月別アーカイブ: 2006年1月

東横インの不正改造問題

■ほとんどの支配人が女性であるということで、以前から女性労働力の活用(人間をモノ扱いしたこの表現、自分で書いていて強い違和感があるのだが)で注目されていた「東横イン」というホテルチェーンで、身体障害者のために義務付けられている施設をいったんは建設しながら、法定検査の後、撤去、ロビー拡張や客室を増やすなどの偽装工事を行っていたとして、建築基準法違反に問われているようだ。
「東横」という名前が付いているので、てっきり東急グループ企業だと僕も勘違いしていたのだが、東急グループとはまったく無関係だ。コンプライアンス意識が低く、「バレなければ多少の違法行為は許される」という「赤信号みんなでわたれば恐くない」的意識は、耐震偽装やライブドアに限らず、官製談合も含めて、日本の実業界にあっては「古き悪しき伝統」であり、今に始まった話ではない。
したがって、最近になって急激に日本に拝金主義がはびこっているかのような、「関口宏のサンデーモーニング的」論調は浅はかすぎて、議論としてはまったく生産的でなく、自体の改善にもつながらない。
結局、一企業の中でそのような違法行為が始まったときに、同じ組織の中でそれを阻止する自浄作用が働くしくみが、違法行為が起こる以前から組織に組み込まれているかどうかが本質的な問題だ。
こういった急成長ベンチャーに典型的なのが、創業者の周囲をかためる経営陣に、創業者に根本的な批判や疑義をさしはさむことのできない「イエスパーソン」ばかりが集まってしまうという弊害である。創業者が意図してイエスパーソンばかりを集めているというよりも、創業以来、創業者の理念に心酔して、結果的に会社の中枢が創業者の単なるフォロワーで固められてしまう、と言った方が正確だろう。
このようなベンチャー企業でコンプライアンスが正常に機能するには、創業者自身が自分とは異質なものを、監査役なり適切な位置に配置するだけの、冷静さや、相対主義的な考え方を身につけているかどうかにかかっている。
おそらくヒューザーの小島社長や、東横インの西田社長は、ある意味「純粋」な人たちであったために、自分自身の経営理念に一転の疑問も抱かず、がむしゃらに事業に打ち込み、自分の周囲がイエスパーソンで固められていくことに無自覚だったのだろう。企業理念というものに対して純粋でナイーブ過ぎるがゆえに、社内の部門間牽制が働かず、違法行為を発生させる温床を作り出してしまったのだ。
ライブドアの堀江元社長に彼らのようなナイーブさはなく、まったく逆で、意図的に法制度の限界に知的に挑戦するゲームを楽しんでいたのだろう。
多くの日本人はこれらの企業家と同じようにナイーブで、企業理念の実現を目指して仕事に打ち込む企業家の純粋さを、かんたんに称揚してしまう。拝金主義を批判する前に、一つの企業には創業者の情熱という「熱い」側面と、コンプライアンスのような、ある意味「しらけた視点」の「冷たい」側面の両方があって、初めて永続的な法人として成立するのだという、当たり前のことを思い出すべきだろう。
そして企業内に「熱い」側面と「冷たい」側面の拮抗状態を作り出すよう強制する制度が、日本の資本主義には未整備であることが最大の問題である。日本のマスコミも、関口宏の『サンデーモーニング』に典型的に現れているように、制度の未整備という本質的な点を議論せず、拝金主義批判や「お金より大切なものがある」などといった安易な道徳論ばかりをふりかざす。それが結果として制度の未整備を放置するという悪循環がある。
創業者の周囲にイエスパーソンばかりという企業は、財務諸表に現れない経営リスクを抱えているということが、もう少し経済界の常識になっていいと思うのだが、歴史大河ロマンの好きな日本人はなかなか考え方を変えられないのだろう。
2月からの日本経済新聞の連載は堺屋太一の『チンギスハン』だというし。また歴史物か、という感じで、うんざりだ。

gyaoでイエス2001年アムステルダム公演放送中(02/16まで)

