月別アーカイブ: 2004年1月

武蔵大学でドイツ語検定2級の口答試験

■今日は東京都練馬区の江古田にある武蔵大学というところでドイツ語検定2級の口答試験を受けてきた。一次の筆記試験では聴き取りテストがほとんど零点だったにもかかわらず合格で、こんなことでいいのかと思いながらの二次の口答試験だったのだが、事前に書店で過去問題集を立ち読みして得ていた情報のとおり、5分程度の短い面接だった。
試験官はドイツ人一人と日本人一人、面接はもっぱらドイツ人試験官が行い、日本人試験官は横でその様子をみながら採点するというしくみ。ドイツ人の女性試験官は遠慮せず早口で質問を矢継ぎ早にくりだし、日本人の男性試験官は僕のドイツ語を厳しい表情で聞いている。
数年前受験したフランス語検定2級の同じような内容水準の面接試験と比べると、かなり心理的圧迫感があったのはこちらのドイツ語がフランス語に比べておそまつなせいか。問答の内容はだいたい以下のとおり。
「お名前は?」
「○×です」
「会社員ですか学生ですか」
「会社で働いています」
「どんな仕事ですか」
「IT部門に属しています」
「仕事の内容が分からないので、具体的に説明してもらえますか」
「情報処理の仕事です。たとえば最近は社内のデータ機密の企画をやっています(後で考えるとこの部分は意味が通じない)」
「大学のときにドイツ語を勉強していましたか」
「はい」
「いまドイツ語はどこで勉強していますか」
「どこで?」
「仕事と並行して勉強しているのですか」
「はい、仕事と並行してです」
「どうやってですか」
「ひとりでです」
「本を読んだりテレビを見たり?」
「ええ、本を読んだりテレビを見たり(このあたりほとんど試験官のドイツ語を繰り返しているだけだった)」
「趣味はありますか」
「本を読むのが好きです」
「どんな本ですか」
「日本の現代小説です」
「好きな作家は誰ですか」
「最近は小島信夫や藤枝静男です。あまり有名ではありませんが」
「なぜ好きなんですか」
「私小説で、哲学的だからです」
「健康のために何かしていますか」
「特に何も」
「スポーツとか、食べ物とか」
「良い食べ物を食べようと試みています(このドイツ語も果たして意味が通じていたのか)」
「旅行するのは好きですか」
「いいえ、好きではありません」
「音楽を聞くのは好きですか」
「はい」
「どんな音楽が好きですか」
「ポピュラーです(ここでpopulärと言わずに英語風にpopularと発音してしまった)」
「映画は好きですか」
「はい」
「どんな映画が好きですか」
「フランス映画です」
「どうしてですか」
「大学のときにフランス語も勉強していて、高校生のときフランス映画が好きだったからです」。
だいたいこんなところだ。面接中に4、5回、Wie, bitte?を繰り返してしまった。さあこの程度のドイツ語会話力で2級に合格するかどうか、報告は後日。乞うご期待。

藤枝静男『悲しいだけ 欣求浄土』

藤枝静男『悲しいだけ 欣求浄土』(講談社文芸文庫)を読んだ。すべて読んだわけではなく、収録作品のうちの『欣求浄土』『厭離穢土』『一家団欒』『悲しいだけ』だが、これらの作品を読むだけでも『田紳有楽』につながる主題がすでに現れており、やはり『田紳有楽』が一種の私小説であることが納得できる。

理性による介入は常に問題を解決するか?

■会社の組織の中で起こっていることのすべてを人間の意思の力でなんとかしようという欧米人の発想は、傍で見ていて涙ぐましく感じられる。
独立した意思を持った人間がたった数十人が集まっただけでも、人と人との間の相互作用が、表にあらわれるものも無言のかけひきも含めてどれだけ複雑になるかは、ゲーム理論などを援用するまでもなく想像もつかないほどなのだ。そのように組織の中で時々刻々と変化する人間どうしの相互作用を、一人の人間が介入して秩序だったものにしようとして成功するのは、ごく限られた場合だけであることはいうまでもない。
まして日本人と欧米人という、大きく異なった文化的背景をもつ社員が混在しているのだから、人間の介入によって組織内ではたらく力関係や考え方を変化させるのはきわめて難しい。ところが欧米人は、社員一人ひとりに定義されている役割と責任にしたがって、一人の担当者が、たとえばある規則を決めれば、他のすべての社員がいつかは必ずそれにしたがうようになると考えているのだ。
そして思ったように事が進まなければ、根気よくその規則の有効性を説得するというふうにして介入すれば、組織は最後には秩序立ったものになると考えている。人間の主体的な意思によって組織に影響を与えることができるという彼ら欧米人の信念は、日本人から見ると、あまりに素朴すぎる考え方だ。エゴサントリスムというのか、啓蒙主義というのか、主知主義というのか、呼び方はどうでもいいが、とにかく個人というものをあまりに信頼しすぎているのだ。
おそらくほとんどの日本人は、場合によっては組織の相互作用をそのままにしておいて自然のなりゆきにまかせた方がうまくいう場合もあるということを知っている。欧米人は、なりゆきにまかせることを無責任だと考えるようだ。
その証拠のひとつとして、先日とあるセミナーで欧米人の講師がコミュニケーションという主題について次のようなことを話していた。「コミュニケーションをしないということは不可能である。なぜなら、何も言わないことも何かを伝えることになってしまうから。だから言うことがなくても、何かを言うようにしよう」。
日本人だとぜったいこういう結論にはならず、「何も言わない方がいいときもある」となるだろう。自然にまかせるというのは別に無責任なことではなくて、少し前に流行った「複雑系」ではないけれども、一人の人間が意識的にコントロールできる範囲というのは限られていて、個人の能力の限界を知っているということなのだ。
ところが一般の欧米人はいまだにカント以前の時代を生きていて、一人の人間の理性の能力が無限だとでも考えているらしく、どこまでいっても理性的な判断にもとづく介入によってものごとを良くできると信じている。この素朴さは微笑ましくもあるし、涙が出そうでもある。この人たちはまだ合理主義の時代に生きているのだな、という具合に。

