月別アーカイブ: 2003年10月

見当違いの「大企業病」批判

■米Amazon.comに注文していたジャック・デリダ『フッサール哲学における生成の問題』がようやく届いた。フランス語ではなく弱気になって英訳を注文してしまった。今から50年前、最初に本のかたちでまとめられたデリダの著作なので、後期の著作のようにまったくわけが分からないということはないだろうと期待しつつ、じっくり読むことにしたい。
■同じように決まり文句や世の中でよく言われていること、通説をそのまま信じこんで、意見を聞かれるとそれらの通説をオウム返しにすることしかできない人というのが、案外たくさんいる。たとえば業績の悪い大企業を見ると必ず「大企業病だ」と批判し、「その証拠に意思決定の速度が遅い、官僚主義的になっている、部門間の意思疎通が悪すぎる」といった紋切型をくりかえす人たちがいる。
たとえば第一点、意思決定の速度が遅いと言っている彼らは、どうやってその速度を測定しているのだろうか。意思決定の速度を絶対的に測定する方法などない。そうではなく単に相対的に遅いと言っているだけなら、大企業の意思決定が中小企業より遅いのは当たり前である。その理由は利害関係者の人数が多いからだ。とてもかんたんな議論である。
第二点、官僚主義的という批判は基本的に間違っている。以前このページでも取り上げた沼上幹が主張するように、企業組織は何よりもまず官僚組織として適正に機能していなければならないのだ。官僚組織とは一人ひとりの責任範囲が明確に定義されている組織であって、むしろ日本企業の問題はこの定義があいまいな点だ。つまり日本の大企業は官僚主義的すぎて問題なのではなく、官僚主義が不十分で問題なのである。
第三点、部門間の意思疎通が悪いという批判に対しては、何を夢みたようなことを言っているのかと答えたい。数千人が働いている企業で、部門間の意思疎通が良いと言えるためには、労働時間のうちどれだけの割合を意思疎通に割く必要があるだろうか。定時後に毎日「飲みニケーション」しても何の足しにもならないだろう。
社内の意思疎通が悪いと批判している人は、意思疎通の良い状態についてあまりに高い理想を描きすぎている場合がほとんどだろう。そういう人たちは、いちばん意思疎通がうまくいっている社内の人間関係を規準にして、それ以外の人との関係を見ている。
数人が集まっても性格の合う人、合わない人がいる。比較的うまく言っている意思疎通でさえ、社内の他の関係者との間にそれを再現するのは難しい。人間関係についてあまりに楽観的すぎる人が「社内の意思疎通が悪い」という実効性のない批判を展開する。
以上のように、大企業に対して大企業病を批判することに意味はない。言うだけ日本語の浪費だ。大企業を大企業病だと批判すれば、たいていの人はなんとなく納得してしまうし、いかにも経済に関して一家言ありそうに聞こえる。深く考えないまま批判をするのはやめたほうがよい。これは僕自身にも言い聞かせなければならないことだが。
■今日の日経新聞朝刊5面のコラム『けいざい心理学』は「仲間づくり~怪しい 日本人の和」という題名だが、このコラムそのものがはからずも日本人の和の健在性を証拠だてている。このコラム、実験経済学からは協調的でない日本人の国民性が導かれるとして、つぎのような実験を引用している。
日本人と米国人を対象にした実験で、たとえば自分が「五十」の利益を得ているときに他人が「七十」を得ているとすると、相手の足を引っ張る「いじわる」行動の傾向がより強く現れるのは日本人で、米国人は自己の利益を最大化することに集中するという。大阪大学のある教授は「互いにいじわるを経験し、最後には仕方なく協力するというのが日本人の行動パターン。最初から仲良く協力というイメージとは違う」と話しているようだ。
しかし上記の実験結果は、日本人が和を尊ぶという通説をくつがえすものではない。たんに日本人の和を尊ぶ範囲が、限られた小さな集団だというだけのことだ。大阪大学の教授の言う「互いにいじわるを経験」するのも、日本人が和を尊ぶあまり、その構成員に対して集団への同化を強くもとめるからにすぎない。
今も昔も日本人が和を尊ぶことができるのは、せいぜい小さな集団の中でしかない。その意味で日本人の和が、いまになって突然「怪しく」なったわけではないし、日本人が和を尊ぶという通説がまちがっていたわけでもない。
このコラムの前半、みずほ銀行の実例として、富士銀行出身の上司のもとで働く旧日本興業銀行出身の部下が、言葉づかいの違いで肩身のせまい思いをしているという例、それから、三井住友建設では旧三井建設の話題がタブーであるという例が引かれているが、これらもやはり、日本人が小さな集団内での和をひじょうに尊ぶことを証明している。
このコラムを書いた記者は最後に結論として、「合併後の融和にてこずるのは世界共通だろうが、ビジネスライクにまとまっていく手際では、欧米勢の方が『協調的』と見えなくもない。現場のココロがつながるまで、合従連衡は完成しない」と、一見逆説的な命題を提示している。
しかしこの結論は明らかに間違っている。日本人は協調的だからこそ、異なる企業や集団どうしが出会ったときに、たとえば「富士銀行的」協調性と「旧興銀的」協調性の差異が鋭く現れてしまうのだ。欧米の方が「強調的」だと書いてしまうこの記者は、日本的「和」の精神にかなり汚染されている。欧米人はとても打算的に、異なる組織どうしが相乗効果を生み出すための最短経路を考えているだけのことで、別に組織どうしの「和」を目指しているわけではない。
その証拠にこの記者は、「現場のココロがつながるまで、合従連衡は完成しない」というオカルト的な文章を書いている。「現場のココロがつながる」という表現は、ほとんど意味不明だ。「ココロがつながる」などという非科学的な言い回しを経済記事に平気でつかってしまうことが、まさにこの記者が「和」を尊ぶ日本人であることの何よりの証拠だ。この記者は「怪しい日本人の和」を書きながら、自分自身が「和」の概念から自由でないことを露呈している。それくらい日本人の和を尊ぶ精神は、依然として健在なのである。

