月別アーカイブ: 2007年4月

川本隆史著『ロールズ―正義の原理』

現代思想の冒険者たちシリーズ、川本隆史著『ロールズ―正義の原理』を読んだ。宮台真司と宮崎哲弥の対談書でおすすめ文献になっていたし、これまでどちらかと言えば理論的な哲学書ばかり読んできた僕にとって、実践的な理性、倫理学の領域はまったく未知だったからだ。
アリストテレスについては『形而上学』は通読したが、『ニコマコス倫理学』はまったく読んでいないし、カントにしても『純粋理性批判』は通読したが、『実践理性批判』は1ページたりとも読んでいない。
それでいきなり現代思想家のジョン・ロールズは飛躍がすぎるかもしれないが、この入門書はそれなりに面白かったし、予想どおり少しだけ退屈だった。退屈だった理由は、本書がジョン・ロールズのダイジェストでしかないからであって、入門書が本質的にもっている限界だから仕方ない。
ただ、本書は時間があればぜひ『正義論』をじっくりと読みたいと思わせるだけの説得力を持っている。
僕らは何が正しくて、何が間違っているのかを論じるときに、共有できるものが少なすぎる。そのため、ジョン・ロールズが批判している「直観主義」で場当たり的な判断を下してしまう。また、個人間に多少格差があっても、全体の総和としてより良くなればOKと思ってしまう。これもロールズが批判する「功利主義」だ。
ここで以前ご紹介したことのあるリバタリアニズム、つまり、国家の介入は最小でよく、あとは個々人が自分自身の幸福をとことん追求しさえすれば、最終的にすべてうまくいくという考え方も、ロールズが厳しく批判する考え方だ。
何が正しいかを根気強く考えることをやめたとき、僕らは直観主義や、功利主義、リバタリアニズムなど、「わかりやすい」考え方に流されてしまう。それに対してロールズは、善の前提としての正義、公正としての正義を非常に慎重な足取りで解明している、らしい。「らしい」というのはロールズの著書を1ページも読んでいないからだが。
しかし、そういうロールズの『正義論』と、宮台真司が理論的な基礎としている社会システム論の明快さが、どうして両立するのかが理解できない。それを理解するためにも、ルーマンの『社会システム理論』とロールズの『正義論』はぜひ通読したいのだが、残念ながら集中して読めるような時間はない。いつになったらそのための時間をとれるのだろうか。

QBハウスにブロンドの美女

今日、QBハウス(1,000円理容のチェーン店)に行ったら、背の高い、正直なところあまり冴えない日本人の中年男性と、ブロンドの白人女性のカップルが順番待ちをしていた。白人女性はカジュアルなファッションをしていたが、痩せ型の美人で、もの珍しそうに入口にある券売機や、理髪中の他の客をちらちら見ながら相手の男性と話していた。
白人女性の番が来て席にすわると、相手の男性がスタッフに後ろ髪だけを切りそろえるように言い、男性は男性で自分も髪を切ってもらっていた。
髪を切り終わると、白人女性は満足した様子でスタッフに片言の日本語でお礼を言い、ほぼ同時に髪を切り終えた男性とともに店を出て行った。
駅ビルの中にあったそのQBハウスの店舗は、例えば神保町にある店舗と違って、できたばかりのせいかとても明るく清潔な感じで、仮にこの白人女性が米国人だとすれば、簡単なカットとはいえ、東京都内でたった1,000円で済んだことに驚いたのではないか。
おそらく相手の男性が連れてきたのだと思うが、あの白人女性は実は留学生か何かで、ふつうの美容院に行くお金がなかったのか、お金はあるけれども男性の誘いで、ちょうど後ろ髪を少しだけ切りたいところだったし、興味本位でQBハウスに来てみたのか、いったいどちらだったのだろうか。
1,000円美容院でアジア系やヒスパニック系の外国人は見たことがあるが、明らかにアングロサクソン系の白人で、しかも女性は見たことがなかったので、どうでもいいことだがここで報告してみた。

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

予想されたことではあるが、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』は半分も読まないうちに図書館へ返却となった。体形だった論文ではなく、いくつかの主題がくり返し断片で論じられる形式なので、非常に読みづらかった。
要するに言語というもののルールは恣意的であり、可能性としてはつねに他のルールでもありうるような一種のゲームであるにもかかわらず、われわれはいかにしてその言語をつかって真理を語ることができるのか。言語をつかって真理を語る権利や資格を、人間はいったいどこから得ているのか。そういうことが書いてあるのだと理解した。
このような理解がある程度正しければ、学生時代に僕が理解しようと努力していたフランスの哲学者ジャック・デリダと、方向性としてはそれほどズレていない。
ヴィトゲンシュタインが言語の「限界」について、ひたすら愚直に探究しているのに対して、ジャック・デリダが一見不真面目に見えるほどまでに、言語の恣意性と戯れている、そういったスタイルの違いがあるだけのような気がする。
...と、分かったようなことを書いても何の意味もない。『哲学探究』から現在の僕が何か得るものがあったか。残念ながらなかった。本書から何かを得るためには、同じ問題をヴィトゲンシュタインとともに考えながら読まなければならないのだが、じっくり考える時間が僕にはないからだ。

