月別アーカイブ: 2007年1月

流行を追うことが時代遅れな現代

キャンディーズについての記事が多いのをお読みになって、もしかすると読者の中には、過去への郷愁にひたっている僕の甘さを批判したくなる方がいらっしゃるかもしれない。
しかし、ご注意いただきたいのは、僕はリアルタイムでキャンディーズの全盛期を体験したわけではないということだ。むしろ今、キャンディーズというアイドルグループを再発見している、と言った方が正確だ。
最近、米国アーサーS.デモス財団が無償で配布している「パワー・フォー・リビング」という冊子のテレビCMに登場している(枕詞が長くて申し訳ない)久保田早紀についても同じことが言える。『異邦人』が大ヒットしたとき、僕はまだ10歳にもなっていない。『異邦人』の収録されている『夢がたり』というアルバムを「発見」したのは二十代半ばになってからだ。
僕らの世代は流行を追い求めることを無条件に良しとする傾向が強いが、こういう傾向自体が一つの「流行」に過ぎない。「新人類」以降の世代には、この流行追求の傾向があまりに自明なため、自ら相対化することが難しい。
流行に敏感であることを誇ること自体が、「新人類」世代の遺物であり、時代遅れであるという逆説がここにある。新しさを誇ること自体が古い、という逆説がここにある。
例えば、梅田望夫氏がグーグルという会社の新しさをあちこちで説き回っているのが、非常にダサく見えるのは、新しさを追い求めて米国西海岸なぞに行ってしまうという行為そのものが、いまや時代遅れになっているからだ。
現代は流行を追い求めることが時代遅れになってしまっている時代なのだ。

刑事裁判への被害者参加でますます「えん罪」増加懸念

法務相の諮問機関で、犯罪被害者が刑事裁判に参加し、被告や証人に質問したり、求刑に意見を述べられるようにする「被害者参加精度」を導入する要綱をまとめたようだ。
日本経済新聞の朝刊によれば、ドイツ、フランスには同様の制度があり、米国では求刑に意見を述べる制度だけ存在するという。
しかし刑事裁判の有罪率99.9%で、「疑わしきは罰する」、「十のえん罪を出すとも、一人の犯罪者も逃すなかれ」の日本で、被害者が刑事裁判に参加すれば、ますます「えん罪」が増えるのではないか。
被害者感情を考えるなら、とくに重い犯罪について、終身刑の導入など、刑法の量刑を見直すのが、近代司法制度としては本筋だろう。米国はその前提があって、量刑に意見を述べる部分のみ被害者の参加が許されているので、合理的である。
日本のように、量刑の見直しをする前に、被害者を刑事裁判に参加させてしまったのでは、前近代的な日本の刑事裁判がますます「リンチ(私刑)」色を強めて、さらに前近代的になってしまうではないか。
法務相の諮問会議が、このように優先順位を間違った意見を出してしまうこと自体、日本の司法制度がいかに前近代的かの証拠である。

不二家の不祥事に便乗する食品メーカ

不二家の賞味期限切れ原料使用の不祥事が明らかになった直後、さまざまな食品メーカが続々と同じような品質管理上の問題を発表した。これらの食品メーカにとって、不二家という大事件のかげに隠れて目立たない今は、自らの膿を出してしまう絶好の機会だったわけだ。もし不二家の一件がなければ、これらの食品メーカが問題を発表することはなかっただろう。
民間企業の経営者の倫理観というのは、この程度のものだ。そしてそういう非倫理的な組織に労働力という商品を売らなければ生きていけないのが、サラリーマンという職業である。

