月別アーカイブ: 2006年4月

梅田望夫氏が求める新たな「権威」とは

この「愛と苦悩の日記」の『ウェブ進化論』批判について、ようやくトラックバックを頂くようになった。今日『いっつあんのひとり言』というブログから頂いたトラックバックの記事「『ウェブ進化論』は権威主義か?」に書かれていた反論に、ここで反論しておきたい。
まず「いっつあん」さんは、僕が、『ウェブ進化論』がベストセラーになっている原因は、梅田氏の学歴や経歴に対する日本人の権威主義的な反応だ、と書いていることに反論して、「まず梅田さんが興味を持たれているのは東大の院卒だからというわけではないと思う。むしろシリコンバレーで長年コンピュータ界の変化を見てきた”経験”、また”はてな”のプロジェクトに参加していることなどの方がよっぽど重要だろう」と書いている。
しかし、シリコンバレーは、アメリカという国に対して複雑な感情をもつ日本人にとって、そしてITに強くない人々にとって、立派な「権威」である。シリコンバレーでの日本人としては先進的な活躍、その後の「はてな」という斬新なITベンチャーでの活躍、これがITに弱い多くの日本人にとってなぜ「権威」でないと言えるだろう。むしろ筑摩書房はそのような梅田氏の経歴に、ネット世界を語るだけの「権威」があると見て、白羽の矢を立てたと考える方が自然だろう。
また「いっつあん」さんは、僕が、ネット上の総表現社会では、多種多様であるべき意見が一つの意見に集約されていくと書いていることに反論して、「梅田さんは別に日本人の意見が多種多様になるとは本書で述べていない。現在のブログの様子は結果的に多種多様ではない、権威主義的な日本人の姿を率直に反映しているだけではないか」と書いている。
この点は「いっつあん」さんの書かれているとおりだ。梅田氏はたしかにウェブによって日本人の意見が多種多様になるとは書いていない。しかし梅田氏は『ウェブ進化論』の第四章などで、玉石混交の状態が「玉」へと集約されていく期待を明記している。それは既存の権威と戦う必要があるからだ。
同書のp.147で梅田氏は次のように書いている。既存の権威は「『石』の悪質さを過激に指摘する方向に走ったり、玉石混交の面倒さを切々と論じたりする」。そのような「権威側が指摘する諸問題を解決するためのテクノロジーは、日進月歩で進化している。既存メディアの権威が本当に揺らいでいくのはこれからなのである。」
この部分をよく読んでみると、梅田氏が玉石混交を「玉」へ集約すること自体は善であると、何の議論もなく前提としてしまっていることに気づく。梅田氏が問題にしているのは、その玉石混交から玉を選別する権利を、既存の権威が独占していることであって、玉石混交から玉を選別すること自体ではない。
依然として権威主義の強い日本において、このような梅田氏の議論は、ネットをもう一つの「権威」にすること以外の何を意味するだろうか。既存の権威は「玉」を選び出す権利を行使することで「権威」たりえているのだから、それをネット世界が持つようになれば、ネットは新たな「権威」になる。わかりやすい議論である。
その証拠に、梅田氏がネット世界の言論を描写するとき、「甲子園」とか「コンテンツの自由競争」などといった表現を使う。これは多種多様な意見が、多種多様なままにとどまるのではなく、その意見の中から「勝者」=「玉」が決まることを梅田氏が期待していることを示している。
梅田氏は、グーグルのページランキングやWikipediaのような仕組みが、「玉」を選び出すためのテクノロジーであると明言している。つまりこれらの新しいテクノロジーは、既存の権威から「玉を選別する」権利を奪うために必要なテクノロジーだと明言しているのだ。これが新たな形の権威主義でなくて何だろうか。
もし梅田氏が本当にネットを新たな「権威」にしたくないのであれば、単に次のように主張すればよかったのではないか。「どうして『玉』を選び出す必要などあるのか。『玉』か『石』かを決める権利は誰にもない。ただそこには永遠の対話があるだけだ。『玉』か『石』かを決めなきゃいけないなんて、それこそ権威主義だ!」と。
