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ルーマン「機能と因果性」精読(7)

今回は引き続き Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 – Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.AuflageのIII、ページ数で言うと20ページから読み進めたい。
「III. 因果論的科学の機能主義に対する批判は、認識カテゴリーとしての因果性に対する批判と同一視することはできない。また、前者は後者の排除を目的としているわけではない。そして、機能主義的研究と因果論的研究の対比を指摘するのが問題なのでもない。目的論的因果性と機械論的因果性の古くからの区別を、少し更新しようとするのである。因果論的科学の機能主義に対する批判は、むしろ、因果論的関係と機能的関係が、お互いをどう基礎づけるかという関係性を反転させることを狙っている。つまり、機能とは特殊な因果関係なのではなく、因果関係こそが機能的秩序の一つの適用例なのだ」
この冒頭のパラグラフで、機能と因果性の相互関係についてのルーマンの論旨は明白だろう。これまで機能的関係を基礎づけるものとして考えられてきた因果的関係を逆転させ、機能的関係が因果関係を包摂する概念だと言っている。
「われわれは因果的秩序の概念とは独立に定義できる機能概念を見出したあと、この反転のための観点を作り出すことにしたい。そしてそこからさらに、因果関係をその機能的概念の助けをかりて説明することで、因果的判断に固有な意味が、より有効なものになることを示す」
ここではこの第三章全体の意図が示されている。
「古代ギリシアと中世の因果性が、ほとんど把握できないような意味で、存在根拠への有限の関係として理解されていた一方で、近代の始まり以来、因果性における無限の問題は無限性の問題は、避けられないものとなった。各々の因果論的命題(Feststellung)は無限なものに対する様々な方向での指示を含意する。つまり、各々の結果は無限に多くの原因をもち、各々の原因は無限に多くの結果をもつ。さらに、各々の原因は無限の仕方で他の原因と結びつき、あるいは、他の原因と交換できたりする。そこから結果の領域の中に、それに対応する多様な区別が生じる。最後に、各々の因果的過程は自らを無限に分割するとともに、無限に遠くまで追っていくこともできる」
まずルーマンは、近代以降の因果性概念がさまざまなかたちで無限という問題とからめて論じられてきたことを指摘する。
「こうした問題を見すえれば、因果性の存在論的解釈はその意味をうしなう。したがって、原因と結果を一定の存在状態と解釈することも、因果性を一つの原因と一つの結果の間の不変の関係として確立することも、もはや不可能となる。他の原因、他の結果をすべて排除することは正当化できなくなる。たしかに”ceteris paribus”を前提とすることで、社会科学の”exculping phrase”を公式な具体的言表にすることはできる。しかし、他のすべての因果的要素を事実として完全に排除できないなら、そのような言表は何ら経験的価値をもたない。そして社会科学こそは、そのような排除に成功しない典型例だ」
文中のラテン語と英語は原文のままとした。日本語訳は後日つけることにしたい。なおこの部分の論旨にあいまいさはないので、コメントは控える。
「逆に、もはや一つの原因と一つの結果を法則の形で同時に不変なものとしてとらえようと努めるのではなく、一つの原因、または、一つの結果を不変とすることで十分だとすれば、課題は軽減される。等価機能主義は、こうしたより控えめな端緒を推奨する。原因と結果は、生活実践的な根拠、または、理論的な根拠から、関心の焦点を作るが、等価機能主義は原因と結果のどちらかを機能的な関係づけの観点として利用する。つまり、等価的因果関係についての問いの、不変な出発点として利用する。一つの結果を関係の問題として評価すれば、それに関連して一定の諸原因の領域が秩序づけられる。より多くの原因の結びつきが、その結果を引き起こすのに十分なものとして明らかにされる。このように、問題となっている結果はさまざまな原因どうしを関係づけるための秩序づけの観点と見なされる。同じように原因もまた機能的な関係づけの観点と見なされうる。したがって、これらの原因の正当化は問題としてあつかわれる。その原因に対する結果の外周から、さまざまな目的が可能な正当化として選び出される。そうしてさまざまなイデオロギーが機能的に等価であることが証明される」
ここでは、等価的機能主義が原因からでも結果からでも分析を始められること、そして、特定の原因、または、特定の結果から出発することで、一定の問題領域を開き、その領域の内部においては、すべての要素が交換可能で等価なものと見なされうることが説明されている。
「その際に原因のもとでの比較可能性が開かれるが、それは結果の領域の中から唯一の結果が関係づけのための点として選び出され、抽象されることに基づいている。この抽象化は固有のスタイルをもっていて、種概念と類概念による分類的な抽象化とははっきり区別される。つまり、原因と結果のどちらかの個別的な特徴を捨てるのではなく、付随的な結果を捨てるのだ。付随的な結果をすべて考慮に入れようとすると、もはや諸原因のもとでいかなる選択もできなくなってしまう。諸原因は完全に個別で、しかも比較不可能なしかたで観察されることになってしまう。というのは、たしかに個々の原因は一つの結果をもつが、決してすべての結果を共有しているわけではないからだ。言いかえれば、一つの結果は、その原因から生じる付随的な結果を捨てれば、機能的な関係づけの観点にとって本質的な多義性を得る。それによって、より多くの原因の可能性が(それは付随的な結果によってしか区別されないのだが)、機能的に等価なものとして現れる」
この部分は、等価的機能主義が、無数の原因からたった一つの原因を、あるいは、無数の結果からたった一つの結果を選択することで、諸結果の領域、あるいは、諸原因の領域が等価物の領域として現れるという、方法論上の操作が説明されていると理解する。
このあたりの等価的機能主義の方法論的操作についての説明は、やや冗長な気がするのだが、僕が読み落としている重要な意味があるのかもしれない。
「したがって因果論的要素の機能的分析は、原因と結果の関係だけを問題にするわけではない。たしかにそのような関係は分析の端緒として前提されている。そのような関係は補助的方法としては使えるが、命題(Feststellung)の対象としては使えない。分析そのものは、結果の作用の観点のもとで可能な原因を探求するか、あるいは、原因の作用の観点のもとで可能な結果を探求するかのどちらかに集中する。あらゆる機能主義的分析は、ある選ばれた観点を前提とするので、この両方の探求を同時におこなうことはできない。観点を変えると、探求の成果も変わるからだ。そういう意味で、原因と結果の間には『不確定性の関係』がある。因果性の意味は原理的に原因と結果を同時に一義的に確立することを排除している。因果性についての存在論的解釈が獲得しようとしているものは、獲得できないのである。この洞察が機能主義的因果論の出発点を生み出す。機能主義的因果論にとって、排他的な因果法則はせいぜい分析の極端な場合であり、原因の領域にも、結果の領域にも、他の可能性が存在しないということは、絶対的に制限された等価物の極端な場合と考えることができる。しかし、因果的関係の意味は、このような極端な場合の達成にも、他の可能性の排除にもなく、さまざまな可能性を把握し、秩序づけることにある」
要するに機能主義的因果論は、さまざまな可能性の把握という、「権利の問題」の水準にあるということだ。
(つづき)

