月別アーカイブ: 2006年9月

須田氏のネット事大主義・第3回

日経ビジネスオンラインのコラム「Web2.0(笑)の広告学」第三回が掲載された。この記事を書いている時点でトラックバックが1件もついていないので、早速ツッコミを入れてみる。
やはり須田氏と梅田望夫氏はよく似ていて、ネットを過大評価する傾向にある。ネット事大主義とでも言えばいいだろうか。
前回、須田氏は、実際にはバーガーキングのPR戦略でしかない取り組みを、YouTubeの新しい広告モデルだと誇大広告したが、今回も冒頭から懲りずに誇大広告を展開している。
米国でドリトスがテレビCMをネット上で公募したことを、「CGM」(消費者が作るメディア)時代の証明だと誇大広告しているのだ。これも実際にはバーガーキングと同じく、話題性によるPR戦略と、CM制作費を賞金1万ドルと安く上げる工夫でしかない。
そして今回のテーマはSNSのミクシィだ。ミクシィの利用者数は570万人で、確かに須田氏の言うように若者にとっては加入していて当たり前のインフラかもしれない。しかし1億2000万人の日本人のうち、たった570万人しか利用していないサービスを「セロテープ」「サランラップ」「ゼロックス」と同列に論じる須田氏の無神経さには言葉を失う。これはネットの過大評価以外の何物でもない。
そしてミクシィのコミュニティーから映画『ホテル・ルワンダ』の国内公開が決まったエピソードで、この映画を「ヒット映画」と称しているが、国内興行成績で一度も10位以内に入っていない映画をヒット映画と言えるかどうかは疑問だ。
しかもこの映画の評判が広がった直接の原因は、この映画のミクシィ内のコミュニティーが、映画評論家・町田智浩氏のブログに取り上げられたからであって、町田氏のブログのメディアとしての権威と認知度によるものだ。
さらにその後、コミュニティーの主催者であった水木氏が、署名活動など、リアルの世界で寝る暇を惜しんで公開運動を進めたからこそ国内公開が実現したわけで、水木氏の情熱があれば、ミクシィでなくても、たとえば5年前のYahoo!JAPANのテーマ別掲示板でも同じことは起こっただろう。
部分的にネットを巻き込んだ口コミというのは、ネットが普及している今、それほど珍しいことではない。『ホテル・ルワンダ』の事例が特殊なのは、水木氏の情熱であって、ミクシィの成功例だからではない。その点で須田氏の議論は完全におかしい。そのため須田氏の議論は、広告がいかにして水木氏の情熱が先導したような「仲間内の盛り上がり」を作り出せるか、という奇妙な展開になっている。
「SNSはユーザが極めてプライベートな感情を交換する場です」という定義も完全に間違っている。ミクシィは「足あと」機能をはじめとして、自分の行動の履歴が参加者にいちいち明らかになってしまうので、実際にはかなり神経をつかう場だ。
そんな場でプライベートな感情を交換しようものなら、たちまち仲間はずれにされてしまう。例えばこのブログのように須田氏のコラムをいちいち批判するような心性は、ミクシィのような仲良しサークルには許容されない。
SNSは決して「ハートとハートのオープンなコミュニケーション」(須田氏はクリエイターのわりに言葉選びのセンスが悪い)ができるような場ではない。気をつかって仲間の機嫌を損ねないように振舞わなければ、誰も仲間になってくれない場である。
そしてファイブミニの広告キャラクターの話が出てくる。こんなキャラクターがあるなんて初耳だったが、この広告コミュニティーを、「ハートとハートのオープンなコミュニケーションを企業がすれば、参加者も応えてくれ」る事例とするのは、須田氏のこじつけもいいところだ。
このバカげたキャラクターのお遊びについてこれる人々が結果としてコミュニティーに残っただけであって、しかも彼らはおそらく「アクダー・マーキン」(悪玉菌)というキャラクタの、下らなさ、バカらしさを知った上で、そういう下らなさに反応する自分の下らなさを楽しんでいるのだ。
決して企業のハートのあるメッセージが消費者のココロに刺さっているわけではない。ここで起こっているのは、対象物の下らなさを知った上で、そんな下らないものに反応している自分の下らなさを楽しむという、高度なシニシズムの遊びだ。
須田氏は消費者をなめている。完全になめている。毎日これだけ膨大で良質な広告や、楽屋オチ満載のバラエティー番組にさらされている消費者が、企業の心のこもったメッセージにストレートに感動してキャラクター遊びに参加するはずがないではないか。
最後に第3回目のコラムは、ミクシィのようなSNSは「マス媒体」と呼べるのか、「マスメディア」の本質とは何なのかという問いで終わっている。須田氏の定義を頭の良い言葉で言い換えると、「マス」とは伝播速度も減衰速度も高いメディアで、ミクシィのようなSNSは伝播速度も減衰速度も低いメディアとなる。
「SNSがパワーを持っていくことは、既存のマスメディアにどのような影響を及ぼすのか?そもそも『マス媒体』『マスメディア』の本質とは何なのか?」という須田氏の問いに答えよう。
SNSは趣味趣向の同じ人間を出会わせる媒体にはなる。例えば『エウレカセブン』好きの人間を出会わせる媒体にはなる。しかしその一人ひとりが『エウレカセブン』と出会うのはマス媒体である。このようにSNSとマス媒体は補完関係にある。
つまり一定数の消費者が飛びつくネタを提供できるのはマス媒体しかない。そして同じネタに反応した人々が、今までなら専門誌や同人誌、イベントでしか出会えなかったが、今はネット上のコミュニティーで地理的制約・時間的制約を超えて効率よく出会える。
『ホテル・ルワンダ』も米国で本当の意味でヒットしたからこそ(=マス媒体)、日本にもそれに反応する人々がごく少数だが生まれた。彼らがミクシィで出会って、有名映画評論家のブログ(=マス媒体)を利用することで、日本国内にも一定数のコミュニティーを形成できた。
このことが糸井重里の「ほぼ日」(=マス媒体)で話題になることで、さらにコミュニティーを広げ、最後は映画の配給会社(=マス媒体)でより多くの人にリーチできるようになった。極めつけは日経ビジネスEXPRESSという典型的なマス媒体のインタビュー記事に取り上げられたことだろう。そして須田氏のコラムも同じ日経BP社のマス媒体である。
このようにマス媒体と、ミニコミ媒体(SNS、専門誌、同人誌)はいつの時代も補完関係にある。別にSNSが特別新しいことをやっているわけではない。かつての紙媒体(専門誌や同人誌)と比べると、地理的・時間的効率がいいという「程度の差」があるだけで、「質の差」はない。
だからSNSが時代に本質的な変化をもたらすだとか、広告展開に革命的な変化をもたらすなどといった過大評価は避けなければならない。
さて、ますます連載第4回が楽しみである。

