからかうサラリーマンの皆さんだって、自分の会社がコンプライアンス上、100%問題ないと言い切る自信があるか?
サラリーマン社会だって、所詮、真面目にルールを守る者がバカを見る世界。出し抜いた者勝ち。最近はコンプライアンスがうるさく言われるが、それでも新日鉄の子会社が製品試験データねつ造でJIS表示認定を取り消されたり。
まぁ現実の世の中なんて、その程度のものだ。あまり多くを期待すべきでない。

死刑願望による犯罪と「自殺の制度化」

またまた自殺の話で申し訳ない。今日2008/05/28 18:12配信の毎日新聞の記事に「<死刑になりたい>なぜ? 凶悪事件、犯行動機で供述相次ぐ」というのを見つけた。
今年になってから、死刑願望を動機として供述した事件がすでに3件起こっているという。
大阪教育大付属池田小の乱入殺傷事件で8人を刺殺した宅間守元死刑囚も、犯行前2~3か月の間に2度、自殺未遂をし、死刑判決確定から1年弱で望みどおり死刑に処せられたらしい。
死刑願望から凶悪犯罪を起こす人間は、たしかに極端な事例だが、強い自殺願望をもつ人間を「無理やり」生き延びさせた場合に、社会が払わなければならないコストの一例でもある。
仮に自殺が制度化されていて、苦痛のない「安楽死」的な方法で自殺をさせてくれるような施設があったとすれば、宅間守は無事に自殺に成功し、池田小の8人の児童の命は救われたのだ。
したがって、自殺志願者に対して「生きなさい」と言うことが、無条件に倫理的・道徳的に正しいかどうかは、実は微妙なのである。自殺志願者も社会の構成員である以上、自殺願望を持つことで、陰に陽に周囲に何らかの影響を与えることは避けられない。
その極端な例が、死刑願望による凶悪犯罪だったり、硫化水素自殺で無関係な人間を巻き添えにすることだったり、飛び込み自殺で電車の遅延を引き起こして数万人の通勤・通学客に迷惑をかけることだったりする。
こうした社会的コストを考えたとき、自殺志願者を「安らかに」自殺させる手段を提供することも、これからの社会にとって一つの選択肢になるのではないか。
もちろん自殺の手段が悪用され、自殺志願者でない人が、無理やり自殺に追い込まれるようなことがないよう、運用には細心の注意を払う必要がある。制度設計は非常に難しいだろう。
しかし、高齢化が急激に進み、今までのように未来に単純な希望を抱けない社会において、「自殺の制度化」は避けられない課題になるに違いないと僕は考える。

再び「自殺の制度化」を考える

連日自殺の話題で申し訳ない。以前にも書いたが、公式の統計上把握されているだけで、年間3万人も自殺で死んでいるのだから、政府は交通事故以上に対策のための予算を計上するか、いっそのこと自殺を制度化する方向へ踏み出すか、どちらかを実行すべきだろう。
カート・ヴォネガットの「自殺パーラー」は、もし自殺が制度化されたら、という一種の悪い冗談だが、自殺する直前の5月24日、最期のテレビ出演の明るい川田亜子さんの姿を見ても分かるように、本気で自殺を考えている人間が、周囲にはっきりと助けを求めるなどということはない。
自殺志願者を周囲が救おうとすれば、まず誰が自殺志願者かを特定する必要がある。しかし本気で自殺を考えている人は、そのことを口に出さない。なので、自殺を未然に防ぐ対策には、根本的に限界がある。
かといって、誰でも自殺する可能性があるという前提に立って、社会全体が他人に対するさまざまな要求水準を下げるのも、非現実的だ。実際にはそれと正反対のことが起こっている。
たとえば、先日ここに書いたような「モンスター・カスタマ(怪物のように要求過多な顧客)」や、今日の日経朝刊にあったような、医者に対する「モンスター・ペイシェント(患者)」の存在がある。
そういう社会で、身体的に健康で、かつ、さまざまな理由から生活保護やホームレスのような、経済的にぎりぎりの生活に適応できない人は、この社会で行き続けられないと自分で認めてしまえば、つまり、自分の「負け」を認めてしまえば、自殺しか手段が残されていない。
その意味で自殺は決して特殊なことではなく、宗教的な観点から自殺を「罪だ」と断罪することで自殺が減るなどということも決して期待できない。
「この命は自分のものだけではない。人は生きているのではなく、生かされているのだ」などという考え方も、単なる一つの考え方、イデオロギーであって、自殺志願者に対して意味のある説得には全くならない。
こういった「精神論」で自殺を減らせるほど、今の社会は単純素朴ではない。僕らが生きているのは、人の命さえ相対化されてしまう社会なのだ。
そう考えると、自殺を制度化するという発想も、決して完全な絵空事ではない。
例えば、以前にも書いたが、自殺志願者を、自殺をやめさせるというお題目ではなく、自殺するまでの日々を穏やかに過ごしてもらうというお題目で収容するような施設を、地方の景色のいい場所に国の予算で建設してはどうか。
そうすれば、結果として一定数の人たちに、自殺を思いとどまらせることが可能だと思うのだが。
「自殺の制度化」という言い方が悪ければ、「人生を降りることの制度化」と言い換えてもいい。数か月、あるいは数年間、いったん「人生を降りてもいいですよ」という施設を国の予算で運営すれば、確実に自殺者を減らせると思う。
逆に言えば、それくらい逆説的なことを実行する覚悟がこの社会になければ、年間3万人という水準の自殺者を減らすことなど、絶対にできないと思うのだが。

