月別アーカイブ: 2005年5月

戦闘的少子化対策論の誤り

■どうやら今日で日本経済新聞朝刊一面の『少子化に挑む』という連載コラムが終わったようだが、少子化問題に対して「挑む」とか「闘う」などという勇ましい筆致であることに僕は強い違和感を抱く。
少子化問題については別に誰かが何かの規制や障害に対して挑んだり闘ったりしているわけではなく、不妊治療の保険適用を求めている人たちなど少数の例外を除けば、単に消極的な理由で子供をなんとなくもたない、なんとなく結婚しないほうが楽だという人たちの行動が、原因の大部分を占めているのだ。
問題の取り上げ方からしてすでに日本経済新聞は間違っているのであって、政府や官僚も同じ間違いをしているから少子化問題は一向に解決しないのだ。自らのアプローチの間違いに気づかない限り、日本経済新聞のコラムがいくら吼えたって本質的な問題提起にさえならない。そのことに気づけないのは、やはり日本経済新聞という会社や記者の皆さん自身が、少子化問題を他人事としてしか論じられていない何よりの証拠だ。

國分康孝『カウンセリングの理論』

■別にキャリアカウンセリング関連の資格を取ろうと思っているわけではないのだが、渡辺三枝子、エドウィン・L・ハー著『キャリアカウンセリング入門―人と仕事の橋渡し』(ナカニシヤ出版)という本を読んで、カウンセリングの基礎理論に関する記述が消化不良だったので、近所の図書館でたまたま見つけた手ごろな分量の國分康孝著『カウンセリングの理論』(誠信書房)を読んだ。これが意外に面白かった。
精神分析を基礎として自らのカウンセリング技法を実践の中で鍛え上げてきた著者が、主要なカウンセリング理論を次から次へばっさばっさと快刀乱麻を断つごとく長所と短所を解説していくスタイルで、単なる読み物としても面白い。もちろん僕が実存主義や現象学、精神分析などの西洋思想史をかじっているからこれだけ面白く読めたのかもしれないが、カウンセリング理論の入門書としては痛快無比だ。著者の國分康孝氏の徹底した来訪者中心主義(client-centered approach)と、そこから来る徹底した折衷主義があまりに痛快なので、続いて同氏の著作『カウンセリングの技法』(誠信書房)も読み始めた。
キャリアカウンセリングの基礎理論の勉強のつもりがどんどん横道にそれて、このままだと交流分析、特性因子論、実存主義的アプローチ、ロジャーズ、行動主義などの各論にまで踏み込んでしまいそうな勢いだ。
しかし國分氏いによればカウンセラー自身に求められる第一の資質は自分自身に肯定的な評価ができる人物であること。自分で自分を嫌っていては来訪者を肯定的に受容できない。ちょっと僕にはカウンセラーはつとまらないが、転職経験豊富なのでキャリア開発の支援なら出来そうか。

財津和夫の人生ゲーム21

■『林原めぐみのTokyo Boogie Night』、『小森まなみのエールを君に』、『普天間かおりのヘルシー&ダイエット』に続いて、最近また一つ「知る人ぞ知る」タイプのラジオ番組を見つけて聴くようになってしまった。ちなみに最近はネット上にWikipediaという、一般人がよってたかって作る百科事典のようなものが出来ていて、上述の2番組もここで詳細を調べることができる。う~ん、しかし小森まなみが1959年生まれだったとは…。
話を戻して、新たに見つけた番組とは『財津和夫の人生ゲーム21』(キー局:東海ラジオ、提供:トヨタ自動車)だ。過去の青春を懐かしむだけでなく、第二の青春を見つけようという財津和夫の年齢にふさわしいテーマの30分番組で、リクエスト曲ばかりかかる合間に、財津和夫のとつとつとしたしゃべりがなんとかすべりこんでいるという感じだ。もとは60分番組がネット曲の拡大と同時に30分に短縮されたというが、確かにあのしゃべりで60分は少々きつい。
一度リスナーからaikoの『カブトムシ』がリクエストされたときも、財津氏は彼女のことを全く知らなかったらしく、曲がかかった後に、「いいんじゃないですか。ちょっと転調っぽいところもあったりして。でも曲はまあまあ。詞も、まあいいですね。いちばんいいのは彼女の声。声が好きになりました」と大御所らしい辛口コメント。
別の回でリクエスト曲にGacktがかかった後は予想どおりコメントなしだった。リクエストメッセージの中に「ぜひGacktさんをゲストに呼んでください」と書かれてあったのに対しては、「Gacktさんのような方が、こんな『第二の青春を見つけましょう』なんて番組に出ていただける訳がないじゃないですか。もっとチャラチャラした番組に出るのがいいんじゃないんですか」と、朴訥な語り口ながらも、やはり大御所らしく超辛口コメント。
東海ラジオの同番組のページを見ると、普天間かおりがゲストとして出演したことがあるらしい。これこそマイナーラジオ番組つながり。