宮台社会学入門としての『限界の思考』

今読んでいる『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』は、僕と同世代の北田暁大という社会学者と宮台真司の対談形式なのだが、ほとんど北田氏による宮台社会学入門、といった感じになっている。しかもアイロニーに関する議論が延々とつづく中で、宮台氏の『サブカルチャー神話解体』(1993)が何度も言及されるので、この本も読まないわけにはいかなくなってくる。
これって結局、宮台真司の策略にまんまとハマっていることになるのでは?と思いつつも、図書館でさがしてみよう。しかし本来はルーマンの『社会システム理論』の英訳本をもっているので、まずそちらを読むべきなのだろうが...。まとまった時間がほしい。いつになったらまともにルーマンを読めるのだろうか。

人間は「内在系」と「超越系」に分けられる

ここ数週間、社会学者·宮台真司をまとめ読みしているが、僕の実存的な煩悶に明快な図式を与えてくれる。
内在系と超越系という区別もその一つだ。今読んでいる『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』から引用する。
「『内在系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせれば、幸せになれる者のこと。『超越系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。〈社会内〉のポジショニングには自足できない存在です」(p.103)
言うまでもなく僕はこの図式を使えば「超越系」なわけで、「内在系」ばかりの会社員に囲まれたサラリーマン生活がストレスフルなのはある意味当然なのだ。
こんなことを再認識することにどの程度意味があるかは別にして。

