月別アーカイブ: 2006年10月

小島信夫氏死去

小説家の小島信夫氏が亡くなったらしい。たしか高橋源一郎氏だったかが、ダラダラ書くだけで小説になってしまう奇跡的な小説家なので、皆さんは決してマネしようと思わないように、と書いていた記憶がある。
最近読んだ中では、保坂和志氏との往復書簡集『小説修業』が面白かったように記憶している。例によって、読んだ本の内容は、読む端から忘れるので、漠然とした印象しか残らないのだが、小島信夫氏の不思議な自虐的ユーモアをただよわせる「まったり」系の文章は好きな文章だ。
文庫でも読める作品があるので、未読の方はぜひどうぞ。

YouTubeで『DAICON IV』発見

米国では既に視聴者が減りつつある動画アップロードサイト「YouTube」で、庵野秀明作画の『DAICON IV』がアップされているのを見つけた。庵野秀明公式サイトでは音なしで一部分しか公開されていないので、完全版を観たのは初めてなのだが、恥ずかしながら『DAICON IV』のBGMがELOの「Twilight」で、フジテレビ『電車男』のオープニングテーマ自体が『DAICON IV』の引用だったというのを初めて知った。
「板野サーカス」の引用はもちろんだが、ヒロインのバニーガール姿の少女が、サーフボードのように剣の上に乗って空を飛び回り、宙返りを見せているのが、そのまま『交響詩篇エウレカセブン』で引用されているというのも初めて気付いた。
東大生SNSで現役経済学部生の方から、『エウレカセブン』についての周囲の意見として、引用がみえみえでつまらないというメールを頂いたのだが、この『DAICON IV』の引用もそうなのだろう。やはりアニメーションは1970年代から継続してフォローしないと、パロディーの無限連鎖についていけないものなのだと、よくわかった。

姜尚中と宮台真司のスタンスの違い

姜尚中(カン・サンジュン)と宮台真司の対談集『挑発する知』(双風舎)を読み終えた。先日ご紹介した『網状言論S改』だけを読むと、東浩紀の宮台真司に対する「実存的なツッコミ」ばかりが目立って、肝心の宮台真司のスタンスの変化が、単なる右翼への転向に読めてしまう。
もし本当にそうだとすると、そもそも在日コリアンという出自をもつ思想家である姜尚中のような人との対談など成立しないわけで、この『挑発する知』を読めば、宮台氏の右翼的発言に関する誤解がすっきり解消される。
要するに宮台氏は、国家と国民をはっきりと分けて考え、国家は国民のために奉仕すべきものであり、そうなっていない場合は、国民が国家を操縦しなければならないと主張しているのだ。
ただ、国民が国家をコントロールできるようになるには、今の日本国民(もちろん宮台氏は「日本国民」の範囲についても議論の余地があると留保をつけている)のレベルは低すぎると、国民に対しても厳しい視線を向けている。
そのために学術的・専門的な議論を、一般の国民にかみくだいて説明する役割を担う人々を大学が育成しなければと主張している。宮台氏は今のところめぼしい人がいないので、自分が研究者であると同時にその役割も果たさざるを得ないと告白している。姜尚中もこの議論には賛同している。
実は個人的に、最近、姜尚中が日本テレビのコメンテーターとして登場していることが気になっていて、どちらかといえば左翼系のハードな理論家である姜尚中が、読売新聞系の制約を息苦しく思わないのだろうかと無用な心配をしていた。
しかしこの『挑発する知』を読むと、宮台氏との対談を通じて、姜氏自身も一定のリスクをおかしてでもマスコミを利用してより多くの人たちに語りかける「実践」にコミットする決意をしていることがよくわかる。
一般の国民にあえて「わかりやすく」語りかけることの危険性も有効性も分かった上で、その一歩を踏み出そうとする姜氏のコミットメントが理解できただけでも、この『挑発する知』を読む価値はあった。
また、両氏の方法論についての違いも、本書のまえがきとあとがきでわかりやすく両氏自身の言葉で説明されている。宮台氏は社会状況に応じて技術・道具としての理論を自由に取り替えることの優位性を説き、姜氏は時代を通じて変わらない真理の実在と、時代によって変わる分析枠組みの可変性を両立させることの重要性を説く。
つまり、宮台氏はあくまでルーマンの方法論に忠実であり、それに対して姜氏はハバーマスの対話する理性が受け継いでいる西欧啓蒙主義の伝統と、ルーマンやデリダのような方法論的戦略性を両立させようという、より困難な道を選んでいる。
いずれにせよ、同じ時代に共闘する二つの知性の共鳴・共振が心地よい対談集だ。