もちろん政治的な意思決定の際は、民主主義は多数決の原理に従わざるを得ないが、ネット上の議論で一体どうして「玉」か「石」かを決める必要があるのだろうか。なのに梅田氏は、それを決める必要があると明記している。そして近い将来それを決めるのが、既存の権威ではなくネット世界であるという期待を表明している。梅田氏は新たな権威による「玉」の選別をはっきりと求めているのである。

敢えて「敢えて藤原正彦氏を弁護する」に反論する

とある読者の方から、藤原正彦著『国家の品格』を擁護するブログをご紹介いただいた。Leiermann氏の「Niemals-Gasse」というブログだ。その記事はこちらの「敢えて藤原正彦氏を弁護する」である。
Leiermann氏の藤原正彦擁護をひとことで要約すると、氏の書くものはすべて「寝言ポエム」だから、そもそも真面目に反論するに値しない、となる。「寝言ポエム」という言葉は知らなかったが、はてなダイアリーのキーワード定義によれば、「カフェやモスバーガーの店先によくあるような、店員によって黒板に書かれた、自意識過剰で上滑りした見るも痛々しいひとことポエム。うっかり読むと体感湿度が上昇する」とのことだ。
大阪のお笑いが好きな方に分かりやすく言えば、藤原氏のエッセーはすべて、ひとりボケ、ひとりツッコミなのだから、真面目に反論すること自体、藤原氏の「主張の最も重要な部分」、つまり「自然言語における論理の限界の指摘」をかえって肯定することになるというわけだ。
しかし、Leiermann氏自身がこの記事への「ヒンカク」氏のコメントに対する返答の中で認めているように、「しかし現在、その『床屋政談』レベルの話が真面目に受け止められてしまっているし、藤原氏がそれを敢えて押しとどめようとしないという現実は確かにあります。問題があるとすればそこだと思います(この件に関しては、当該記事を書いた当初は無自覚で、hazama-hazama 氏に指摘されて気付いた次第です)」
つまり、Leiermann氏のように、余裕をもって藤原正彦氏のエッセーを楽しめる知的水準にある「エリート」は非常に限られているのだ。Leiermann氏は、藤原正彦氏のエッセーは「何とも言えぬ諧謔味を醸成し、多くの愛読者を獲得しているわけである」としているが、それは事実に反している。
Leiermann氏は大学院生のようだから、ごく普通の民間企業につとめる僕とは全く違う環境で生活している。大学に残って研究を続ける人は「大学の研究者だって会社員と大して変わらず俗っぽい」とよく口にするが、申し訳ないが、民間企業の研究開発部門以外の部門で働いた経験のない人たちに、自ら「エリート」であることを否定する権利はない。
「エリート」ではない一般の日本人の大半が『国家の品格』を「真面目に」うけとっているの、はれっきとした事実である。
全国紙に掲載される『国家の品格』の広告に登場する読者の感想も、あえて「真面目な」反響にしぼられている。出版社やマスコミは決して『国家の品格』を、藤原氏一流の諧謔としては取り上げない。藤原氏がゲストとしてフジテレビ日曜朝の報道番組に出演したときも、竹村健一氏は『国家の品格』をあくまで「真面目に」紹介しているのである。『国家の品格』を良書と考える一般の日本人の大半は、藤原正彦氏の議論を「真面目に」うけとめているのだ。
僕が『国家の品格』に「真面目に」反論する理由はまさにここにある。一般の日本人は藤原正彦氏のエッセーを「真面目に」うけとめているのだから、それを解毒するには、僕のような「エリート」と一般人の中間にある人種が、藤原正彦氏を「真面目に」やっつけなければならないのだ。
Leiermann氏のような「エリート」に対してあえてキツいことを書くとすれば、「エリート」が藤原氏のエッセーを知的諧謔だと悦に入って「真面目に」とりあわないことは、「エリート」としての知的誠実さを欠いている。
たとえば僕の大学時代の師である高橋哲哉氏のように、飽くことなく「真面目に」靖国問題を議論しようとしている「エリート」と比較すれば、残念ながらLeiermann氏が知的誠実さを欠いていることを指摘せざるをえない。