■ネットサーフィンしていたら、どこだかのブログで今USENのブロードバンドテレビ「gyao」で2001年のyesアムステルダム公演が放送されていると知り、さっそく視聴してみた。番組は3時間近く。まだ全ては観ていないが、ヨーロピアン・フェスティバル・オーケストラという40人編成の管弦楽とのコラボレーションで、1曲目がいきなり『Close to the Edge』である。
何と表現すればいいのだろう。身体的な反応をそのまま報告するしかないのだが、鳥肌が立った。yesの「危機」を全曲通して聴くのも久しぶりだが、オーケストラとの競演でゆったりとした編曲がなされており、このライブ版ではさらに長く30分近くの壮大かつ重厚な演奏になっている。発表から30年を経てもまったく迫力とスリルを失わない曲だ。
画面に現れるスティーブ・ハウは強い老眼鏡をかけて、一人際立って老け込んでしまっているのだが、1曲ごとに使うギターを取替え、すばやい左手の運指と演奏の正確さは変わらない。ジョン・アンダーソンの甲高いボーカルも変わっていない。美しいコーラスワークもライブであることを感じさせない。
僕は正直言うと1980年代『ロンリーハート』がリアルタイムのyes体験で、弟の影響を受けて1970年代の作品群と聴き比べ、「すでにyesは終わっている」と、その後のアルバムはほとんど聴いていない。今になってyesが2001年にアルバムを出していたことを知ったのも、俗化したyesはyesではないとばかり考えていたためだ。
しかしこのライブでは2001年のアルバム『マグニフィケイション』からも何曲か演奏されているのだが、いつの間にyesは1970年代の「神学」を取り戻していたのだろうか。ライブで新曲を紹介するジョン・アンダーソンのコメントは、ナイーブなほどに「神学的」である。
2006/02/16まで放送しているので、まだ観ておられないプログレッシヴ・ロック・ファンは、今すぐにでも通信環境を光ファイバーにする工事を申請してでもこのyesのライブを視聴すべきだ。
リック・ウェイクマンとビル・ブラッフォードは観ることができないが、オリジナルメンバーでは、ジョン・アンダーソン、スティーブ・ハウの他、ベースのクリス・スクワイア、『イエスソングズ』でドラムを担当していたアラン・ホワイトも観ることができる。キーボードはトム・ブリズリンという青年が担当しているが、違和感をまったく抱かせない素晴らしい演奏をしている。スティーブ・ハウは中ほどでクラシック・ギター(ガットギター)の演奏も聴かせてくれる。

スピヴァク『グラマトロジーについて』英語版序文

■先週、近所の図書館でふと『デリダ論』というタイトルが目に止まってしまったので、文庫サイズということもあり、ガヤトリ・C.スピヴァク著『デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文』(平凡社ライブラリー)を借りて読み始めている。この本は2005年に出版されたものだが、原著のスピヴァクによる英語版序文は1976年に出版されている。30年の年月を経て今ごろスピヴァクの序文の翻訳が出版されたのは、「追悼デリダ」ということらしい。
(ご存じない方のために付け加えておくと、デリダというのはフランスの現代哲学者の名前で、日本の哲学研究家の間では1980年代にかなり「流行」した。2004年に死んでいる。どういう思想を考え出した哲学者かと言うと...とっても説明しにくい。というより、僕はいまだにデリダの思想を正しく理解している自信が持てない)
ところで、いつになったら僕はデリダをあきらめられるのだろうか。僕がデリダをあきらめられない理由は、僕が「いつかはきっとデリダを正しく理解できる」と考えていることにある。
今よりもフランス語やドイツ語が読めた学生時代、デリダの思想に強くひかれ、『エクリチュールと差異』のゼミに出席したり、高橋哲哉の講義に出席したりしながらも、結局のところデリダを「正しく理解」することができないまま終わった。卒論にデリダを引用しているにもかかわらず、である。
社会人になってからも、数年に一度は思い出したようにデリダ関連書を読んだり、『序文』にも書かれているように、デリダが差延というキーワードの着想をそこから得ているフッサールやフロイトといった思想家の本を読んだり、このまま死ぬまで「デリダを正しく理解する」という欲望から逃れられないのではないか。
しかし、いつまでたっても正しく理解できないというのが、正しいデリダ理解なのではないか。今日、ふとそんなことを考えた。