月別アーカイブ: 2005年9月

靖国参拝と一太郎

■今日はうれしい司法判断が2つあった。一つは松下電器がジャストシステムを訴えていた、例のアイコン特許侵害裁判で、ジャストシステム逆転勝訴とのこと。判決を下した知財高裁というのは、知財立国を目指して今年の4月に東京高裁に設立されたばかりの司法機関ようだが、良識を感じさせる判決だ。
そしてもう一つは小泉首相の靖国参拝に対する、高裁初の違憲判決。賠償請求は棄却されているが、憲法判断に初めてはっきり踏み込んだ点が画期的な判決だ。この判決にもかかわらず、小泉首相があえて憲法違反の行為をつづけるかどうか、かなり面白い見ものだ。(この記事に対して、トラックバックのスパムをやりたくて仕方がない読者がいることはわかっている)

沼津旅行

■旅は日常というものを忘れるために出かけるものだ。だからふつうは日常生活とまったく違う場所、外国のリゾート地のようなところが理想的な旅先なのかもしれない。ただ、あまりに日常と違う場所では、かえってその場所が旅先であることが際立ち、自分が日常から逃げてきていることを思い出させ、日常が旅先まで追いかけてくるような気がする。
僕が好きな旅先は、日常生活とほとんど変わりない場所だ。先日、近場で安価に日常を忘れるために熱海に出かけたのだが、熱海駅から歩いて10分ほどの繁華街にあるイーオンで翌朝食べるためのパンを買った。翌朝は海岸沿いにある温水プール施設で、地元の人たちにまじって800mほど流して泳いだ。それでも熱海は熱海で、町中を歩いていると「荒廃したリゾート地」の雰囲気がまとわりついて離れない。
仕方なく東海道本線で20分ほどの沼津駅で降りて、駅前の繁華街を歩く。ちょうど昼休み時で、近くのオフィス街からサラリーマンやOLが飲食店に入っていく。翌朝目が覚めれば、何のことはない、僕は昔から沼津に暮らしていて、今日も沼津駅南口から歩いてしばらくのオフィス街の見慣れたオフィスビルに入り、エレベータに乗って、見慣れたオフィスに入り、どこにでもある事務机にすわり、昨日の続きの仕事を始め、いつものように淡々と仕事をして、ときには遅くまでの残業もし、また寝床へ帰っていく。そうやって昔から沼津という街で暮らしていたことに、何の疑問も抱かず、明日から暮らし始めるだろう。
そうして本当の意味で、日常というものはゆっくりと遠ざかっていく。
沼津という街には、まるで本当にそうでありえたかのような、もう一人の自分が生きている。今日だけではなく、明日も、明後日も。そういう自分が、日本中の似たような小都市に、何人も、そうでありえた自分として生きている。
そのうちのいったいどれが僕にとっての日常と呼べるだろうか。その一つひとつ、すべてが日常であるとすれば、日常と旅との区別はなくなり、すべてが旅であると同時に日常にもなり、すべてが旅でもなく日常でもない。それこそ本当に旅と言えるものであって、明日、目を覚ました僕は、きっとどこかの旅先のホテルで目を覚ましているに違いない。

「荒らし」がいるのでトラックバックOFFにしました

■申し訳ありませんが、この「愛と苦悩の日記」には常連の「荒らし」がいるようなので、トラックバックは禁止させて頂きました。アダルトサイトから勝手にトラックバックしてくる人物なのですが、毎日チェックしてトラックバックを削除するほどの時間的余裕がありません。ふつうにトラックバックして下さる方々には申し訳ないのですが、どうかご了承ください。
「荒らし」が出現するのも、この「愛と苦悩の日記」が、ごく少数の賢明な読者の方々には、確実に支持されていることの証拠だと考えております。「荒らし」が出現しないような、当たりさわりのない記事ばかりでは「愛と苦悩の日記」の存在意義がありませんから。

個人情報の「横並び」過保護

■今朝の日本経済新聞『経済教室』欄は、「個人情報保護に行き過ぎ」というテーマだった。筆者である青柳教授の主張は、保護すべき個人情報は飽くまでプライバシーにかかわる範囲に限定すべき、というものだ。例示として、先日のJR福知山線脱線事後で負傷者の搬送先の病院が、個人情報保護法を理由に、搬送された負傷者の氏名開示を拒否したことがあげられている。
この病院の対応は明らかに行き過ぎで、個人情報保護法上も第二十三条第2項に次のようにはっきりと書かれている。「人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき」。
筆者の青柳教授が問題にしているのは、このような日本社会の過剰反応である。僕もまったくその通りだと考える。病院だけでなく民間企業も、この法律に明らかに過剰な反応をしている。
個人情報の漏えいがあった場合、あたかも企業がすべての責任をとらなければならないかのように、この法律を解釈し、必要以上のセキュリティ対策を実施して従業員をがんじがらめにしている企業・組織は少なくないだろう。まるで、しっかり戸締りをしていても、泥棒に入られれれば入られた家の責任だ、と言わんばかりの、個人情報の過保護が広がりつつある。実際には泥棒こそが窃盗罪で起訴されるべきなのだ。
今年2005年4月に施行されたばかりの法律なので、当面は「過保護」が同業他社に対する差別化要素になるだろうが、いかにも日本人らしい「横並び意識」による過剰投資合戦にならないか、不安である。
と、言いながら、僕も一組織人としては、同業他社が「過保護」施策に出てきた場合には、対抗して「過保護」施策を取らざるを得ない立場にあるわけだが。

「ストック型」英語学習へ

■NOVAの「話す・聞く」中心の英会話という考え方には、僕はまったく反対だ。NOVAの電車の中吊り広告でも、文法中心の学習ではダメで、体力トレーニングのようにたくさん外国人と話さなければ英語は身につかないと繰り返されている。
なぜこれほどまでにNOVAが「話す・聞く」中心の英会話こそ正しいと主張しつづけるのか。理由は単純で、そうしなければ彼らのビジネスが成り立たないからだ。NOVAが主張しているのは、いわば「フロー型」の英語学習である。つねにネイティブの外国人と会話していないと、英語など身につかない、だからNOVAにまめに通いましょう、ということだ。
僕が主張しているのは反対に「ストック型」の英語学習だ。中学生レベルの英文法と、英検2級レベルの英単語さえしっかり暗記しておけば、長い間英会話から離れていても、いざとなればちゃんと意思疎通できる英語を自分の頭の中から繰り出すことができる。
「ストック型」の英語学習は、NOVAの主張する「フロー型」の英語学習のように足しげく英会話教室に通う必要はない。英語圏に留学もせず、日本に居ながらにして「フロー型」の英語学習をするというのは、そもそも費用対効果がきわめて低い。皆が皆、英語学習に多くの時間と費用をかけられるわけではない。だからこそ「ストック型」英語学習に存在理由がある。とくに会社員のように時間的余裕のない人たちが効果的に英語を学習したいと思えば、「フロー型」と「ストック型」のどちらを選択すべきかは、少し考えれば明らかである。