Leiermann氏の書いているように「実際この本を錦の御旗にして、自説の補強に使っている俗物が社会の上層部に多くいるのは確か」であり、のみならず、この本を時節の補強に使っている俗物は社会の中層部にも下層部にもたくさんいるのだ。
Leiermann氏の擁護は、藤原正彦氏のエッセイストとしてのスタイルの解説にはなっても、エリートの一人として氏が知的誠実さを欠いていることの言い訳にはならない、ということだ。この意味でも、藤原正彦氏の方法論はやはり「卑怯」だと言わざるを得ない。
この記事も真面目すぎる内容で申し訳ない。

梅田望夫著『ウェブ進化論』の「アドセンス」評も完全な間違い

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』第二章で、グーグルのアドセンス事業は「全く新しい『富の分配』メカニズム」(p.77)だと書いているが、これも完全な間違いである。
梅田氏は「リアル世界における『富の分配』は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行われるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある」(p.77)と書いている。
それに対してアドセンスは、個人の小さなWebサイトにも、そのサイトに頻出するキーワードに応じた広告を自動的に表示することで、「リアル世界における『富の分配』メカニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流し大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしている」(p.77)というのだ。
どうやら梅田氏は市場経済の基本の基本さえまったく理解していないようである。梅田氏は僕らの住んでいるこの市場経済の世界では、カネは上から下へどっと流れるのだという。かくも不正確な経済観しか持ち合わせていないのなら、梅田望夫氏は決して経済について書くべきではない。自分で自分の顔に泥を塗るだけだ。
梅田氏の書いていることとはまったく逆で、僕らが生活している市場経済こそが「末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組み」そのものである。梅田氏はいったい何を勘違いしているのだろうか。おそらく梅田氏は工学部出身で、社会人になってからも経済学の教科書を一冊も読んでいないのだろう。
市場経済はそのような仕組みを、貨幣流通と価格形成の仕組みを通じて実現している。当たり前のことだが、市場経済に参加するすべての人たちは、すみずみまで一人残らず富の分配をうけている。というより、富の分配をうけることで市場経済に参加している。それも、各人の「貢献に応じて」である。
社会に出て働いていれば、僕らは所属する組織をつうじた社会への貢献に応じたお給料をもらう。子供たちは一般的には養育者から富の分配をうける。定年退職した人たちは年金をもらう。さまざまな事情で仕事につけない人には、社会福祉制度を通じて税金から富が分配される。
もちろん、子供の養育費、年金、社会保障などは、市場経済というよりは「市場経済の修正」と言った方がいいかもしれないが、いずれにせよ僕らの生きている現実のケインズ的な市場経済では、富の分配システムの一部分であることには違いない。
そして分配された富でモノを買ったりサービスをうけたりすることで、その富は今度はモノやサービスを提供する人たちや組織に分配される。富が組織に分配された場合は、その組織の中の給与規定などの分配ルールにしたがって、経営者や従業員にさらに富が分配される。
要するに「カネは天下の回りもの」という至って当たり前のことで、貨幣という形で富は人から人へと循環し、その循環過程にあるモノやサービスの価格は需要と供給のバランスで決まり、循環する貨幣の量は中央銀行が調整している、ということだ。梅田望夫氏が誤解しているように「カネは上から下へどっと流れる」わけでも何でもなく、循環しているのである。