「きっこのブログ」の無自覚な坂東眞砂子批判

タヒチ在住の坂東眞砂子という直木賞作家が、日経夕刊の連載で子猫殺しを告白したらしい。飼い猫に避妊手術をしたくないので、生まれてきた子猫を崖の上から放り投げるのだという。
この告白に対して「きっこのブログ」のように感情的な反論をすることは簡単だが、坂東氏を単なる犯罪者・異常者と判断するのは早い。坂東氏がこの行為を選択するに至った「論理」を理解せずして、同様の行為を避けることはできない。
きっこのブログ「猫殺し作家の屁理屈」
きっこのブログ「呆れ果てるイイワケ」
Yahoo!ニュースで抜粋だけ読んだ僕は、生まれたばかりの子猫を殺すのも「避妊手術」の一種で、可能性としての生命を奪うか、目の前に実在する生命を奪うかで、前者を選択しているだけではないか。それを坂東氏は分かっていないと考えた。
ところが問題のコラム全文を読むと、坂東氏自身は自分の行為が「子種を殺すか、できた子を殺すかの差」だと理解している。それでも子猫を殺すのは、大人の雌猫から性の悦びと出産という生の充実を奪いたくないからだ、という。
さらに大前提として「動物をペットとして飼う」こと自体が人間のエゴだと告発し、自分もそのエゴから自由でないことを認めている。その後、坂東氏は「弁明」を公表し、避妊手術は許され、子猫殺しは犯罪だと無条件に判断する価値観に疑問を呈している。
「きっこのブログ」はこれを「呆れ果てるイイワケ」と斬り捨てているが、「きっこのブログ」は坂東氏の自己批判の徹底ぶりを理解できていない。
坂東氏が言っているのは、猫を飼うことについて真に「正義」と呼べる選択肢は、「猫を飼うのをやめる」、この一つだけということなのだ。
それ以外の選択肢をとる人間(坂東氏も含まれる)、つまり、猫を飼っておきながら、避妊手術をしたり子猫殺しをしたりする人間や、そもそも人間様の都合で猫を飼う人間には、いかなる正義も主張する権利がない。
したがって、「子猫殺しより避妊手術の方がマシだ」という考え方は、自己欺瞞性に無自覚だからこそ、より「犯罪的」である。これが坂東氏の論理なのだ。
「きっこ」氏だけでなく、坂東氏を異常者呼ばわりする人々は、坂東氏の問題提起のラジカルさを理解しそこねている。
さらに、坂東氏がそこまで「何が正義か」という議論にこだわるのなら、何故猫を飼うことをやめ、絶望的に孤独な人生にコミットしないのかという意見もあるだろう。(坂東氏自身「私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢さからだ」と認めている)
ただ、先進諸国の動物の権利擁護論が、常に自己欺瞞をはらむ点は忘れてはいけない。たとえ猫を飼うのをやめても、僕らがペットを飼える程度の経済的な豊かさを享受しているのは、誰かがどこかで「子猫殺し」に近いことを、僕らの代わりにやってくれているおかげだからだ。
「きっこのブログ」の筆者は、坂東氏ほど徹底して考えていないからこそ、坂東氏を端的に犯罪者・異常者だと断定できるのだ。坂東氏が犯罪者・異常者なら、日本で安穏と生活しながら、ブログでまったりした言論を垂れ流している僕や「きっこ」氏も、犯罪的であり、異常である。

石原都知事国旗·国歌訴訟控訴で意味不明の反論

東京都の都立校に国旗掲揚と国歌斉唱を義務付ける条令について、地裁が違憲の判断を下し、石原都知事は控訴の意向だという。
裁判官は都立校の現場を見るべきだ、規律の維持のためには国旗·国歌は必要だと、記者会見で意味不明の反論をしていた。
義務化した点が違憲なのであって、国旗掲揚、国歌斉唱が違憲だと判断されたわけではない。そんなことよほどのバカでない限りわかる。普段から衆愚をバカにしているわりに、見え透いた稚拙な論点のすり替えだ。
規律を守りたいなら朝夕トイレ掃除でも義務化した方がはるかに実効がある。
小泉首相も同主旨の反論をしている。ここまで小馬鹿にされて国民が怒らないことの理解に苦しむ。