女性ヘルパーの4割がセクハラ経験

山形新聞の2005/05/20付け記事によると、山形県天童市内で県内187事業所を通じて1179人の女性ヘルパーを対象としたアンケート調査で、その4割が利用者や利用者の家族からセクハラを受けた経験があり、勤務する事業所に報告しても、まともに取り合ってもらえず泣き寝入りになるケースが多いという。
介護保険制度で介護が有料化されたことから、逆に「何をやってもいい」という意識が利用者に生まれているのではないかという分析もあるようだ。当然、被害者となったヘルパーはセクハラを受けた利用者の家庭を訪問することに嫌悪や恐怖を抱くようになる。
様々な制度上の欠陥が指摘されている介護保険制度だが、こういったセクハラのようなミクロレベルからの「自滅」が起こるのは、ウェットな日本社会ならではだ。介護保険制度は今まで身内が行っていた介護を「社会化」する制度なわけだが、社会化しても介護行為自体のもつウェットな「甘え」の側面は残り、ヘルパーとの間でそれが再現されてしまう。
いくら介護事業所でセクハラ防止の取り組みをしても、利用者側の意識を改善する対策でなければ効果はない。「成人どうしの身体的接触が必要な私的領域」の社会化としては、介護は近代社会が性的行為の社会化の次に経験する二度目の社会化ではないか。
だとすれば、性的行為が社会化された結果、良くも悪くもこれだけの産業に育ってしまっている現実を考えると、女性ヘルパーをセクハラの被害から守るには、残念ながら、本当に残念ながら、介護サービス利用者に対して既存の性的サービス(デリヘル等)を代替案として勧めるしか現実的な解決策はなさそうだ。
「介護利用者の男性に性欲がない」などというのは単なる幻想である。そのことを介護事業者は認識せざるをえないのかもしれない。さもないと介護の社会化という大きな社会的事業そのものが破綻してしまう。本当に残念なことではあるが、避けて通れない問題のようである。

舞城王太郎『阿修羅ガール』

■三島由紀夫賞を受賞した舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫)を読んだ。高橋源一郎センセイ絶賛の現代小説家だが、確かに現実と幻想の間を自由に往還するスピード感のある文体と、乾いた暴力描写はクセになりそうだ。
この文庫版に初収録された短編『川を泳いで渡る蛇』は、意外と言ってはなんだが、『阿修羅ガール』と同じ京王線沿線の調布を舞台にしながら、主人公の何と言うことのない日常生活の中の哲学的考察が展開される、まるで芥川賞作家が書いたみたいな私小説的佳作だ。メフィスト賞作家ならではのB級ハチャメチャ展開小説を期待している初期からのファンは、こんな短編を読まされると「難しくてダメ」となってしまうのではないかと危惧するのは余計なお世話だろう。ただ、「グルグル魔人」についての最後の謎解きと愛子の倫理的考察は、作品として完結させようという「とってつけた」感が強い。
そう、『阿修羅ガール』だけなのかもしれないが、これだけ乾いた暴力描写がありながら、主人公はとてもまっとうな倫理観をもっている設定になっているのだ。もしかするとこの倫理性こそ舞城作品の芯となっている魅力なのかもしれない。とにかく舞城作品はもう一冊は読んでみようと思う。