また、梅田氏は富の分配システムを論じるこの箇所で、特異な例を引き合いに出している。
「たとえば時価総額二兆円の製造業ならば、下請け企業群、素材・部品納入企業、販売会社や保守サービス企業など、その企業を中心とした巨大な経済圏が形作られ、地域経済を潤す効果が大きい。その感覚がグーグルには全くない。その代わりに、全く新しいグーグル経済圏をネット上に形作ろうとしているのだが、製造業の経済圏に慣れ親しんだ私たちにはそれが見えない」(p.76)
何も見えていないのは梅田氏の方なのである。大手製造業の下請け企業は、たしかに顧客である大手製造業から富の分配をうけている。しかし、大手製造業を頂点とするピラミッド構造で富が分配されていくという見方は、完全な誤りだ。
なぜなら、その大手製造業は自社製品の消費者(個人または組織)から富の分配をうけるからだ。ここにあるのはピラミッドでも何でもない。さまざまな個人や組織が、おたがいに富を分配しあう網の目(ウェブ)構造である。自社の販売先が購買元でもあるというのはよくある話だ。
大企業が「中心」になって「巨大な経済圏」が作られているわけでは決してない。規模の異なるさまざまな組織と無数の個人が、あるときは組織の構成員として、あるときは一人の消費者として、刻々と変化する網の目状の取引構造を形作っているのである。こんなことは、市場経済学の常識ではないのか。
グーグルのアドセンスは「富の分配」という観点からすると、種々のインターネット広告の一つに過ぎない。他のインターネット広告代理店と差別化するために、広告を出稿するWebサイトの頻出キーワードをもとに、表示する広告を自動選択するという便利な機能をつけている。それだけのことであって、「全く新しい経済圏」を形作ろうとしているわけでも何でもない。
しかもWebサイトの頻出キーワードを自動判別すると言っても、所詮は同一ドメイン単位であり、しかも以前ここに書いたように、グーグルのロボットが文脈を含めて自然言語を理解しているわけではない。キーワードの出現頻度を統計処理しているだけのことである。
さらに言えば、アドセンスだけで自活できるようなWebサイトを運営しようと思えば、そもそもアドセンスなどに頼らずとも十分自活できるくらいの、特定分野での専門知識か、それだけのWebサイトを運営する時間的余裕を作り出すための経済的余裕(たとえば過去に投資した不動産が勝手に稼いでくれる等)が必要なことは当然である。
アドセンスはせいぜい小遣い稼ぎ程度の富の分配にしかならず、僕らが生きている市場経済の巨大な交換(取引)の網目に、部分的に編みこまれているに過ぎない。
このような僕の考えはアドセンスを過小評価しているだろうか。仮にアドセンスが本当に「全く新しい富の分配システム」なのであれば、貨幣の流通速度が飛躍的に高まり、グーグルの利用者が比較的多い先進諸国が未曾有の好景気に沸くはずではないのか。
経済の基本をまったく理解していない梅田望夫氏のアドセンス評は、完全な間違いであることがお分かりいただけたと思う。梅田氏自身、『ウェブ進化論』がベストセラーになることで、大手出版社のリアル世界への大量の広告費投入の恩恵をうけたのだから、今ならアドセンスを過大評価したことを実感をもって訂正できるに違いない。

梅田望夫著『ウェブ進化論』の偏ったグーグル擁護論

今回は、グーグルが自らの企業理念「ウェブ上の民主主義は機能している」と明らかに矛盾していることを論証してみたい。それによって、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』の偏狭さも明らかにしたい。
梅田望夫氏は『ウェブ進化論』の第二章で、グーグルがWeb2.0時代の理想的な企業であるかのように称揚しているが、その議論はやはり狭い視野と激しい思い込みにもとづいている。
たとえばグーグルのWebサイトに掲載されている同社の企業理念にあたる文章「10 things Google has found to be true」(グーグルが真実だと見出した10の事柄)の中に、「Democracy on the web works.」(ウェブ上の民主主義は機能している)という項がある。このグーグルの理念を擁護して、梅田氏は次のように書いている。