女性を「出産する機械」に例えた柳沢厚労相

毎日新聞によると2007/01/27、柳澤厚生労働相は松江市の自民党県議会議員集会で「15から50歳の女性の数は決まっている。生む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う」などと述べたという。
Yahoo!JAPANニュース:「柳沢厚労相 女性を「出産する機械」とも例える発言」
女性が「出産機械」なら、男性は「労働機械」兼「種付け機械」といったところか。国家にとっては国民も石油や水と同じ資源(リソース)の一つに過ぎないという、柳澤厚生労働相のきわめて合理的な発想が、それ自体「善」か「悪」かはかんたんに決められない。
少子化の一因が、男性が「労働機械」として私生活まで企業に取り込まれてしまっていることである点は、だれも反論できないだろう。産業革命直後から言われている、わかりやすい人間疎外論である。
人間が企業全体としての経済合理性のために、私生活も含めた自分の生活時間の全てを、単一の目的、たとえば「労働」という目的のためだけに使い尽くさなければならない。典型的な人間疎外だ。
柳澤厚生労働相の発想は、男性が「労働機械」として人間らしい生活を送れなくなっていることが、少子化の一因であるのに、それを女性の「出産機械」化によって解決しようとするものだ。
つまり、柳澤厚労相の思考は、経済合理性追求の帰結を、経済合理性によって克服するという風に、経済合理性の中で閉じてしまっている。
ただし、この考え方そのものは極めて合理的で、合理的である限りにおいて一貫性がある。高度経済成長期に日本の国家が男性を「労働機械」として徴発できたのは、地方の農村共同体からはぎとられた男性たちを、会社共同体にしっかりと組み込んだ日本的雇用制度の賜物である。
だとすると柳澤厚労相はその合理主義を徹底して追及するしかない。つまり、今度は女性を「出産機械」として徴発するために、日本的雇用制度のようなインセンティブを、出産適齢期の女性に与えなければならない。女性が経済合理性だけを基準にして、出産しないよりも出産することを選ぶような制度を設計しなければならない。
それこそが女性を「出産機械」と発言した柳澤厚労相の責任である。仮に柳澤厚労相が、経済合理性だけで女性を「出産機械」として徴発するアイデアも何もなしに、単なる女性蔑視から「出産機械」発言をしたのであれば、明らかに厚生労働省の長としては不適格者である。即刻、辞任すべきだ。
柳澤厚労相は、自分の発言について下手な弁解をせず、女性を出産に動機づける経済合理性のある具体的な政策を、ただちに発表しなければならない。

廣松渉『今こそマルクスを読み返す』

廣松渉著『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書)を読んだ。「廣松渉の著書は難解」という予断を裏切り、とてもわかりやすいマルクス思想入門書、かつ、廣松渉その人の思想の入門書になっている。
ソ連邦が崩壊したからといって、西欧思想史上、マルクスの思想を無視してよいことにはならない。むしろ『資本論』をまともに読んだことのない僕にとって、マルクスの思想の理解はまだ取り組むべき課題として残っている。(「一介のサラリーマン」がそんなことを課題にする必要があるのかは別として)
本書はソ連邦崩壊後に書かれているので、廣松渉自身、世間一般の風潮が「マルクスは死んだ」という考え方になってしまっていることを十分理解している。
それに対して廣松渉は本書の冒頭で、既存の日本語訳に見られる教条主義的なマルクス理解をしりぞけ、ソビエト連邦が崩壊した今もなお有効なマルクスの思想の本質を読み取ることが目的だと書いている。
その言葉にたがわず、本書で廣松渉はマルクスの思想のうち今もなお有効な資本主義批判を注意深く抜き出し、ていねいに説明している。また、マルクスの思想に対する誤解についても、随所でしりぞける慎重さだ。
共産党の教条主義的な解釈によって、マルクスの思想がいかに歪められてきたか、またそれによって一般人のマルクスに対する「アレルギー」がいかにひどくなってしまったか。そういった現状から、廣松渉は厳密に論理的にマルクス思想が現代にもつ射程を救い出そうとする。
本書を読めば、少なくともマルクスの思想に対する無意味なアレルギーはなくなるし、廣松渉自身、マルクスの思想(とくに資本主義後のマルクスの世界観)と意外なほど距離感をたもっていることも理解できる。
教条的でなく、かつ、妙に「ポストモダンかぶれ」していないマルクス思想入門としては、もっとも堅実な書物ではないかと考える。