月別アーカイブ: 2007年5月

「株はバクチではない」一部訂正

昨日の記事を掲載した直後に、競馬などは特定の馬券が多く売れると、勝敗の確率は変わらないが、オッズは変わるというご指摘を頂いたので、訂正させて頂きます。
特定の馬券が多く売れるほどオッズが下がるのは、おそらく馬券の購入者に分配する原資の金額が、ある程度の変動幅であらかじめ決まっているからなのだろう。
いずれにせよ、賭けの参加者の行動によって勝敗の確率が変動しないのは、株のような市場での取引との本質的な違いだ。もちろん株取引での「勝ち」をキャピタルゲインを得ることである、と定義した上での話しだが。
さらに、当然のことだが、馬券と株券ではリキディティが違う。買った馬券を転売してキャピタルゲインを得ることはできないが、買った株券は転売しないと儲けを得ることができない。そして売るという行為そのものが、株価に影響を与える。
株式市場は株券を媒介にした、自己言及的な閉じたシステムで、市場内での行動はすべて株の売買という形態でおこなわれ、その売買行為のすべてが株価を通じて、他のすべての売買行為が決定される条件となる。
...とか、まあどうでもよくなってきた。いずれにせよ、賭け事と株取引を、そこで行われている行為どうしの関係という観点から観察したときには、本質的に異なるものであり、「株もバクチみたいなもの」という言表は、そういう観察からは明らかに誤っている、ということだ。

株はバクチではない

「株はバクチみたいなものだ」と言って株式投資に反対する人は、株と賭け事の本質的な違いがわかっていない。かんたんなことで、例えば競馬は、特定の馬券を何十万人が買おうが、その馬券のオッズは変わらない。一方、株は、特定の株券を買う人が増えれば増えるほど、その株券の価格が高騰する。
賭け事は、賭けに参加する人の行動によっても、勝敗の確率は変わらない。参加者が同時に競技者であるような賭け事は別として、パチンコ台の設定、宝くじの当選確率、競走馬やボートの調子は、賭けに参加する人の行動に影響をうけない。
それに対して、株は売る人と買う人の合意で価格が決まる市場取引なので、売買に参加することで儲かるか儲からないかの確率そのものが変わる。というよりむしろ、売買に参加する人がいなければ、株取引そのものが成立しない。
ところで、僕はギャンブル好きの人間を心底軽蔑している。ギャンブル好きは必ず人生において誰かを不幸にするからだ。ギャンブル好きは自分が他人を不幸にする資格があると勘違いしている傲慢な人間であるか、ギャンブル好きであることで誰かを不幸にしていることにさえ気づかない馬鹿であるかのどちらかである。ましてや自分のギャンブル歴を武勇伝のように語る人間は、単なるクズである。

最適なルーマン入門書『ルーマン 社会システム理論』

ルーマンの『社会システム理論』を英訳のペーパーバック『Social Systems』で少しずつ読みすすめていたのだが、部分的な理解はできるものの、ルーマンの企図の全体をどうしても把握できない。
これまでとっつきやすい入門書には頼るまいと、あえて読まずにいたのだが、ついに誘惑に負けてゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、野崎和義、池田貞夫訳『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)を買って読みはじめた。
おかげで、なぜ『Social Systems』が理解できないのかが理解できた。1984年に出版された『社会システム理論』は、1960~70年代の社会システム理論の構想を発展させたものであり、それを理解していることを前提として書かれているからだった。
クニール、ナセヒ著の入門書の前半は、ほとんどルーマンの『社会学的啓蒙』という論文集からの引用で占められているので、おそらく1960~70年代の「社会システム理論」を理解するには、まず日本語訳の存在する『社会学的啓蒙』を読むべきであるらしいことがわかった。
いずれにせよ、この入門書のおかげで、ルーマンの社会システム理論の理解にかなり見通しが出てきた。逆に言えば、原書にいきなりあたったときの僕の理解力が、その程度のものでしかないということなのだが。