「権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、『世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか』というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイトに張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランキング・アルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して知を再編成するから『民主主義』。そしてこの『民主主義』も『インターネットの意志』の一つだと、彼らは信奉しているのだ」(p.54)
梅田望夫氏はこの理念に賛同するだけでなく、それをもっと強化しようと読者に呼びかけている。「ITの進歩によってはじめて可能となる新しい仕組みを是とし、人間の側こそそれに適応していくべき」(p.55)という視点で、グーグルという会社は「世界を作り直そうとしている」(p.55)と書いた上で、グーグル擁護論を展開する。
この部分で梅田氏は、ITが主人、人間が奴隷になるべきだと恥ずかしげもなく明言しており、梅田氏の主張はヘーゲルの弁証法以前の水準にとどまっており、あまりに素朴すぎて痛々しいほどだ。
しかしグーグルが提供しているページランキング機能やアドワーズ、アドセンスなどのサービスが、本当に「民主主義」の前提となる言論の自由を担保する仕組みになっているかどうかは、きわめて疑わしい。
たとえば昨日も書いたように、ブログ上の『ウェブ進化論』書評のほとんどは肯定的評価になっている。その肯定的評価が同書の売上増につながり、さらに肯定的な評価のブログ書評が増えるという循環がはたらいている。
それによって『ウェブ進化論』が売れ続けていることは、ほぼ事実と認めていいだろう。チープな経済誌風に表現すれば、これこそWeb2.0の新しい「口コミ」マーケティングなのだ!!となる。
この循環の過程で、グーグルのページランキングという仕組みがどんな役割を果たしているかは、少し考えればわかる。
Aさんがブログで『ウェブ進化論』は良いと書く。Bさんもたまたま同書を読んでいて、グーグルでAさんのブログを見つけると、「同じ意見の人がいた」と、喜んでトラックバックでAさんのブログから自分のブログへリンクを張る。
ブログ作成者どうしでは、トラックバックされたらお返しするのが、ネット世界ではすでに慣習になっているので、Aさんもトラックバックして、Bさんのブログから自分のブログへリンクを張る。
ここにCさんという人がいて、『ウェブ進化論』など根拠薄弱で読むに値しない本だという書評をブログに書く。Cさんの書評はAさんやBさんのような人からは無視され、リンクが張られることはない。
このようにして、開始時点で『ウェブ進化論』を擁護するブログが少しでも多ければ、トラックバックとそのお返しによる相互リンクが、擁護派の間でどんどん張られていき、グーグルのページランキングの仕組み上、それら擁護派のブログが「ウェブ進化論」というキーワードでグーグル検索したときの上位を独占することになる。これは今、事実として起こっていることなので、グーグル検索して確かめて頂きたい。
逆に『ウェブ進化論』批判派のブログは、相互リンクのネットワークから排除されたままなので、グーグルのページランキングで徐々に下位に押しらやれていく。
グーグル検索で上位のページは閲覧されやすいので、ますます閲覧されるようになり、下位のページは無視されやすいので、ますます無視されるようになる。上位ページに『ウェブ進化論』擁護派が多いという事実が、ますます擁護派を増加させ、世論を擁護派へと収斂させていく。
このようにしてグーグルのページランキングという仕組みは、最初はわずかだった擁護派、反対派の差を、相互リンクの増殖がページランキングを上げるという好循環を通じて、人々の意見を多数派の方向へとどんどん強化していく働きをするのだ。
