月別アーカイブ: 2004年11月

矢口史靖『ひみつの花園』

■これで矢口史靖監督・脚本作品をすべて観たことになる。一昨日の日記にも書いたように最寄のTSUTAYAにはなかったので、会社からウチに帰る途中の駅にあるTSUTAYAをさがして、見つけた『ひみつの花園』(1997年)を借りた。
強烈なお金大好きキャラを演じる主演の西田尚美は、最近フジテレビのドラマ『白い巨塔』で法廷で真実を証言する看護婦役で見たばかりだ。本作で日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞している。最終的にこの主人公の女と同棲する大学の助手役の利重剛は脚本家・小山内美江子の長男で、故・鷺沢萠と結婚していたこともあるらしい。
矢口作品では常連の「引越しのサカイ」のおじさん徳井優と田中要次(『スウィングガールズ』でパチンコ屋の店主)、おそろしく太っていた頃の伊集院光、ちょい役で濱田マリ、という具合に、決してマイナーな俳優ばかりが出演している映画ではないということが分かるのだが、DVDがなくてVHSビデオで観たこの作品は、つい7年前の映画とは思えないほどKODAKフイルムの発色が悪く、監督が意図的に安っぽい張りぼて人形やプラモデルを使った「特撮」をしていることもあってまるで1960年代の映画のようだった。オリジナルがモノラル録音であることも、そう思わせた一因かもしれない。
最近の作品に比べると、人物に寄ったスチルショットが特に前半でやたらと多く、背景までセットを作りこむ予算がなかったのではないか。アフレコがされていない無音のシーンも目立つ。ちょっと信じられないくらい大胆な省略法も、どちらかと言えば予算があればきっちり撮りたかった絵が撮れないことが原因の、脚本上の苦肉の処理という面が強いのではないだろうか。
この作品が鈴木卓爾との共同脚本になっているから、最近の矢口作品にはないかっとび感があるのだという説もあるが、予算制約説の方が本当なのではないかと思う。省略しすぎじゃないかというシーケンスと、ここは省略してもいいだろうというシーケンスのバラつきが、個人的にはかなり目についた。
たった2年後に撮られた『アドレナリン・ドライブ』と比べても、編集のバランス感覚は雲泥の差がある。それをB級スラップスティックの魅力が失われたと感じるのか、矢口監督が本来撮りたかったものが撮れる予算を確保できるようになったと見るのか。僕は矢口監督の才能がだんだんと発揮されるようになってきていると見たいのだが。

矢口史靖『アドレナリン・ドライブ』『ウォーターボーイズ』

■久しぶりに短い間にたくさんの映画を観て、やっぱり映画は僕が帰っていくべきひとつの場所だと感じたので、前回日記を書いてから矢口史靖監督『アドレナリン・ドライブ』(1999年)『ウォーターボーイズ』(2001年)を観た。これで矢口氏単独での監督長編作品はあと『ひみつの花園』(1997年)を残すだけだ。
近所のTSUTAYAにはないのでなんとかどこかのTSUTAYAで探し出さなければ。こういうときに会員証が全店舗共通になったのは便利だ(目ざとい読者ならすでにTSUTAYAについてのエッセーが削除されていることにお気づきかもしれない)。『ウォーターボーイズ』はおそらくいちばん商業的には成功しているのだろうけれど、脚本としてはほぼ破綻している。
『スウィングガールズ』のパンフレットの中で監督自身が語っているように、竹中直人演じる水族館のイルカの調教師役は「超ご都合主義」が本領の矢口脚本にしても、位置づけのよくわからない役柄になっている。プールの水道料金や魚の弁償など、金銭的な問題が出てくるのに、男子高校生たちの家庭環境はまったく隠されたままだ。その意味で『ウォーターボーイズ』は脚本・映像とも、男子高校生たちだけに依存しすぎていて映画としては計算が甘い。
『アドレナリン・ドライブ』ははるかに超ご都合主義的脚本が冴えていて、最後のどんでん返しも粋なハッピーエンドとして、純粋にフィクションとして十分楽しめる。それ以上の感想についてはYahoo!JAPAN MOVIEに書いたレビューを参照いただきたい。たいしたことは書いていないけれど。
このレビューで書いたジャンピングカットだが、そう言えば『スウィングガールズ』でも高校野球の予選大会で、山河高校攻撃の九回裏、ラストバッターの最初の2ストライクのシーンで使われていた。
それからこれら3作品に共通する要素として眼鏡の女の子がいる。このテーマについても『ウォーターボーイズ』は消化不良だが、『アドレナリン・ドライブ』の石田ひかりと『スウィングガールズ』の本仮屋ユイカは脚本でよく活かされている。テレビのニュースにしても3脚本共通で、矢口監督のお決まりの道具立てのようだ。『アドレナリン・ドライブ』では石田ひかりが札束の入ったナップサックを横取りした男を救命して警察表彰される下り、『ウォーターボーイズ』では高校生たちがスクープ狙いの一般市民の誤解から一躍有名人になってしまうシーン、『スウィングガールズ』ではご承知のとおり食中毒の場面で使われる。
そういえば警察表彰というのは『アドレナリン・ドライブ』と『スウィングガールズ』に共通する道具立て。軽快なアコースティックギターでBGMが処理されている部分もよく似たシーンが見つかる。要するに矢口監督作品は、やはり一連の大いなるワンパターン・スラップスティックコメディーとしてアタマをからっぽにして楽しむコメディだということがよくわかる。しかも最近の邦画のコメディとしては、演出はかなり上品である。
『ウォーターボーイズ』で、『ベニスに死す』のマーラーの交響曲第五番第三楽章が流用されていたのにはすこし驚いたが、こういう名作の引用やパロディに限らず、矢口監督は基本的にクローズアップからロングショットまで、とてもまじめに演出をする人であることがわかる。だから僕のようなクソまじめな人間が観ても心から笑える映画をちゃんと作れる監督なのだ。今から次回作が楽しみである。

