月別アーカイブ: 2004年8月

レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』

■マイケル・ムーア監督『華氏911』を観たということで、この映画の題名の元ネタになっているレイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』(ハヤカワ文庫)を読まねばなるまいと思い、今さらながらではあるが昨日から今日にかけて読んでみた。
皆さんご承知のように「ファイア・マン」が消防士ではなく焚書を任務とする人々を意味する近未来の話で、書かれたのは第二次大戦後、米国でレッドパージの嵐が吹き荒れていた頃というから、極めて政治的な空想小説だ。『華氏911』の参照元になっている理由もうなずける。
映像や音楽の氾濫が人々から考える時間を奪い、戦争で大勢の人が死んでいるということがますます現実味の薄いものになっていくという、『華氏四五一度』の基本的な舞台設定は、まるで現代の僕らが生活しているこの世界そのものではないかというのは、この小説について繰り返しなされる指摘だ。ただしその対抗軸として「書物」に象徴される啓蒙主義を持ってくるのは、現代においてはそれほど有効な施策ではないだろう。
愚民化政策の成功は、文字よりも映像や音楽を選択したという媒体の差異に帰せられるものではない。映像であっても「批判的な映像」は存在するし、音楽であっても「批判的な音楽」は存在する。文字媒体でなければ批判は成立しないという主張は、文字を武器にした権威主義だと批判され得る。本当の意味で愚民化政策を推進したい政府なら、焚書よりもむしろ、無批判な書物を社会に氾濫させる方法を選択するだろう。
無批判な映像・音楽・書物の氾濫。こちらの方が現代の僕らが生活する世界にはるかにぴったりする形容だ。媒体はなんでもよい。とにかく受け手に疑問を抱かせず、自己確認の契機しか与えないような、否、自己確認を行うためにはまず自己の外に出る必要があるのだから、自己を外から眺める契機すら与えないような、無批判なコンテンツを、あらゆるメディアを通じて氾濫させることで、本当に人々の「思考」を停止させることができる。
その意味で、文字媒体と映像を対照的に描写するブラッドベリの、新技術嫌いはややナイーブという感じがするが、ようやく映像媒体が登場し始めた時代の限界なのかもしれない。今、誰かが現代版の『華氏四五一度』を書くとすれば、媒体の差異は本質的な差異ではないという前提を置くだろうし、現にマイケル・ムーアは映像媒体で批判を行っている。そういえば『華氏四五一度』を映画化したフランソワ・トリュフォー含むヌーベルバーグも、それまでのフランス映画に対する批判を映像で行ったのだった。

田宮二郎主演『白い巨塔』

■そういえば先日、田宮二郎主演のテレビドラマ『白い巨塔』最終回を偶然目にする機会があった。まだ小学生だった僕の脳裏にトラウマのように焼きついていたシーン、財前五郎が洗面所の鏡をのぞきこんで、目の下にできた隈と手のひらの黄疸から、癌の進行を確証する場面に、二十五年ぶりに再会できた。
今見ると田宮二郎の演技はまったく過剰で、鬼気迫るというより滑稽なくらいで、最後の場面、白いシーツに覆われた財前の遺体が病院の廊下(この廊下の狭いこと)を進んでゆくシーンで朗読される財前の遺書も、「反省」という言葉が登場するほど単純な勧善懲悪劇になってしまっている。つまり「悪い」医者だった財前が、自ら癌に侵されることで「反省」「改心」したというわけだ。
その単純さはリメイク版の『白い巨塔』以上で、興冷めですらある。小学生の僕は財前が鏡をのぞきこむシーンを見た後、自分でも鏡をのぞきこんで、その頃から中学受験の勉強を始めたために目の下に出来はじめた寝不足による隈を発見し、自分ももしかすると癌かもしれない、余命わずかかもしれない、などと真剣に心配したものだが(やはり僕はそうとう重症のヒポコンデリーだったのだ)、罪なテレビドラマである。