自殺サイトと16歳の高校生について

ひきつづき、エヴァンゲリオンTVシリーズを第八話、アスカ・ラングレー登場まで観終わってテレビをつけると、自殺サイトで知り合った40代の男性と行方不明になっていた16歳の男子高校生が、ご両親の懸命の捜索もむなしく、40代男性とともに遺体で発見されたとの報道。
キャスターは若い命を道づれにした40代の男を憎悪するコメントだったが、果たしてそう言いきれるだろうか。
たとえば、「この40代の男性のおかげで、自殺という望みをかなえることができた男子高校生は、幸運だった」という言表は、倫理にもとると言いきれるだろうか。
先日、かんたんに自分の命に終止符を打てる「壁のスイッチ」があれば、僕は迷わずそれを押す、という記事を書いた。さっそくトラックバックを頂いたが、その方は「日々のささやかな喜びさえあれば、生き続けるのに十分だ」そうだ。
ただ、これは裏を返せば、その方の「生きづらさ」の水準が、ささやかな喜びさえあれば十分相殺される程度のものでしかないだけのことだ。つまり、この方は十分に幸福なのである。
もっと生きたいのに、不運にして不治の病で夭逝された方々は、確かに不運だが、決して不幸とは言えないだろう。なぜなら、もっと生きたいという希望を持つことができていたからだ。
こういうことを書くのは、倫理にもとると言いきれるだろうか。
不運にして不治の病に苦しむ方々が、この16歳の男子高校生に対して、「自分で殺す命があるなら、私に下さい」と言ったとしても、その言表は残念だけれども完全に無意味だ。理由は単純で、命のうけわたしなどできないからだ。
ある命が絶望して自らの命を絶つという事実と、別の命が希望にあふれているのに自らの意に反して失われてしまうという事実は、おたがいに独立した事実で、どちらからどう働きかけても、どちらも救われない。
希望にあふれながら不治の病に犯された人が、絶望している人に対して、「生きろ」というのも完全に無意味だ。この二人が別の人間であるのは、まさに異なる環境におかれているからで、だからこそ、一方は希望にあふれ、他方は絶望するのだ。
その「違い」を無視して「どちらも同じ命だ」と考えることは、この二人が別個の独立した人格であることを否定することになる。非人格的な命といった、抽象的なものを優先させ、一つひとつの人格を無視することが、はたして倫理的と言えるだろうか。
件の40代の男性は、自らの自殺の意思と同時に、16歳の高校生の自殺の意思も尊重し、行動にうつしたわけだが、このことははたして非倫理的なのだろうか。自殺を望むことは、非倫理的なのだろうか。自殺というのは、どうして端的に悪だと言えるのだろうか。
自殺を悪だと言うためには、どうしても一つひとつの人格を超越した「生命全体」のようなものの意思を持ち出さざるをえないのではないか。よく言われる「人は生きているのではなく、生かされているのだ」という言葉も、生命が個々人の人格を超越した何物かであることを、言外にふくんでいる。
しかし、自分の命が、そういった何か超越的な存在の所有物であって、自分の所有物でないという考え方こそ、非倫理的ではないのか。「この命、お国のために捧げます」という考え方と同形ではないか。
であれば、ある人たちにとって、自殺が、個として生きるための最後の手段として残されていることは、正しいことではないのか。
「自殺もひとつの生き方である」と、なぜ言ってはいけないのか。人間は遅かれ早かれ、みな死ぬ。したがって、すべての生き方は死に方でもある。その人がどのように生きたかは、その人がどのように死んだかということだ。
「どのように生きたか」のうちの一つの可能性、一つの選択肢として、自殺があってはなぜいけないのか。なぜ端的に自殺という生き方を悪だと言いきれるのか。
残された者たちがみな悲しむのは、死因が病死であれ、事故死であれ、自殺であれ、どんな場合でも仕方ないこととして、この16歳の高校生と40代の男性は、自殺という最後の希望を実現できて幸福だったと、どうして言ってはいけないのだろうか。
残されたご両親はたしかに無念かもしれないが、息子の最後の望みをかなえ、自らも自殺した40代の男性を憎むことが、はたして正しいことなのだろうか。