月別アーカイブ: 2007年8月

WordPress2.2で日付を昇順にする

WordPress2.2で、カテゴリー別や月別表示で、記事を日付の昇順に表示するためのカスタマイズ方法を、検索エンジンにひっかかるようにここに記しておく。
WordPressでは、カテゴリー別や月別表示にすると、デフォルトでは日付は降順で表示される。つまり、最新の記事から古い記事へと表示される。
ただ、カテゴリー別や月別表示にしたとき、古い記事から順に読みたいという読者も少なくないはずだ。
これを実現するには、「wp-include」フォルダ内の「query.php」というプログラムに、数行のコードを追加すればよい。
1060行目あたりに、下記のようにMySQLに向かって記事を検索するSELECT文を組み立てている箇所がある。
$request = ” SELECT $found_rows $distinct $fields FROM $wpdb->posts $join WHERE 1=1 $where $groupby ORDER BY $orderby $limits”;
この直後に、このSELECT文の中に、カテゴリーの抽出条件や、年月による抽出条件が含まれる場合に、SELECT文内の日付によるならびかえを、降順から昇順に変更するコードを追加すればよい。
僕が追加したのは、下記のようなコードだ。
if (strpos($request, ‘category_id IN’) > 0 ||
strpos($request, ‘MONTH(post_date)=’) > 0) {
$request = str_replace(‘post_date DESC’, ‘post_date ASC’, $request);
}
ややいい加減だけれども、「category_id IN」という文字列や「’MONTH(post_date)=」という文字列が現れるのは、WHERE句に決まっているので、前者が含まれる場合はカテゴリー別表示をしようとしているとき、後者が含まれる場合は年月別、または、年月日別表示をしようとしているとき、と考えて差し支えないはずだ。
応急処置的なきらいはあるが、とりあえず所期の目的はこれで達成されている。

石屋製菓社員はなぜ内部告発を決意したか

今日のニュースによれば、北海道の石屋製菓の賞味期限改ざんは過去10年間にわたって行われ、社長も把握していたらしい。僕の興味を引くのは、10年にもわたって首尾よく隠蔽されてきたことが、なぜ今になってバレてしまったのか、ということだ。
2007/08/14付け毎日新聞の記事によれば、2007/06下旬に社員と思われる関係者から、「白い恋人」の賞味期限改ざんについて、石屋製菓のホームページに内部告発があったというが、「白い恋人」件については社長も10年間認識していたのだから、この内部告発がきっかけになったとは言い難い。
北海道新聞の2007/08/15付け記事によれば、「一連の問題は八月九日以降、数回にわたって同保健所に電話で同社の従業員を名乗る人から内部告発があり、発覚した」とあり、これが発覚のきっかけになったようだ。
しかしさらに考えると、10年来、全社的に行われてきた賞味期限の改ざんが、なぜ2007/08/09以降、突如として内部告発されるに至ったのか、その理由がよくわからない。
一つ考えられるのは、賞味期限改ざんはまだ許せたが、商品から大腸菌やブドウ球菌が検出されたことを隠蔽することには耐えられない社員がいた、ということだ。大腸菌やブドウ球菌は、消費者の生命に直接かかわるおそれがある。賞味期限の改ざんとは重大性が一段異なる。そう考えた社員がいてもおかしくない。
ただ、商品から大腸菌群が検出されたにもかかわらず、同社が保健所に届けず、こっそり廃棄処分にし始めたのは2007/07上旬からで、そこから1か月もたっている。内部告発した社員は、1か月間、告発すべきか否か葛藤していたということだろうか。
1か月の葛藤の期間は、会社に対する忠誠心の高い社員ならあり得るかもしれない。その社員は、賞味期限改ざんについては既に知りながら内部告発を避けてきたくらいだから、かなり忠誠心が高かったに違いない。
内部告発で不正が明るみに出た石屋製菓のような事例は、まだ救われていると言える。僕には同社のような不正は氷山の一角で、日本国内の民間企業には、内部告発されないまま眠っている無数の不正行為が、ひそかに横たわっている気がしてならない。

ルーマン「機能と因果性」精読(8)