マイケル・ムーア『華氏911』

■銀座でマイケル・ムーア監督『華氏911』を観て来た。まずスノッブな映画評論風に感想を書くとこうなる。
世界貿易センタービルでのテロについて、まったく別の物語をつむぎ出すことに成功しているという点で、ノンフィクションでありながら一貫性のある一つの映画たりえている。その物語は今まで僕が日本でテレビや新聞での報道から得ていた情報からは、決してつむぎ出すことができなかったものなので、僕はこの映画を観ながら、まるで僕の知らないところにもう一つ別の世界があって、そこはこの世界と表面上はとても似通っており、似たような人物が似たような生活を送っているにもかかわらず、まったく異なる規則にしたがって機能しているかのような錯覚に陥った。
そして僕が今まで生活していると思っていた世界と、この映画を観ることで見出されたもう一つ別の世界とが、どちらも同じくらいの現実味を帯びており、同じくらいの説得性をもって存在しており、僕自身はそのどちらとも同じくらい強く(あるいは弱く)結びついているように思われる。
その二つの世界が実際には同じ一つの世界の異なる側面でしかないのであれば、僕は僕自身、いかに一つの世界の片側しか見ていなかったかということに驚きを隠せない。平板な日常を異邦人の眼で眺めさせることによって、この世界がこのようなものとして存立していることそのものを、あらためて驚きをもって感じさせてくれるようなものを芸術と呼ぶなら、たしかにこの映画は芸術に違いない。
次に、経済紙の映画評風に感想を書くと、もっと簡潔に、この映画は米国がなぜイラク戦争に踏み切ったかについての説得力のある理由付けを、さまざまな映像の断片を織り合わせるあざやかな手さばきによって成功させている、という感じになる。
ところで『ボウリング・フォー・コロンバイン』と比較すると、軽さやお遊びはかなり息を潜め、後半はとても真剣な反戦映画になっている。この夏、夏になると毎年そうであるように、テレビでも戦争の惨禍を想起させるドキュメンタリーやドラマが放送されていたが、やはり大半は日本がうけた被害を中心に戦争の悲惨さを訴えるもので、今まさにイラクで行われている戦争と、それを支持する日本政府の歯切れの悪さはあたかも60年前の戦争とは無縁のものであるかのようにしか語られていなかったように思う。
米国人の上司と仕事をして、僕も彼らのマッチョなリーダーシップが改めて嫌いになったが、それでもマイケル・ムーアのような「良心」を殺さずにおく米国はまだ尊敬に値する部分を残している。サンケイグループの煽動を中心として右傾化しつつある日本にとって、この映画が全国160館にも配給される勢いを持っているのは、カンヌ映画祭パルム・ドールの後ろ盾があったからこそとは言え、頼もしい反撃だ。

報道ステーションの的外れな箱モノ行政批判

■テレビ朝日の報道ステーションで泉佐野市が10年前の「関西国際空港バブル」に踊らされて、箱モノ行政に走り、まったく利用されない豪華な公共施設に数千億円を投資し、結果として財政再建が不可能な状態になる崖っぷちにまで追い込まれたという事実が報道されていた。
ところが報道ステーションが報じていたのは、市長に対する市民の怒りであり、古館伊知郎と長野智子がコメントとして語っていたのは、小泉首相の三位一体改革への批判だった。
泉佐野市がこれほどまでにひどい状況になったことを、市長個人のリーダシップや中央政府の責任にしてしまうことは簡単だが、たとえ中央政府からの後押しがあったとしても、果たして市長がこれほど容易に「暴走」することなどあり得るだろうか。いや、そんなことあるはずかない。明らかに市長をとめられなかった市議会にも責任がある。
では市議会の議員たちを選んだのは誰か。もちろん泉佐野市の市民たちである。以前も同じような議論をここに書いたことがあるが、市長の箱モノ行政を許したことについて、市民たちに責任がないとは言えない。むしろ報道ステーションは無能な歴代市長を選んできた泉佐野市市民の不明もきちんと批判することで、選挙というものの重要性を伝えるべきではないのか。
そうした報道こそが、次の選挙で本当に市民の意見を反映した代表が選ばれることにつながるのであり、テレビ朝日が目指している真の「革新」ということではないのか。何でもかんでもお上や偉い人を批判すればよいというのは、革新勢力の悪しき「判断停止」である。

一見大型スーパー、その実パチンコ屋

■駅前でご隠居さんが二人立ち話。駅前にスーパーマーケットができるんだってね。サラリーマンを引退しても近所の情報通であることを自認しているらしいが、残念でした。お二人がスーパーマーケットだと思っている工事中の建物はパチンコ屋。もとあった建物を拡張改装して、見た目三倍ほどの巨大なパチンコ屋が出現しつつある。
確かに窓がなく、明るいベージュの壁をしているので遠目にはイトーヨーカドーに見えなくもないが、都心にも店舗を持つパチンコのチェーン店だ。地元の常連さんはまた開店前から薄汚い洋服で入り口に列を作るのだろうが、この巨大な建物の建築費が自分たちの負けでまかなわれていることに複雑な感情を抱かないのだろうか。なんなら自分たちがこのパチンコ屋を育ててやっているのだとでも思っているのだろうか。人間の愚かさは底知れない。