月別アーカイブ: 2005年3月

かなり人に厳しそうな万博

■愛知万博開催前の特集番組で会場の様子を観たのだが、梅雨や夏の炎天下、雨よけも日よけもない「グローバルループ」というあのペデストリアンデッキを延々と歩かされて、濡れねずみになったり熱射病で倒れたりする人が出てこないのだろうか。各パビリオン前で入場者が1時間以上待ちの長い行列を作るところにも屋根がないようだし。ペットボトル、缶ジュース類の持込は禁止だというし、環境に優しい代わりに人間に厳しい万博ってことなんだろう、きっと。

企業文化を融合する努力の悲劇

■某輸送機器メーカーの外国人社長が昨日また公の場で謝罪をしていた。社長就任以来、謝罪しどおしで気の毒な限りだ。今回、車両の欠陥についての報告が半年も遅れたのは、いかにも歴史ある財閥系日本企業らしい完璧主義と、歴史ある欧州企業らしい形式的合理主義の相乗効果だ。
財閥系日本企業の組織は、内部的な報告でも拙速は許されない。上への報告はスピードより中身の完成度、どれだけ上に配慮した中身になっているが重視される。その一方で、資料の形式的な美しさは重視されない。しかしダイムラーのような欧州企業では、ビジュアル面の訴求力も重視される。
その結果、このメーカーの社員は、上への配慮に満ちた中身の完成度と、外見的な完成度の両方を求められ、なおかつ現場の社員は極めて生真面目な人たちばかりなので、上からの要求に精一杯答えようとする。そうして、対外的な報告に気が回らないまま、半年間も遅れたのは当然といえば当然である。この報告プロセスには一点の悪意もない。おそらくこのメーカーは日本的完璧主義と欧州的完璧主義を融合させようと必死になっているに違いないが、そんなことをやっている限り、今回のように対外的な視点がおろそかになることは避けられない。
日本人社員は日本的完璧主義を捨てて、欧州的に「手を抜く」ことをおぼえ、「仕事をしないことが仕事である」という考え方を実行に移さなければならない。そうやって仕事のスタイルを大株主である欧州企業側に寄せていかなければ、同じような問題はこれからも繰り返されるだろう。

浮遊からの浮遊、「自分とは何か」とは何か

■先日書いたが、『情熱大陸』というテレビ番組に出演していた第132回直木賞作家の角田光代の、まるで会社員のように規則正しい執筆活動と、作家にありがちな自意識過剰さや気取りのなさに、いったいこの人はどんなものを書くのだろうかと気になったので、デビュー作『幸福な遊戯』(角川文庫)『夜かかる虹』(講談社文庫)とたてつづけに読んでみた。
批評家の斉藤美奈子は彼女の作品を「心理的な『住所不定無職』の状態」と評しているが、その根無し草ぶりが単に「わたしはだれ?」というX世代にありがちな「自分さがし」、自分とはだれかに関する認識論的なレベルを突き抜けて、わたしは良く似ているほかのだれかでもありうるし、そもそもこの世にたしかに存在しているかどうかさえ疑わしいというレベルにまで達している。その底なしの浮遊感が絶望をただよわせないのは、彼女の想像力がつむぎだす登場人物が、そういう「底なしの浮遊感」からも浮遊しているためだ。
阿部和重の芥川賞と同時の直木賞受賞だが、たとえば『夜かかる虹』で描かれるような自我の輪郭の危うさや、『無愁天使』の買い物依存症の主人公の内面描写と独白の迫真性は、読者をかなり疲れさせる深さと暗さをもっている。僕にとってはクセになるタイプの作品で、すでに文庫本で三冊目にとりかかろうとしているところだ。