今回も引き続き Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 – Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.AuflageのIII、ページ数で言うと22ページから読み進めたい。
機能主義的分析についての、ルーマンによるやや冗長な説明の部分である。しかし、冗長なだけに、ルーマンの方法論の基礎がよく理解できる貴重な論文であることに違いはない。
「機能的な関係づけの観点が使われるとき、原因であれ結果であれ、因果過程の諸段階は存在論的な事実性ではなく、問題として考えられている。機能主義的分析の基礎概念は、経験的な仮定の形式になっていない。そのことは機能主義的分析をあらゆる目的論的説明、あるいは、機械的説明から区別する。一定の原因が事実として先行し、それによって一定の結果の発生が説明されるか反転されるかすることが、前提されたり承認されたりしているわけではない。また、ある有機体が事実として存続していたり、あるシステムが均衡を保っていたり等々ということが、前提されたり承認されたりしているわけでもない。関係の統一性は問題と見なされているのだ。それは次のようなことだけを意味する。つまり、機能主義的分析の有効性は、個別の場合で問題が解決されるかどうか、結果が生じるかどうか、システムが存続するかどうかといったことに依存しない。したがって、次のようなことをも意味しなければならない。つまり、機能主義的な言表は、原因と結果の特定の関係に関わっているのではなく、さまざまな原因、あるいは、さまざまな結果どうしの関係、つまり、機能的等価物の確立に関わっているのだ」
この部分の説明もかなり冗長な感じがする。機能主義的分析は、事象の繋辞的な側面ではなく、パラダイムの側面に関わるものである、という意味のことが書いてある。
「機能主義的分析の関係づけの観点は、安定化の問題であって、定数の仮定ではないという洞察が、前面に出てくることになる。ここから、因果論的科学の実証主義にとって、関係づけの観点は何ら適切な説明根拠にならないということが生じる。したがって、これまで機能主義的分析が、システムの(ありうる)安定性を複雑な機能的作用によって純粋に因果論的メカニズムで説明することへと還元されていたのも、もっともなことだった。逆に、機能主義的分析の独自性を主張する人たちは、ある問題が説明根拠や分析の支えとなる根拠としても機能しうるということを―たとえここで言う根拠が存在論的形而上学の意味での根拠ではないとしても―受け入れざるをえないのである」
以上で「III.」の部分は終わりになる。ひきつづき「IV.」を読み進めることにしたい。
「IV.機能主義的分析の主要な問題の一つは、関係の統一性の定義だ。関係の統一性にとって機能的作用は等価である。この問いについて近年、機能主義的方法について賛否両論が集中している。関係の統一性の定義のあいまいさを取り除けないことは、多くの人にとって機能主義的方法に固有な困難さだと見なされている。しかしここでも、関心を因果的確定から等価的確定へと移せば、新しい側面がうかびあがる」
説明もなくいきなり「関係の統一性」という問題が持ち出されているので、この問題を理解するためには読み進めてみるしかない。
「支配的な因果的科学の機能主義は、機能を、存続をもたらすもの、あるいは、ある行為システムの存続の個別の前提となるものとして定義している。そこから機能的作用はしばしば行為システムの存続にはっきりと関係づけられる。しかしこうした定式化をより詳細に調べることで、かなりの困難さが明らかにされた。
 このような定式化は生物学に由来しており、有機体の機能的作用を生きている有機体、あるいは、ある種の有機体に関係づける。しかし生きている有機体という概念に、生物学は一義的な経験的関係づけのシステムをもっているが、社会科学はそれを欠いている。ある社会システムは有機体のように固定された型をもたない。たとえ生存のためにそのような発展が必要であっても、一頭のロバがヘビになることはない。それに対して社会秩序には、その同一性と連続的な存続を犠牲にすることなく、深い構造的変化が起こりうる。社会秩序は農業社会から工業化社会に変わりうるし、大家族が家族を超える政治的秩序をもつ部族にもなりうる。そして、いつ新しいシステムが生じるかは決定不可能だ。そうしたことは、社会科学には死という明らかに切断された経験的問題が欠けていることと密接に関係している。生物学において死の問題は存続の基準となっている。したがって社会科学にとって、あるシステムの存続の問題は不確定なものへと輪郭がぼやけてしまう。次のような意見に対しては、適切に反論できる。つまり、ある社会システムの存続は事実としてめったに問題にされないとか、本当に存続にとって決定的な機能的作用はごくわずかしかないとか、そのような理論による説明の価値はほとんどないなどといった意見だ」
ここでは生物学におけるシステム理論と、社会学におけるシステム理論の違いが問題にされている。一つの決定的な違いは、個々の有機体は死を迎えるが、社会システムには死という終わりがないという点だ。
そのために、そもそも社会システムについては、型(タイプ)の変化を論じることに意味はあっても、存続を論じることに意味はないのではないか、という疑念が出てくるのも当然だ。社会システムは言ってみれば「死なない」のだから、存続のための条件を問題にする機能主義的分析の有効性は限定されるのではないか。そういう疑念が出てきても仕方ない。
もちろんルーマンはそうした疑念に対して反論していくことになるが、つづきは次回ということにしたい。
(つづく)