川田亜子さんの自殺

元TBSアナウンサーの川田亜子さんが2008/05/26早朝に乗用車の中で自殺しているのが見つかったそうだ。ご冥福をお祈りする。
Akokawada20080526b
産経新聞掲載の事務所コメントによれば、5月上旬頃から様子がおかしかったとある。おそらく鬱病の兆候だろう。詳しい経過はオーマイニュースの記事『フリーアナウンサー川田亜子さんが自殺』にある
川田亜子さんのオフィシャルブログ『Ako’s Style』は、今日現在まだ閲覧できる。オーマイニュースの記事によれば、2008/05/12付けの下記の日記が、その後削除されるということがあったようだ。
「母の日に私は悪魔になってしまいました。生んでくれた母に、生きている意味を聞いてしまいました。母の涙が、私の涙がとまりませんでした。母の涙が耳の奥で響いているのです」
この日記の後、2008/05/14に川田亜子さんは「元気になるまで」いったんブロクの更新をやめることを宣言する。おそらく自分の鬱病を自覚していて、落ち着くまでブログを書くべきでないと感じたのだろう。
しかしその同じ日に「自分の気持ちが伝えられないのは寂しいですね」と、すぐ更新を再開している。この記事から、読者コメントの数が突然100を超える。過去の日記を読むと、川田亜子さんはウィルコムの「Advanced/W-ZERO3 [es]」でブログを更新していたことがわかる。
亡くなる前、私的な感情を書いた最後の2008/05/22の日記にも心が痛む。タイトルは「仕事の合間」。
「一番苦痛であります。昔は本を読んだりお茶をしたり、ぽーとしたり。楽しかったのに…今はせつないです。豪華なホテルのロビーで優雅に幸せそうにしている方々を眺めてながら、移りゆく景色に胸がきゅーとしめつけられます」
平凡な幸せの光景が、自分とまったく縁のない、まるで別世界の出来事のように感じられ始め、他人にとって当たり前のことが、自分にとっては手の届かないことに思えてくると、この世界に生き続ける意味は、たしかにほとんどなくなる。
2008/05/20の「移動」というタイトルの日記は、よく理解できる。
「移動しているときって好きなんです。移動しているから…。わかるかな…車窓から 電車の中から…動いている風景。
こうしてメイクをして仕事の準備をして移動しない空間にいると取り残されている感じ」
以前この「愛と苦悩の日記」に、僕も移動中の電車が好きだと書いたことがある。そのまま永遠に電車に乗り続けられたらと。川田さんが表現したかったことを表現すれば、移動中の場所は、いわば「どこでもない場所」だからだ。
移動が終わり、ある場所にたどりつくと、否応なしに僕らはまた「日常生活」に引き戻される。「日常生活」に自分の居場所をさがしにくい人にとって、それがいかに苦痛であるか。
他の人たちが「日常生活」に何の違和感もなくおさまっているとなりで、自分だけが居心地悪く生きなければいけない。「取り残されている感じ」がするのも当然だ。
日曜日の夜。最近、日中暑くなってきたとは言え、朝晩はまだ涼しい。練炭を炊いても、車内はそれほど暑くならなかっただろうか。芝浦埠頭の人気ない場所で、川田亜子さんが、最期くらいは穏やかな気持ちでいられたことを祈りたい。
もう電車を降りなくてもいいですね。車窓を流れる風景を、心静かにずっと眺めていて下さい。