楽観的な人々はリスクマネジメントに不向き

■楽観的な人々は、会社員の心の健康と、リスク・マネジメントの問題には手を出さない方がいいのではないか。先日読んだ斎藤環の本に、米国と日本では病気と正常の境界が異なるということが書いてあった。米国ではふつうの人でも日本では躁病と診断されるおそれがあるし、日本ではふつうの人でも米国ではうつ病と診断されるおそれがある。
これは欧米人と日本人が混在する職場では深刻な問題になりうる。陽気な欧米人上司が日本人部下に対してふつうに接しているつもりでも、すこし内気な日本人部下は明るすぎる欧米人上司のために、精神的に疲れ果てることがじゅうぶん考えられるし、欧米人上司がたんなる議論のつもりで意見していても、言われた日本人部下の側はいじめやパワーハラスメントと解釈するおそれがある。
また、リスク・マネジメントについて、楽天的で陽気な欧米人が日本の経営環境でバランスのとれたリスク感覚を持つことはとても難しいと思われる。彼らは東海地震や、東京都心でイスラム過激派のテロが起こる可能性に過敏であるわりには、高速道路を猛スピードで飛ばして平気である。まるで高速道路で死ぬ確率よりも、地震で死ぬ確率の方が高いとでもいうように行動しているが、日本人からするとリスク感覚が完全にズレている。
他の例をあげれば、業績の悪い企業は、外部からネットワーク経由で侵入されて情報を盗まれることよりも、内部の人間が少ない給与を補うために意図的に機密情報を売りわたすことを心配すべきである。外部の犯罪者にとって業績の悪い企業はそれほど魅力がなく、自ら危険を冒す価値もないから、内部の人間がすすんで情報を売りわたしてくれるまで待てばよい。
欧米人はマスメディアによって日常的に脅されているせいか、外部からの脅威にばかり敏感なようだ。テロにしても地震にしても外部からの不意打ちだが、そうしたリスクには敏感なわりに、自分が毎日運転している自動車という「内部」のリスクにはおそろしく鈍感だ。同じように情報セキュリティに関するリスクについても、外部からの攻撃や侵入、そして内部の人間によるあからさまな違法行為などに対してはおそろしく敏感なくせに、内部の人間が隠れて働く背信的な行為については鈍感だ。
心の問題に対する鈍感さと、リスクについての不均衡な感覚は、どちらも楽天的でポジティブな精神性が原因と思われる。楽天的でポジティブな人間は、人格としてバランスを欠いているのだ。

金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』

金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』(朝日文庫)を読んだ。
よくもまあこれだけのとりめのない会話と毒舌が一つの小説になるものだと思うが、会話文と地の文が区別なくつづく息の長い一文という作者持ち前のスタイルによって、それらの会話も含めた世界に対する語り手の距離感がたもたれ、これらの毒舌の下品さを緩和しているのかもしれない。
ある種の人間たちに対する語り手の軽蔑はときに露骨すぎるほどだが、彼らに直接語られることはなく語り手の内部で反響するだけであることによって、語り手が最低限の社会的な倫理といったものを実行しようとしているとでも作者は書きたいのだろうか。
もちろん作者はそういった倫理を肯定しているのでも否定してるのでもないと言い張るのだろうが、語り手がそれらの人々に直接自分の軽蔑をぶちまけることを書かないことをなぜ選択しているのかについて、この小説のなかのどこかに説明されているということなのか。
小説そのものとしては楽しく読め、僕自身もあの種の人間たちに対する軽蔑には事欠かないわけだが、そうした小説をあとがきで自画自賛してしまう金井美恵子には少々吐き気を催したということを付け加えざるをえない。ちなみに金井美恵子の小説を読むのは学生時代に『愛の生活』を読んで以来だと思う。