高橋哲哉著『教育と国家』

■高橋哲哉氏の『教育と国家』(講談社現代新書)を読んだ。「think or die」ファンの読者ならすでにご存知のとおり、高橋哲哉先生は僕が某国立大学でデリダの勉強をしたいと思いたったまさにその理由である。先生と同じ進路ということではじめから文学部を選ばず、大学院進学のときに哲学科へ入るという計画まで立てていただのが、もろもろの事情で今じゃ一介のサラリーマン。
そんなことはどうでもよくて、本書は語りおろしだけあって、とてもわかりやすい。中身としても論理的な破綻のない、相変わらず抑制のきいた着実な論の進め方で、ただただ納得しながら読みすすめることができる。もちろんそれは僕自身が「新しい教科書を作る会」のような新保守主義者ではないからなのだが、それを割り引いても論理的には正しいことが書いてある本だろう。
しかし、しかしである。一読者としてのもの足りなさはまさにその「正論」ぶりにある。日本を軍国主義的な国に逆もどりさせようという新保守主義が、どう考えたってアナクロで無理があるのに、小林よしのりをはじめとして、どうしてここまで支持されちゃってるのか。そのことについて本書はあえて考えることを避けているように見える。
本書は新保守主義に対して真っ向から論駁する書であり、その限りにおいては大衆向けの書物としてもほぼカンペキだが、それが新保守主義に対する効果的な対決のしかたであるかどうかは、正直いって疑問だ。本書は新装版の講談社現代新書の最初の10冊であるにもかかわらず、もう大型書店からは姿を消している。
新保守主義は一般大衆にうったえかけるわかりやすさがあるから、一定の支持を得てしまっている。その点に分析のメスを入れない新保守主義批判は、残念ながらそれほどの効力は持たない。たとえば今の「韓流」ブームはどうだろうか。新保守主義の人たちから見れば、教科書問題でうるさく「内政干渉」してくる韓国の、そのトップスターに、日本人女性が熱を上げている様子はただただふがいない光景に違いない。韓国ブームをになう日本人大衆に対しては、新保守主義の人たちもさすがに正面きって韓国たたきはできないだろう。
たしかに一時的な韓国ブームで、日本人が自分たちの歴史観を突然まじめに見つめなおすとは限らないのだが、少なくとも新保守主義者たちの短絡的な韓国バッシングには拒否反応をしめせるはずだ。大衆性には大衆性で対抗するのか、そうでないのか。たぶんこの問題ってデリダの問題系でいえば「パルマコン」というキーワードになると思うのだけれど、そういう方向でこれから高橋哲哉先生の新保守主義との対決がどういう風に発展していくか、とっても楽しみだ。

李継賢『思い出の夏』

■昨日は日比谷シャンテシネで『やさしい嘘』(2003年)を観て、その夜はTSUTAYAで借りてきた李継賢(リー・チーシァン)監督『思い出の夏』(2001年)を観た。中国映画である。原題は『王首先的夏天 High Sky Summer』で、主人公の少年、王首先の夏の空という意味だ。
中国山西省の小さく貧しい村に北京から映画の撮影隊がやってくる。村でただ一つの小学校に通う子供たちと撮影隊との、夏の短い期間だけの交流を描いた映画で、キャストは2人を除いてすべて素人。子供たちはほんとうに中国の農村に暮らす子供たちらしい。この映画そのものが脚本の内容とダブり、なかばドキュメンタリーのような作り方の作品になっている。演出は全体としてやや中国映画らしいクドさはあるけれども、主人公の少年は、まったくの素人にどうやってここまでの演技をさせたのだろうと驚くほどだ。広大な自然をいかしたロングショットが印象的で、すこしキアロスタミを思わせるようなところがあった。
しかし撮影隊の助監督が道に迷った少年をついに見つける場面など、場面によっては人物に寄るべきではないかと思ったところもある。また、ラストのビデオ映像の長い引用は、すこし監督自身の感傷が入りすぎではないか。いずれにせよ力強い倫理観に裏づけられたこのタイプの中国映画は、退廃的な中国映画よりは個人的に好きだ。

トリュフォー『あこがれ』『突然炎のごとく』

■そして今日は今日で、池袋のいつの間に改装されていた新文芸座でフランソワ・トリュフォーの2本立て『あこがれ』(1958年)『突然炎のごとく』(1961年)を観てきた。以前にも書いたようにトリュフォー作品は好きでたくさん観ているのだが、短編の『あこがれ』は初めてだ。現代のわれわれが観ると、そのエロティシズムはすこし素朴すぎて思わず笑ってしまいそうになるが、実験的な手法が随所に使われていて興味深い。そして『突然炎のごとく』は2回目なのだが、まるで初めて観たかのような新鮮な驚きがたくさんあった。それについてはまた日を改めてゆっくりと書きたい。