月別アーカイブ: 2005年4月

「集団圧力」と「同調行動」

■「うちの会社の常識は、世間の非常識」と自嘲的に語るサラリーマンは多い。今朝の日経新聞三面の「働くということ2005」というコラムは、「集団心理の落とし穴」と題して、次々と発覚する企業不祥事の背景に、米国の心理学者ソロモン・アッシュが実証した「集団圧力」と「同調行動」を見ている。
このコラムによれば同教授は「一人でも違う意見を述べれば同調の圧力は一気に弱まる」と言っているらしく、だからこそ「新鮮な視点を持つ外部からの人材導入はその有力な手段となりうる」とこのコラムは書いている。2004年は全産業で中途採用を実施した企業が50%を超え、10年前に比べて「16~18ポイント高まって」いるらしい。しかし、である。その「新鮮な視点」を活かすも殺すも受け入れ側の組織しだい。歴史の長い組織ほど「新鮮な視点」を、何の悪意もなく無意識のうちに圧殺する性格を抜きがたく有している。

ベテラン社員の文書化・標準化軽視

■科学的プロジェクト管理が日本企業の情報システム開発になかなか根付かないのは、ベテラン社員が標準的なプロジェクト管理業務に慣れすぎてしまい、そこからはみ出した事態に対処することにしか仕事としてのやりがいがを見出せなくなっているからではないか。
日本企業の中間管理職は仕事を複雑化し、自分にしかできない仕事に変えていくことで自己保身している。そのためプロジェクト管理においても、日程遅れや要件定義の甘さなどといった問題が、まるでこれから必ず起こるかのように想定し、当たり前の管理手順をちゃんと踏むことを後回しにして、起こるかもしれない問題に対処することを優先してしまう誤りを犯している。
ベテラン社員たちは標準的な手順をきちっと踏むことをバカにし、必ずしも起こるとは限らない問題に先回りして対処することこそが、まるで中間管理職としての存在意義であり、経験の活かしどころだと勘違いしているのだ。社内の規程類を整備する当事者である中間管理職の彼らが、規程類を軽視することに自らの存在意義を見出しているような状況では、科学的プロジェクト管理手法のような体系的な方法論が根付かないのはむしろ当然である。
ベテラン社員は若手社員のマニュアル至上主義を批判する前に、まずマニュアルこそ最低限の業務品質と業務効率を保つ唯一の手段であることを思い出すべきだ。業務を文書化・標準化すること自体が悪なのではない。業務を文書化・標準化することで初めて、業務のうち文書化・標準化できない部分が明らかになる。逆に言えば、業務のうち標準的な部分が、文書化されてきっちり伝承されないような職場で、それよりもさらに高度な業務、つまり、文書化・標準化することが難しい業務がきっちり伝承されるわけがない。
ベテラン社員は即興演奏的な仕事のスタイルこそが、ベテランたるゆえんであるという勘違いをしているために、若手社員への正確な業務ノウハウの伝承に失敗している。

楽器店のバッハ少年

■先週の週末、暇つぶしに近所の楽器店に入ると、バッハのオルガン曲の旋律が聞こえてきたので、その上手さに思わず音のする方を振り返った。電子ピアノの音色をパイプオルガンに変えて、その短調の旋律を弾いていたのは10歳くらいの少年だった。バッハのオルガン曲といっても誰もが知っている『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』の例の冒頭のフレーズだけではなく、僕が持っている『トッカータとフーガ ジルバーマンの傑作オルガンによるバッハ・コンサート』というCD-ROMに収録されている、それほど有名ではない曲のフレーズも弾いていた。たしかに内向的な感じはあるが、まだ幼い顔立ちと、バッハの重厚な短調の旋律があまりに対照的で驚いた。
しかし今日、それがそのときだけの出来事ではなかったことを知った。
暇つぶしに同じ楽器店に立ち寄ると、同じ少年が今度は携帯型の安いキーボードでバッハの旋律に没頭していたのだ。色あせた暗い灰色の綿パンに、くすんだ紫色のポロシャツを無造作に突っ込んでいる。店にいる人たちに聞かせるというよりも、自分の指先が生み出す音に必死で耳を傾けている様子で、少し近寄りがたい雰囲気さえただよわせていた。店での演奏にのめりこんでいることからして、自宅には楽器がないのだろう。数万円のキーボードさえ買う余裕のない家庭の少年が、どうやってバッハのさほど有名でない旋律を知り、弾けるようになったのか。小学校の音楽の授業で聞き知って、音楽室のピアノで練習したのだろうか。僕自身、もし鍵盤楽器が弾けたらバッハの幾何学的に美しい旋律を弾くことに没頭するに違いない。自分の音の世界に閉じこもっている少年の横顔に、少しシンパシーを感じた。