補足しておくと、相互リンクというブログ間のリンクは、「ネットワーク効果」によってグーグルのページランキングシステムに、単に一次関数的な影響を与えるだけでなく、指数関数的な影響を与える。
たとえば5個のブログがお互いにリンクを張ると、合計10本のリンクができ上がるが、これが倍の10個のブログになると、単に2倍の20本ではなく、45本の相互リンクができ上がる。現実には全てのブログがお互いにリンクを張るなどということは起こらないが、それでも相互リンクの相乗作用で、類似した内容のブログのページランクを押し上げる効果をもつのは事実である。
仮に『ウェブ進化論』の場合のように、著者自身のブログのページランキングが始めから高い場合、『ウェブ進化論』擁護派のブログが驚くべき速度で増え、逆にこの「愛と苦悩の日記」のような『ウェブ進化論』批判派のブログがますます無視されるのは、当然といえば当然の帰結なのである。
では少数派のブログが巻き返しをはかる方法はないのかと言えば、グーグルを使って一つだけ方法がある。それはアドワーズの広告主になることだ。たとえば誰かが「銀河鉄道999」というキーワードでグーグル検索したときに、検索結果画面の右端に、自分のブログの広告が表示されるようにする。「銀河鉄道999」という検索キーワードの広告主になるのである。
誰かがそのキーワードでグーグル検索して、自分のブログの広告をクリックするたびに広告料が発生し、後からまとめてクレジットカードでグーグルに支払う仕組みになっている。
ただし市場原理にもとづいて、人気のあるキーワードには非常に高い値段がつく。したがって個人で買える検索キーワードはマイナーなものに限られるが、それでもこの「愛と苦悩の日記」は一時期「銀河鉄道999」「Notes/Domino」などのキーワードの広告主になって、限られた予算の中で少しずつ読者を増やそうと努力していた。
ところが、である。ある日グーグルから突然メールが届き、あなたのWebサイトは不適格であるとして広告の出稿を止められてしまったのだ。
グーグルはアドワーズ事業において広告主を独自の基準で選別することで、少数派の意見がネット上で認知を得る手段を奪っていると言える。これはグーグルの「Democracy on the web works.」という企業理念と完全に矛盾している。
実はグーグルのもう一つの広告サービス「アドセンス」や、ページランキング機能でも同様に、グーグルがサービスの利用者に突然、利用停止を告知したり、特定のWebサイトをページランキングから削除するなど、事実上の言論統制を行っている。また、グーグルが中国でのビジネスにおいて、特定の宗教団体のWebサイトをページランキング機能から除外しているのは周知の事実である。
佐々木俊尚氏の『グーグル―Google既存のビジネスを破壊する』(文春新書)には、このようなグーグルの負の側面も取り上げられているが、梅田望夫氏は一切ふれていない。

梅田望夫氏のグーグルのアドセンス事業についての説明や、グーグルの組織マネジメントをとりあげた部分にも、初歩的ともいえる誤りがあるのだが、それはまた次回、詳細に論じることにする。
『国家の品格』と同じように『ウェブ進化論』もほとんど「妄想」と呼びたくなるほど救いがたい独断や、致命的な矛盾が散見され、ほとんどまじめに論じるに足りない書物である。しかしそんな書物がベストセラーになっている以上、僕ら少数派はきっちりとブログで批判を展開しつづけなければならない。それこそがネット上の真の民主主義だと、僕は考える。

梅田望夫氏の「総表現社会の1000万人」のまやかし

梅田望夫著『ウェブ進化論』をグーグルで検索してみると、個人ブログの書評はほぼ全て肯定的評価になっていて非常に不気味だ。『国家の品格』でも同じことが起こっている。
梅田氏は『ウェブ進化論』第四章で、「不特定多数無限大」の人々がネット上の言論に参加することは衆愚を招くという意見に対して、「総表現社会の1000万人」という考え方で反論する。ブログでネット上の言論に参加している「総表現社会の1000万人」は、エリートと大衆の中間層にあたる。