朝青龍の処分に関する連日のバカ騒ぎ

朝青龍について、相撲協会の処分が厳しすぎるだの、甘すぎるだの、下らない論争が毎日のように朝のワイドショーを騒がせている。
日を追うごとに論点がずれていくのは、日本人の「民度」の低さをよくあらわしているが、結局この問題、ウソの理由で仕事(=夏巡業)をサボった人間をどう処分するか、というだけのことだ。
「自宅謹慎」や「モンゴルへの帰国はダメ」というのは、私人としての自由を制限するものなので、明らかに違憲である。騒ぎがここまでになったのは、相撲協会の下した処分のうち、この部分にある。相撲協会は即刻この部分については取り下げるべきだ。
残る問題は、「二場所出場停止」という処分が適切かどうかという点だけだが、これについては、角界の外部の人間に意見する権利はない。いくら反論されても相撲協会は毅然とした態度をとればいい。
もし朝青龍本人が不満なら、相撲協会を相手に民事訴訟にもちこめばいいのであって、第三者が騒ぎ立てる話ではまったくない。
以上、これだけのことなのに、毎日、毎日、いったい何を騒いでいるのだろう。実に馬鹿げている。

民主党にも「老害」はあるらしい

参院選での圧勝をうけて、民主党が活発に動きはじめているのは、基本的には歓迎すべきことだ。
小沢党首がテロ特措法に反対していることについて、日経新聞がやたらと批判的なのは意味不明だ。
小泉首相以来の過剰な親米路線への対抗軸として、民主党が「米国と対等な関係」を標榜するのは、政治的手法としてまったく適切だ。それに、日本経済新聞は、根拠のないイラク占領に結果的に手を貸してしまった親米路線の過ちを、完全に無視してしまっている。
国連中心主義は、たしかに一見、理想論に見えるかもしれないが、現実的だから親米路線が正しいという日本経済新聞の論調は、ただただ安易である。
また、民主党は参議院に郵政民営化の延期法案を提出したが、これをバックラッシュだと批判するのも間違っている。
この法案について、民主党は地方への目配せとして、わざと「地域格差をなくし、ユニバーサルサービスを堅持する」ことを前面に出しているが、民主党の本当の意図は二番目の理由、つまり、民業圧迫させないことにある。
もし民主党が本当にユニバーサルサービスを理由に郵政民営化に反対しているなら、民営化の「延期」ではなく「中止」をするはずだ。「中止」ではなく「一年延期」にしたのは、郵政公社にとって有利な民営化を進めようとしている政府与党を押しとどめるためにほかならない。
ただ、昨日になって出てきた民主党・西岡武夫氏の、参議院クールビズ中止案はいただけない。「参観の子供たちが征服を着ている中、大人がノーネクタイではダメ」という理由でクールビズを中止するなら、民間企業も「お客様がネクタイをしている中、うちだけノーネクタイではダメ」という理由で、クールビズはなし崩しになる。
それに、参議院でクールビズを続けるか廃止するかなど、はっきり言ってどうでもいい問題で、こんな下らないことで民主党の独自性を主張するのは時間の無駄だ。
西岡武夫氏は71歳だということだが、民主党にも自民党にも「老害」はあるということだろう。