北朝鮮外交についての宮台真司の「予言」

2003/11に出版された姜尚中(カン・サンジュン)と宮台真司の対談集『挑発する知』(双風舎)を読んでいるのだが、北朝鮮の核実験について宮台真司の鋭い指摘があったので、引用しておく。
「2002年10月に政府が拉致被害者五人の強制帰国を決め、北朝鮮との約束を破ったときに、私はすぐにラジオで『北朝鮮は今後、日本を外交交渉の相手として認めず、アメリカを相手にして核カードを切るだろう』と予測したら、そのようになった。(中略)五人の拉致を認めるということは、あとのないカードを北朝鮮が切ったとみることができるからです。
 究極のカードを切った北朝鮮の意図は、簡単です。(米国との)休戦協定を平和条約や不可侵条約に変えることも含めて北朝鮮を助けてくれないか。アメリカの愛人である日本からアメリカに口を利いてくれないか。そういうシグナルをだしてきたわけです。
 ここで日本が口を利けば、戦後始めて日本が外交でイニシアティブを執ることができたでしょう。これほど国益に資することはないと思ったのですが、拉致被害者の北朝鮮への帰国を拒否したことにより、そのチャンスは一瞬にしてつぶれてしまいました」(p.52)
 僕自身、日本のマスコミがあまりに一般人の感情面に訴えて、拉致被害者の奪還をあおりすぎることに疑問を抱いていたのだが、なるほどそういうことだったのかと宮台氏の議論に納得した。
 北朝鮮は核実験を強行し、まさに宮台真司の予言したとおりの展開になってしまっている。そしていま北朝鮮外交のイニシアティブを握っているのは、中国である。この部分の少し後で、北朝鮮の脅威をあおる読売・産経系メディアについて、宮台氏はその矛盾をついている。
 彼らは、一方では、北朝鮮の核の脅威に対抗するにはアメリカに追従する必要があると言いながら、他方では、北朝鮮の核の脅威など恐れるに足らず!徹底して強硬姿勢を貫いて拉致被害者の全員奪回をめざせ!と言う。
 安倍晋三の外交姿勢もまったく同じで、北朝鮮の核の脅威について、一方ではそれを意図的に「あおる」ことで、アメリカ追従外交の口実に利用し、他方ではそれを意図的に「なめる」ことで、対北朝鮮の強行姿勢の口実に利用する。
 もちろん安倍晋三自身は完全に矛盾していることを承知で、拉致被害者に対する同情心をうまく利用して国民を巻き込みながら、北朝鮮外交をおしすすめているわけだが、その目的はおそらく一つしかなく、自衛隊を正規軍にして軍備増強を図るという、宮台氏の言う米国のネオコン式のマッチポンプ(自分でマッチの火をつけておきながら、自分でポンプで消すこと)なのだろう。北朝鮮の脅威を自分であおっておいて、それを利用して軍備増強へ世論を誘導する。その循環がすこしずつ世論を軍備増強の方向へ動員していく。
 そういうわけで安倍晋三が小泉首相の正統な後継者であることは確かだが、注意したいのは、「安倍晋三の外交姿勢に反対!」という主張と、「拉致被害者を還せ!」という主張は両立しないということだ。
 小泉首相時代に敷かれた現在の北朝鮮外交を軌道修正するには、残念ながらもはや日本は、逆説的ではあるが、米国べったりの姿勢を貫くことで、中国のイニシアティブを際立たせるしか手がなくなっている。
 宮台氏の言うように、拉致被害者5人を北朝鮮へ帰国させなかった時点で、日本にはアメリカ追従の道しかなくなってしまったのだ。これは真の右翼からすれば国辱ものの外交上の失策である。

