月別アーカイブ: 2004年10月

『スウィングガールズ』「Space Channel 5」の意味

■『スウィングガールズ』の中で主人公の妹が、プレステで「Space Channel 5」をやっているのはちゃんと意味があったんだな。最後の演奏会で山川高校の「スウィングガールズ」が2曲目に「Mexican Flyer」という曲を演奏するのだが、この曲は「Space Channel 5」に登場するらしいということを今日初めて知った。Hipster Imageの「Make Her Mine」の方は、昔LevisジーンズのテレビCMに使われていたようだ。アニマルズに見出された1960年代のモッズバンドらしい。

アンドレイ・ズビャギンツェフ『父、帰る』のキリスト教的含意

■新宿武蔵野館で2003年ヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督『父、帰る』(2003年)を観てきた。菊池寛の小説を思い出させ、映画の格調高さが台無しのタイトルは無視していい。
12年ぶりに帰宅した父が、息子二人を連れて旅に出るロードムービー。主要なテーマは映画の冒頭ですでに明かされてしまう。帰宅した父が休息のためにベッドに横たわっているところを、足元からほぼパンフォーカスのローアングルでとらえ、父親の体には光沢のあるシーツがぴったりとまとわりついている。イタリア・ルネサンスの名画『死せるキリスト』そのままなのだ。観客はこの時点ですでに、この父親がキリスト的なものを象徴させられていることに気づく。
それでもこのロードムービーは、息子たちが厳しい父親に教えられながら大人へと成長していく「教養小説」の形式をもった映画と思わせながら進行する。画面の一つひとつが計算されたフレーミングで、決して長まわしではないが、アンドレイ・タルコフスキーを思わせる荘重な絵画のようなカットになっている。息子と父親の対立が頂点に達したとき、父親は『死せるキリスト』のカットで予告されたように、長い年月、家族を捨てていた自らの罪をあがない、同時に自らの息子たちに対する愛を表現できるただ一つの手段として、自ら死んでいく。息子の代わりに自らの命を落とす。そうして今度は息子たちの方が、決して父を赦さなかったために、その父を半ば自分のせいで死なせてしまったという罪を背負って生きていくことになる。赦しを乞うための父はもう存在しないということで、父は息子たちにとって永遠に手の届かない存在でありつづける。
キリスト教的なテーマが力強く通底しているために、日本人にとっては感情移入がとても難しい映画になっていることは否めない。ここまで厳格な父親像、決して赦さず、その不在によってしか愛することを表現できない父親像は、ちょっとわれわれ日本人には理解しにくいのではないか。
監督自身、インタビューに答えて、この映画は「人間の魂の、母から父への、形而上学的な旅についての映画である」と言い、「キリスト教の伝統のない日本の観客の皆さんにとってはわかりにくいものになってしまうかもしれません」と言っている。それにしてもこの監督は新人で、スタッフも新人ばかりだというのに、このいかにもロシア的な重厚なストーリーと映像には驚かされる。ただ、このこともそれほど驚くべきことではないのかもしれない。
タイトルロールからも分かるように、この映画はなんたって「レンフィルム」制作なのだ。僕がまだ学生だった10年前に東京で「レンフィルム祭」があったとき、『動くな、死ね、甦れ!』を含めカネフスキー作品も観たような気がするのだが、映画の中身についての記憶は完全に失われてしまっている。10年という年月は長い。大切な過去の想い出が少しずつ、僕から失われていくのは悲しいことだ。
■『スウィングガールズ』の中で主人公の妹が、プレステで「Space Channel 5」をやっているのはちゃんと意味があったんだな。最後の演奏会で山川高校の「スウィングガールズ」が2曲目に「Mexican Flyer」という曲を演奏するのだが、この曲は「Space Channel 5」に登場するらしいということを今日初めて知った。Hipster Imageの「Make Her Mine」の方は、昔LevisジーンズのテレビCMに使われていたようだ。アニマルズに見出された1960年代のモッズバンドらしい。

