月別アーカイブ: 2005年1月

少子化問題記事がむなしく響くわけ

■日本経済新聞で少子化問題の記事を読むたびに、記事を書いている記者や大学教授たちに当事者意識がほとんど読み取れないことを歯がゆく思う。働く女性が妊娠したとき、日本企業の大多数を占める中小企業ではあからさまな「退職のすすめ」が行われている。中小企業が短期・中期的な人件費を抑えるために、女性社員に育児休暇をとらせまいと、結婚した女性社員や、妊娠した女性社員、結婚後も長く勤めている女性社員に退職の圧力をかけるということが横行しているのは、日本の会社員なら誰でも知っている事実だ。
ならば少子化問題を報道するメディアはまず、自分たちの職場の状況について考えるべきではないか。自分たちの職場で深夜残業が当たり前になっていて、女性社員はとても妊娠や育児どころではないという状況であれば、しかつめらしく少子化問題を論じるまでもなく、少子化は当たり前の帰結なのだ。
何も難しい問題ではない。自分たちの会社で育児休暇の取得率が増えなければ、世の中小企業でも取得率は増えないだろう。働く女性にとって子供を持ちやすい企業は、その企業独自の努力によるものだが、逆に、働く女性にとって子供が持ちにくい企業は、すべての企業に共通な理由によるものだ。
個々の企業に改善を呼びかけるような少子化問題の記事は、まったくの的外れだ。少子化問題とは、その99%が男性である企業経営者の考え方の問題、社会慣習の問題、文化的な問題なのである。少子化問題の改善を呼びかける新聞記事やコラム、社説が虚しく響くのは、その記事を書いている人々自身が「こんなこと書いてもムダだろうねぇ」と、すでにあきらめているからだ。そのあきらめは、記事が客観的で、社会全体に呼びかけるものであればあるほど、行間からにじみ出る。
ひとつ提案なのだが、マスコミが少子化問題をとりあげるときは、必ず自分の会社だけを標的にするということにしてみたらどうだろうか。大学教授が少子化問題に関する論説を新聞に載せるときも、自分の所属する大学しか批判の標的にしてはいけないということにしたらどうか。そうすれば少子化問題については非常に絶望的な記事しか書けなくなるだろう。それでこそ少子化問題の真実に迫っているのだ。

相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』

■昨日書いたような訳で『セーラー服と機関銃』に引き続いて、相米慎二監督『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)を近所のTSUTAYAで借りてきて観た。改めて相米監督が可能な限りワンシーン・ワンカットで撮りたいということが分かる。前半のジャズクラブで三浦友和と中井貴一が話し合うシーンはワンカット5分もある。故郷の川越を訪れる牧瀬里穂が幼なじみと橋の上で久しぶりに出会うシーンも、クレーンを使いながらのワンシーンワンカット。本作でデビューの牧瀬里穂にほとんど元気な芝居しかさせない潔さがかえって彼女の魅力を引き出している。
今観るとチープな特撮はご愛嬌として、主題歌の井上陽水作曲『帰れない二人』もあいまって相米監督の隠れた名作ファンタジーだ。予想に違わず「相米マジック」にかかってしまい、今はピーターと仲良しのおばさんになってしまった牧瀬里穂のデビュー当時に完全に魅了された。この脚本の設定はよく考えると本質的に「白血病もの」に通じるね。

二日連続、薬師丸ひろ子

■今日何となくBSデジタルをザッピングしていたら森村誠一原作シリーズの角川映画『野性の証明』(1978年)が放送されていた。二日連続で薬師丸ひろ子とは。小学生のとき薬師丸ひろ子の連絡先を探そうと、全国の電話帳が置いてある電話局に出かけて薬師丸姓を必死で探したことを思い出す。『野性の証明』はリアルタイムでは見ておらず、『セーラー服と機関銃』で熱烈なファンになった後に観ただけだが、佐藤純彌監督の演出のせいか時代のせいか、サスペンスドラマのように安っぽい映画だ。薬師丸ひろ子がカワイイことだけは間違いないのだが。

相米慎二『セーラー服と機関銃』

■夜中にBSデジタルで相米慎二監督『セーラー服と機関銃』(1981年)をついつい終わりまで観てしまった。「はじめての口づけを、中年のオジンにあげてしまいました。ワタクシ、愚かな女になりそうです、マル」。小学5年生のときリアルタイムで観て、学生時代に観て、これで3回目だ。
映画そのものの素晴らしさは言うまでもないのでここでは触れないとして、今観ると11歳の頃の僕がこの映画を観て頭がおかしくなるくらい薬師丸ひろ子のファンになった理由がまったく分からない。学生時代にリアルタイムで観た同じ相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)のときも、危うく牧瀬里穂のファンになりかけたものだ。相米マジックか?相米監督は2001年に故人となっているが、貴重な人材を失くしたものだ。

政治的圧力に敏感な組織

■NHKの会長が辞任した直後「後進の育成」という理由で顧問に就任したが、抗議の電話が殺到して新会長があわてて本人の希望という形で取り消したという騒動。番組改変問題とは直接関係ないが、顧問就任取り消し会見で記者が質問していたように、元会長の顧問就任に抗議が殺到することなど誰でも予想できることだ。それさえ予想しなかった、あるいは予想しても押し通そうとしたのだとすれば、やはりNHKの経営陣は視聴者よりも、自分たちの上の権力者を重んじていると非難されても仕方ないだろう。
もちろん権力者寄りの放送局があっても構わないのだが、公共放送局がここまであからさまに権力者寄りであることは許されない。本来ならNHKは事業収入の9割以上を占める受信料を受け取っている事実を逆手にとって、視聴者を味方にして権力者に対抗する戦術をとりやすいはずだ。「あんたが圧力をかけると受信料の支払い拒否がもっと増えますよ、それでいいんですか」という具合に。これこそ経営陣が様々な圧力に対する自律性を確保するためのもっとも経済合理性のある戦術だろう。
なのに、実際支払い拒否が広がっているにもかかわらず、元会長を顧問に就任させるなどということをやってしまうのは、経済合理性以外の理由で意思決定が行われていると判断せざるをえない。それが何かと言ったら政治的圧力しかないだろう。NHKという組織は、会長を辞して部外者になった人物でも政治的圧力をかけられるような、政治的圧力に対する感受性の高い組織であると考えるしかないだろう。視聴者からの意見に対する感受性は極端に低いけれども。