僕ら世代の致命的弱点としての素朴な平和主義

先日書いた「このあまりに下らない、会社員生活」というエントリについてだが、もしかすると、こういうことが起こるのは僕ら30代会社員の決定的な弱点のせいではないか、という気がしてきた。
これまで僕が「愛と苦悩の日記」と親サイト「think or die」でおじさん世代(=団塊の世代)の批判を展開してきたのは、会社組織の中に世代間の政治的対立があるということを、大前提とした上でのことだ。
もう少し広げて言えば、会社組織の中にはさまざまな政治的対立があって、その一つに世代間の対立があるということだ。こういう認識があるからこそ、僕はおじさん世代批判を展開してきたわけである。
ところが「会社組織の内部に政治的対立が存在する」ということを認識できる僕は、30代会社員では例外なのではないかということに、今日、思い当たった。
僕個人は高校時代からフェミニズムを中心とした新左翼系の思想にかなりコミットしていた。そして東京大学入学後も、駒場寮で新左翼の残党たちの議論を横で聞くという、時代遅れの政治的な状況に慣らされてきた。
しかし僕の同世代は、このような特殊な状況におかれない限り、「政治的なるもの」とまったく無縁の学生生活だったはずだ。東京大学でさえ僕のような政治的体験をもつ同年代の学生は少数派だった。
ましてふつうの私立・公立大学に進学して、体育会系の活動や、合コンなど、当時よく言われた「遊園地」的な学生生活をエンジョイしていた人たちは、「政治的なるもの」とまったく無縁なまま社会人になったはずだ。
そんなフツーの社会人にとって、組織を運営するときの原理は学生生活の体験に根ざしている。学生のサークル活動などの組織運営の原理は、ひとことで言えば「一つの目標に向かってみんな仲良く一丸となって」である。そこでは、組織内部の対立などありえないものと考えられている。(対立するものは排除される)
しかし実際には、サークル活動にしても、小学校のクラスにしても、あの人は好き、あの人は嫌い、という単純な基準でいくつかの「仲良しグループ」に分裂する。しかしそうやって「仲良しグループ」を作っている本人たちには、「仲良しグループ」どうしの間にある利害対立は見えていない。
グループどうしの対立は、一段上のレベルにある「担任の教師」や「大学のキャンパス」という場によって、存在しないものとされる。したがって、気の合う仲間と付き合って、楽しい学生生活が過ごせればそれでいいし、「政治」みたいなことを言うウヨクだかサヨクだか知らないがいかがわしい人たちとは、できるだけ付き合わないのがいい。それがいま30代で社会人になっている僕ら世代の、ふつうの学生生活だった。
しかし会社組織には、60年安保、70年安保を直接・間接に経験した世代が存在する。徹底して政治に無関心で学生時代を過ごしてきた人も、同世代の仲間たちが政治闘争に巻き込まれていたというリアリティは、すくなくとも僕らの世代よりは濃厚に持っている。
創業30年を超えるような会社なら、どんな会社でもそういう「政治の季節」をリアルタイムで経験した世代が、経営層に存在している。そういった世代が組織を運営するとき、意識するとしないとにかかわらず、組織内部の政治的な力学を打算的に利用するのは、ある意味当たり前のことである。
ところが僕ら世代の会社員のほとんどが、そういう政治性に免疫がない。ではどう反応するかといえば、大きく二つにわけられる。一つは「完全な追従」、もう一つは、素朴な「仲良しグループ」主義を貫くことだ。
「完全な追従」というのは、政治性を打ち出す年長世代に対して、「長いものには巻かれろ」式に、大した考えもなく従ってしまう、あっさり洗脳されてしまうという反応のことだ。
もう一つの素朴な「仲良しグループ」主義は、考えようによっては「完全な追従」より始末が悪い。というのは、「仲良しグループ」主義的反応をする30代の会社員たちは、「人類皆兄弟」のような素朴な平和主義を本気で現実的で正しいものだと思い込んでしまっているためだ。
僕ら30代の中に、こういう素朴な平和主義者がかなりの数存在するのは、小学生のころ受けてきた道徳教育のおかげだ(もちろん皮肉)。とにかくみんな仲良くすることが無条件に正しいし、そういう状態は実現可能だという、とても素朴な考え方だ。
しかし、このような素朴な平和主義が、現実には政治的力学がシビアにはたらいている会社組織にもちこまれると、「仲良しグループ」どうしが組織の大義の奪いあいをするという、非常に醜い事態になる。
もう少し分かりやすく言えば、「私たちのやっていることこそが、経営ビジョンに合致している!」という風に言い出す「仲良しグループ」が林立する状態になってしまうのである。
僕らより年長の世代も、こうした政治的党派を作る点では変わりないのだが、彼らと僕らの最大の違いは、そうした党派間の利害調整のテクニックにはっきりとあらわれる。
年長世代は利害が対立する複数のグループに対して、打算的で政治的な利害調整の努力をする。つまり、グループAにはある面で妥協を強いる代わりに、別の面では譲歩し、グループBにはちょうどその逆のかたちで譲歩と妥協を求める、といった利害調整だ。
ところが僕ら30代には利害調整のテクニックが欠けている。その理由はかんたんで、僕ら世代の大部分は「最後にはみんな仲良くなれるはず!みんな分かりあえるはず!」ということを素朴に信じてしまっているからだ。(小学生時代の洗脳が効いている)
そういった素朴な「仲良しグループ」主義から抜け出すことができない僕らの世代の大部分の人たちは、僕のように政治的にふるまうことを知っている人間を目の前にすると、「どうして仲良くできないのか?どうしてわざわざ火に油を注ぐようなことをするのか」といった拒絶反応を示す。僕ら世代の「政治的なもの」への強いアレルギーが、会社組織の中では、年長世代の打算的な政治主義との間であつれきを生むというわけだ。
そして僕ら世代は、上述のように二つのまったく異なる態度をとる結果になる。一つは、年長世代の政治主義に対する無条件の追従、もう一つは、政治主義に対する過剰防衛の結果としての閉鎖的な「仲良しグループ」作りだ。
僕自身は年長世代の政治主義と戦えるだけの政治性を、これまでの人生で身につけているので、意図的な不作為(!)も含めて、組織内部の政治的対立に打算的な対応をとることができる。(もちろん体力がついていかずに傍観者を決めこんでしまうこともあるが)
しかし僕と同世代の人たちは、僕の政治的な振る舞いを理解できず、「立てる必要もない波風を立てようとしている」と、完全に誤解してしまう。
もっと大きな観点で僕が心配するのは、年長世代が退職して、僕ら世代が会社の経営を担うようになる20年後、利害調整のテクニックをまったく持たず、年長世代への追従だけで業績を上げてきたような人たちが経営を握ったとき、だれも組織内の利害調整できなくなってしまうのではないか、ということだ。
「みんな仲良く」ということを最優先に考える素朴な平和主義は、現実に存在する組織内の利害対立を前にしたとき、完全に無力だからだ。