政権交代のない日本に未来はない

参院選の結果は直接、政権交代にむすびつかないので、逆に国民は安心して民主党に投票できる。それが今日の投票結果だ。
しかし、良識ある日本人なら、二大政党制が定着するまで、自民党以外に投票しつづけるべきだろう。
自民党と野党が拮抗して政権を担う体制にならないかぎり、日本は外部からのチェックが働かない官僚機構によって支配されつづける。
いまの日本の政治の悪い部分は、自民党の失政が直接の原因なのではなく、政権交代がおこらないことによる、官僚支配が直接の原因と考えていいだろう。それを止めるには、この日本に二大政党制を確立するしか方法がないことは明らかだ。
近々、衆議院が解散される可能性もあるが、そのとき自民党以外に投票するかどうか、本当に日本人の良識が問われることになる。

ルーマン「機能と因果性」精読(6)

前回に引き続き、Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 – Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.Auflageの19ページから精読を進める。
「このような意味での機能概念を、機能的変数の枠内で等価物を確立するための規制原理として理解し、因果論的科学の機能主義のかわりに等価物の機能主義を利用すれば、上述の方法論的困難は解消される。したがって『欲求』はもはや、機能主義的な関係づけの観点以外の何物でもなく、さまざまな欲求充足の可能性が互いに等価であることを明らかにするものであることがはっきりする。それらの等価物は、ある欲求が現に充足行為を動機づけるかどうか、またどれくらいの確率で動機づけるかにかかわらず、確立することができる。したがってそれはまた別の問題形式、つまり、社会システム、または、社会文脈の存続にも当てはめられる」
先に欲求と結び付けられた機能的説明が批判されていたが、ここではあらためて、特定の欲求とその充足行為の個別の結びつきから独立した、純粋な交換可能性の体系としての機能概念が提示されている。
「機能主義はしばしばトートロジー的な定式化だという非難をうけるが、以上のような説明でそのような非難は無効になる。機能的な議論は、見出された作用から、それに対応する欲求を推測し、それによって作用の存在を正当化するといった点にはない。ある論理式は、関係づけの観点の定式化と、すべての等価な実現可能性との間だけに成立する。この論理式は分析的=発見的な原則である。どのような変数値(Einsatzwerte)がそのような機能的クラス、つまり、変数に属しているのかは、逆に経験的認識に関することであり、決して関係づけの観点の定式化からは生じない」
機能主義が、すでに発見されている結果から原因を推測することで、その結果はその原因から生じたのだ、という因果論的な機能主義にとどまる限り、たしかにトートロジーに陥ってしまう。
ルーマンがここで救い出そうとしている機能主義は、交換可能な等価物=変数値と、それらを関係づける点からなり、前者はいつでも他の可能性、他の等価なものと交換できるということから、特定の原因と特定の結果に縛られることなく、他の可能な等価物を探索するための発見的方法としても使える。
「さらにそれによって、機能主義的方法がその前提となるシステムの説明に、本質的に静的かつ保守的に関係づけられるのかどうか、あるいは、歴史的発展を考慮に入れることができるような社会的変化の問題はどうなのか、といった問いをめぐる論争が解決される。機能的方法は等価な他の可能性だけでなく、システムにおける変化の可能性、交換と代用の可能性、および、それらのフィードバックの可能性をも考慮に入れつつ、システムの諸性質を分析する。しかし、機能主義的方法は特定の変化の原因を確立したり、それらを前提することへは向かわない」
機能主義的方法は、システムについて決して静的でも保守的でもない、というのがルーマンの主旨であることは言うまでもない。
「したがって、当然のことながら、関係づけの問題は特定の機能的作用から生じる事実としての結果を『説明』することはない。関係づけの問題はその逆の意味を持ち、他の可能性を指し示す。それらの様々な可能性は、関係づけの問題を比較関係および交換関係へと秩序づける。認識が獲得するのはこれだけだが、過小評価すべきではない。しかしながらこの獲得物は、伝統的な存在論的・因果論的科学では評価が困難だった。したがって、ここまで素描された研究の端緒を、さらに説明することが必要となる」
以上のように「II.」の部分は、マリノフスキーの事例から始めて、機能主義的分析の方法をルーマンが素描したものだと言える。次の「III.」でルーマンは、この最後の部分で予告されているように、機能主義的方法を伝統的な因果論的科学(学問)との比較で、さらに深く論じていくことになる。
(つづき)