RuRuファン復帰宣言

■夜中まで起きていると下らないことを思いついてしまう。テレビで「CDTV」を見ていたら1999年のアルバムチャートを紹介していて、「太陽とシスコムーン」のアルバムが登場した。そういえばつんく♂プロデュースのそんなグループもあった。小湊はNHKの民謡番組を今でも続けているのだろうか。僕はと言えば4人の中ではいちばんRuRuが好きだった。
そうだ、ここは一つ、RuRuファンに復帰するというのはどうだろうか。そう思い立ってインターネットでRuRuの消息を調べると、日本での活動を休止した後、本多RuRuという名前で台湾で活躍していることが分かった。しかし2002年に『美麗心情』というアルバムを出して以降は、音楽活動をしていないようだ(アルバム収録曲を聴きたい方はこちらのページからFlashでどうぞ)。もともと歌唱力は秀逸なんだし、1978年生まれでまだまだこれからなんだから、ぜひとも歌い続けてほしいものだ。なんてことをこんなところに書いたところで、別にどうなるというわけでもないのだが。本多ルル - 初心

ニートは団塊世代の「滅私奉公」へのアンチテーゼ

■とある読者の方から「団塊の世代」批判のメールを頂いた。台風の異常発生を見て、企業の自然破壊を非難している父親が、一方ではバイクを趣味に楽しんでいるという、その「団塊の世代」らしい無自覚さを批判したメールだ。経済成長を無条件に良いことと信じて「団塊の世代」は生きて来たわけだが、自分たちも環境破壊の片棒をかついでいることを忘れてしまうほど、彼らの世代が単純素朴なのは、ある意味、仕方ない。それほどまでに単純素朴だからこそ、経済成長を是として彼らの世代は突き進んできたのだ。
もしも彼らの世代が、もっと思慮深い人たちで占められていたら、いま僕らが享受しているような豊かな生活はなかっただろう。そしていまだに「団塊の世代」は、根本的な自己批判をできないでいる。メールを送って下さった読者も指摘しているように、NHKの『プロジェクトX』のような番組で、いまだに自分たちの栄光の時代をなつかしむことしかできず、いつまでたっても過去に拘泥している、「団塊の世代」はそういう人たちなのだ。
僕ら「団塊の世代」の子供たちは、彼らの姿を反面教師にすることで、自己批判することができる。忘れてならないのは、僕らがいまのような僕らであるのは、「団塊の世代」が生み出したものの結果であり(たとえばこのインターネットという技術も)、僕らは「団塊の世代」の罪を完全に逃れているわけではないということだ。すでに大量消費社会に汚染されている僕ら自身が、そんな社会を生み出した「団塊の世代」を批判することは、自分のよって立つ地面をひっくり返すことになり、僕らの批判そのものを無効にする。
僕らに問われているのは、彼らの世代が引退した後の世界に、何を生み出せるかということだ。僕らが何を生み出しつつあるのか、分かっていることが一つある。それは、大量の働かない若者だ。「団塊の世代」が引退した後の社会には、代わって大量の働かない若者が生まれつつある。「団塊の世代」は企業のさまざまな組織的な不祥事で、身をもって、働くことは無条件に良いことではないと示してしまった。その必然的な結果が、滅私奉公の精神で死ぬまで働きつづけるという生き方へのアンチテーゼとしてのNEETだ。

矢口史靖『スウィングガールズ』

■『スウィングガールズ』を観てきた。詳しくはエッセーとして別掲したが、1回目を幕張のシネコンで観てよかった。2回目に観た古びた映画館との違いは歴然。やっぱり新しい映画は新しい劇場で観なければ。
音楽映画なので、登場人物のセリフと音楽が重なる場面がたくさんあるのだが、古い劇場ではともに同じスピーカーから聞こえてきて、セリフが聴き取りにづらい。新しい劇場では教室の中での練習シーンなど、カメラ位置が変わると、同じ楽器の音が聞こえてくるスピーカーも変わる。古い劇場では前から二列目の左よりの席で観たため、右端の画面が暗くてよく見えなかったが、新しい映画館ではそんなことはまったくない。皆さんも『スウィングガールズ』を観に行きたくなったら、できるだけ新しい映画館でご覧になるようお勧めする。
ついでに映画の中身について話すと、1回目に見たときに多少違和感があったのは『What a Wonderful World』をBGMに、登場人物たちがイノシシに追いかけられるシーンだ。しかしあれが『マトリックス』の「ブレット・タイム」撮影(数十台のカメラで同時に被写体を撮影して、静止した被写体のまわりをグルリと回っているような視覚効果を生み出す撮影方法)を、低予算でパロディーにしたものだと気づいて納得がいった。とにかく単純に楽しめる映画である。