「顧客第一」が産み出すおバカな社会

いまサービス業の社内情報システム部門で働いているせいか、顧客満足といえばできるかぎり顧客の要望を実現すること、という考え方が当たり前のように社内にまかりとおっている。しかし顧客の言いなりになるだけでなく、顧客を啓蒙することもサービス業の使命である。
わかりやすいのは環境問題だ。小売業がレジ袋を廃止すれば顧客の利便性は失われる。顧客の言いなりになることが営利企業の至上命題なら、レジ袋を廃止するのはナンセンスだ。しかし、現にレジ袋を廃止する企業が存在するのは、顧客を啓蒙するのも企業の使命だという暗黙の了解があるからだ。
家電製品やパソコン、携帯電話も、利用者のわがままをくみとって、できるだけ使いやすくというのが、一見、無条件に正しいことのようだが、実際には30年前の家電と比べると現在の家電の操作ははるかに複雑で高機能になっている。だんだん使いやすくなっているどころか、使いづらくなっている。
しかしこれは、より多くの人々が高性能な製品を使えるようになるように、家電メーカーが長い時間をかけて、製品を通して一般消費者を啓蒙していると言えないだろうか。
僕は情報システムの構築の仕事をしているわけだが、この業界では特に、顧客の言いなりになると、だいたいとんでもないシステムができあがる。だいたいはシステムを作る側よりも利用する側の方が、情報システムについての知識が不足しているためだ。
したがってシステム構築にたずさわる人たちは、自分たちが利用者の要望をくむだけでなく、利用者を啓蒙する使命もおびていることを忘れてはいけない。IBMクラスのシステム構築業者になれば、コンサルティングサービスを通じて顧客を啓蒙するということを自覚的におこなえるが、レベルの低いシステム構築業者は「安くていいものを」という顧客の言いなりになってしまい、「安くて悪いもの」を結果的に作ってしまう。
啓蒙されることを嫌がる自己中心的な顧客は、結局は良いサービスを受けることができないし、良い製品を使いこなすようになることができない。良い情報システムを構築したいなら、企業の経営者は顧客としての自社の要望が無条件に正しいなどと思ってはいけない。システム構築業者から学ぼうとする姿勢がなくてはならない。
人々を啓蒙するのは、けっして学校だけの役割ではない。一般消費者として僕らが受けるサービスや、購入する製品の一つひとつが、僕らにとっての「教師」になりうるのだ。ただし、そこから何か新しいことを学ぼうとする人たちにとってだけは。
たとえば、いま亀戸駅前のマクドナルドでこの文書を入力している僕の目の前には、僕が入店する前からコンセントつきのカウンター席で携帯ゲーム機に延々と興じている少年3人がいる。
マクドナルドは顧客の要望に忠実なので、彼らを叱り飛ばすことはないけれども、何時間にもわたって座席を占有することが、ほめられたことではないということを、これら3人の少年は学び損ねている。
高度成長を成し遂げて以降の、日本の(そしてもしかすると世界中の資本主義国家の)すべての企業は、これまで顧客満足、顧客至上主義を言いつづけることで、顧客のわがままを際限なく増長させてきた。それによって自分たちが製品やサービスを通じて顧客を啓蒙できるという、大きな可能性を自らドブに捨てるようなことをしてきた。
日本経済新聞の社説の論調も、企業の顧客至上主義を当然のことのように考えている。最近読んだ社説では、環境問題に敏感な若者のライフスタイルが、あたかも自然と環境問題をより良い方向にみちびくようなことが書いてあった。
しかしこれは完全なウソっぱちだ。環境のことを考えるなら、顧客は今までは通用したわがままを、どうしてもひっこめる必要がある。そして企業はそういう風にわがままをひっこめさせるために、顧客を啓蒙する努力をしなければならない。顧客の増大するわがままをひたすら実現することが企業の社会的責任ではなく、顧客を啓蒙することこそが、特定の製品技術やサービスについて、一般消費者より高度な知識・ノウハウをもつ企業の社会的責任ではないだろうか。
企業の管理部門にいると、現場の人たちはやたらと「管理部門は現場に対するサービス部門だ」などということを言い、まるで現場のわがままを無際限に聞き入れることが管理部門の使命のように言う。しかし、企業の管理部門は、本当は現場を啓蒙することの方が本質的な役割なのだ。
顧客満足、顧客第一という言葉がはびこることで、社会から啓蒙の機会がどんどん失われている気がする。典型的なのは学校に文句ばかり言う親たちだ。
まさに啓蒙の場である学校までが、単なるサービス業のようにみなされ、親たちはレストランやクリーニング屋の仕事に文句をつけるのと同じように、学校の教師たちに文句をつける。最後の啓蒙のとりでである学校までが、顧客第一の美名のもとに、単に顧客のわがままをくみとる機関に堕落してしまう。
関西テレビの健康情報番組のねつ造問題もまったく同型だ。啓蒙ということには、個人的に知りたくないことを知らされる、ということも含まれているのに、テレビ局は顧客の知りたいことだけを知らせるようになり、最終的には顧客の知りたいような情報を作り出す。
知らなかったこと、知りたくないことを知るという啓蒙の機会を失ってしまったら、人々はどうやって前に進むのだろうか。

カート・ヴォネガット死去

今朝、郵便受けに勝手に投函されていた『産経新聞』の試読紙の社会面で、カート・ヴォネガットが84歳で死んだことを知った。一時期、かなりハマった米国の作家だが、ここ数年はまったく読まずにいた。
この「愛と苦悩の日記」でも、彼の小説にたびたび登場する「自殺パーラー」については何度かふれたことがある。個人的にもっとも印象的だった作品は『母なる夜』だ。映画化された作品も観た。この機会に、まだ読んでいない彼の作品を読んでみようか。