そして、エリート/ブログ発信者/大衆という、この三層構造のウェブ世界では、もはや少数のエリートが大衆を啓蒙するという図式は成り立たないと梅田氏は断言している。ブログ発信者である新・中間層がネット上で意見を交換することで、そこに社会合意が形成されるというのだ。
ここでも梅田氏の視野は非常に狭い。ブログ発信者たちが何をもとにして自分たちの意見を形成しているのかについて、ネットの外の世界にある既存のマスメディアの存在を完全に無視しているのだ。
ブログ発信者たちがブログのネタを拾ってくるのは、ネット上よりもむしろ、そのほとんどが新聞・雑誌・テレビ・映画・書物・音楽など、既存メディアからだ。そのことはブログをいくつか見てみればすぐに分かる。梅田氏はこんな基本的な事実を完全にすっ飛ばしている。
実世界で『ウェブ進化論』という書物を読んだ「総表現社会の1000万人」の1人が、個人のブログで「『ウェブ進化論』はすごい!」とほめたたえる。しかしそういう肯定的な評価に、『ウェブ進化論』が筑摩書房という権威ある出版社から発刊されている事実や、筆者の梅田氏が東京大学大学院卒であるという事実が、影響していないと考える方が不自然である。
一般人はそのような種々の既存の権威を借りられるからこそ、安心して「『ウェブ進化論』はすごい!」と表現できるのであって、表現する場がたまたま友人たちとの雑談の場ではなく、ネット上のブログだったというだけのことだ。
ただし、悪いことにネット上のブログは物理的な距離と無関係に、相互に意見を交換・共有し合えるので、結果として一人の権威主義が時間と場所を超えて、別の人の権威主義を強化し、ネットは権威の増幅装置になる。
1人が「『ウェブ進化論』はすごい!」とブログに書くと、他のブログ発信者は「やっぱりあのベストセラーはすごいんだ」と考え、実際に『ウェブ進化論』を手に取り、「確かにみんながブログに書いているように『ウェブ進化論』はすごい!」となる。
後はこのプロセスが「総表現社会の1000万人」の間で反復されるだけだ。その結果、『ウェブ進化論』や『国家の品格』といった書物が一つのネット社会の偶像として崇め奉られる。ほとんどのブログが『ウェブ進化論』や『国家の品格』を肯定的に評価しており、この「愛と苦悩の日記」のようにこてんぱんに批判しているブログが数えるほどしかないという厳然たる事実を前にして、梅田氏はいったいどうやって反論できるのか。
梅田氏は同じ第四章で、ネット上の総表現社会では、玉石混交の意見のうちの「玉」が自動選別されるが、それはコンテンツの質をめぐる厳しい競争社会が表出するからだと書いている。しかし現実に日本のネット社会で起こっていることはまったく違っている。
現実に日本のネット社会で起こっていることは、『ウェブ進化論』や『国家の品格』などのベストセラー書評ひとつとっても分かるように、本来多種多様であるべき意見が、一つの意見に集約されていく過程である。玉石混交である以前に、すべての玉がだんだんと真っ白に変色していく過程である。
そこには甲子園に進むための地区予選のような厳しい競争社会などない。ウェブ世界の外部にある既存の権威を借りて、安心して権威と同じ意見を反復し、増幅する、いかにも日本人らしい均質的な共同体が表出しているのである。これは事実なのだから否定のしようがない。
かくも事実に反した、ほとんど妄想に近い梅田望夫氏のネット社会観が、ほとんどのブログで肯定的に評価されてしまっているという事態に対して、危機感を抱くのが当然ではないだろうか。少なくとも多種多様な意見があることは良いという立場をとる人なら、梅田氏のネット社会観が単なる妄想であることにも賛成して頂けるだろうし、そんな妄想がネット上のほとんどのブログで肯定的に評価されているのはおかしい、ということにも賛成して頂けるだろう。
そういう意味で、梅田望夫氏のような扇動者はきわめて危険である。自ら多様な意見を認める良識を標榜しながら、自らが偶像となりつつあることに何の危機感も抱けないほど無自覚・無反省だからだ。