「日勤教育」という名の組織保身

■失敗原因には階層性があり、会社組織の失敗は往々にして現場担当者一人の責任にされがちだが、その背後には組織運営上の原因が潜んでいることが多い。企業が事故や不祥事を起こしたとき、当該企業や管轄する役所が原因究明のための特別チームを作ることはよくあるが、世間に与える影響を考慮して、当たり障りのない結論を出してお茶を濁すこともある。
以上はちょうど昨日から読み始めた東京大学名誉教授・畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』(講談社文庫)から自由に引用したものだ。
先日の大阪での脱線事故について、その後の報道でこの鉄道会社では、駅からの発車時間が数十秒遅れたり、ホームをオーバーランした場合、その運転手に「日勤教育」という、業務に直接関係のないレポートを何十枚も書かされたり、複数名の上司から集団で詰問されるなどの、精神的懲罰を与える制度があったという。この鉄道会社の時代錯誤ぶりにはあいた口がふさがらない。
「日勤教育」では再度ミスを犯した場合、運転手を辞める誓約書を書かされることもあったというから、運転手に与える精神的圧力は強力で、昨日の『報道ステーション』は「日勤教育」が直接の原因となった自殺者のケースも紹介されていた。
今回の事故の運転手も一度オーバーランを起こして二週間弱の「日勤教育」を受けており、事故直前に二度目のオーバーランを起こして1分半の遅れまで生じてしまっている。まだ二十代前半という若さで、遅れを取り戻そうという精神的重圧と、二度とハンドルを握れないかもしれないという将来に対する悲観が入り混じって、パニック状態になっていたことは容易に想像できる。
さきほどの引用にもあるように、事故を現場担当者個人の責任に帰したのでは、まったく問題解決にはならない。また、国土交通省の鉄道事故調査委員会は「原因特定には時間がかかる」と、早くもお茶を濁しにかかっている。事故直後に鉄道会社幹部が「置き石」説を強調したのも、運転手をかばうというよりは、自分たちも含めた経営層の保身のためである。
このままいけば個人に責任をなすりつけ、まったく実質的な効果のない「日勤教育」という時代錯誤の懲罰制度は見直されないまま、事故原因はこの鉄道会社と国土交通省の最強タッグでうやむやにされてしまうことだろう。
ところで僕が通勤に使っている私鉄は、『失敗学のすすめ』でも取り上げられている数年前の脱線事故を起こした地下鉄と相互乗り入れしているが、ほぼ3日に1日は夜のラッシュ時間帯に3~5分の運行遅れを起こす。乗客の安全を最優先にして、定時運行の効率性を犠牲にするこの私鉄の運行方針はきわめて正しい(それでも最近、人手による無理な踏切の運用が原因で死亡事故を起こしてしまっているが)。
今回脱線事故を起こした鉄道会社は逆に、乗客の安全と現場運転手を犠牲にして、企業としての効率性と経営層の自己正当化を最優先にしている。おそらく同社の体質はそうかんたんには変わらないだろう。

組織の統治における力の拮抗

■今朝の日本経済新聞「春秋」には先日のJR脱線事故について、JR西日本にはいまだに「国鉄一家」としての閉鎖性が残っているのではないかと書かれていた。事故原因として当初置石の可能性を強調し、身内である運転手をかばおうとしたためだ。
ただし日本で身内をかばう発想が弱い企業がどれだけあるか。中途採用者を次々受け入れて組織が拡大途上の企業でもない限り、社員の大部分が新卒採用の生え抜きといった日本企業なら、身内をかばう発想はむしろ避けられない。身内をかばう内向きの考え方があること自体が問題なのではなく、それに対抗して組織としてバランスをとる反対向きの力、客観的に自分の組織をチェックする力が存在しないことが問題なのだ。
客観的に自分たちの組織をチェックする「他者の視点」は、言うまでもなく意識して導入しようとしなければ導入できない。会社全体のガバナンスのレベルでいえばそれは今東京証券取引所が上場企業に対して義務付けようとしている社外取締役制度だったりするのだろう。
ITを仕事としている僕がITガバナンスのレベルで考えれば、「他者の視点」というのは利害関係のない第三者によるアセスメントやシステム監査であったり、特定のベンダーとべったりの関係になることを防ぐための、公正な調達プロセスであったりする。社内ITが「他者の視点」を欠くと、技術的なロックイン状態が起こって、技術の盛衰のリスクに対して脆弱な情報システムができたり、社員のモチベーションの維持に失敗したり、情報システムの品質を維持できずに「安物買いの銭失い」状態になったりといった弊害が生じる。大切なのは反対向きの二つの力が拮抗していることであって、身内の理論の存在そのものが悪なのではない。