high context/low context論の決定的な間違い

■国民性と企業文化の差異が議論されるとき、日本人の組織は多くを語らず「あ・うん」の呼吸に代表されるように暗黙の意思疎通が基盤となっているのに対して、欧米の組織はできるだけすべてを言語化し書き下すという意思疎通が基盤となっている、ということが通説になっている。
コミュニケーションを研究する人々の間では、前者をhigh context、後者をlow contextと呼ぶようだが、確かに現象面だけ見れば日本人はhigh contextに違いないが、だからと言ってhigh contextが今後もずっと日本人には最適な意思疎通の方法だということにはならない。
実際、組織が処理すべき環境変動の数が増えて、通俗的に言えば「世の中が複雑になる」につれて日本的high context意思疎通はその弱点を露呈してくる。これまでhigh contextな意思疎通が機能してきたのは、日本企業の経営環境が安定的に成長しており、処理すべき環境の変動が市場シェアや経常利益など、一定数に限定されていたため、そもそも複雑な対象を伝える必要がなかったからではないか。つまり日本的な「あ・うん」の呼吸型の意思疎通は、安定した経営環境によって機能しているように見えるだけだったのだ。
例えばそれまで生え抜き社員がほとんどだった企業に中途採用者が増える、日本人社員ばかりだった企業に外国人社員が増えるなど、環境を大幅に複雑化する要因がつけ加わると、たちまち「あ・うん」の呼吸は機能しなくなる。
ところがこのとき問題が生じる。それまで「あ・うん」の呼吸で意思疎通できていた人々、少なくともそれが機能していたと信じている人々は、相変わらずhigh contextな意思疎通の有効性を信じて疑わない。上述のような国民性による意思疎通の差異についての通説が、このような人々の確信を補強する方向に働いてしまう。もはやhigh contextな意思疎通が機能していないことに気づくのは、残念ながら環境の複雑化要因になっている中途採用者や外国人だけになってしまうのだ。
だから「日本人はhigh context、欧米人はlow context」といった意思疎通の類型について語るのは、もうやめた方がいいと考える。いまだにhigh contextの意思疎通しかできない日本人たちに変化を怠る口実を与えるだけだからだ。

動物をスチルカメラで撮影する意味

■最近動物園の話ばかりで申し訳ないが、今日も井の頭公園の動物園で写真をとりながら動物たちの愛らしいしぐさに癒されていた。
井の頭公園でいちばん良かったのはアライグマと「リスの小径」だ。後者では数十頭のリスが飼われている大きな檻の中を歩いていくので、足元を胡桃をくわえた俊足のリスが何匹も駆け抜けていく。穴を掘って餌を隠す習性があるらしく、男性客のナップサックまで上って来た一匹が、そのポケットを穴と勘違いして掘り返そうとしていた。僕の構えたカメラのレンズフードを木の枝と思って上ろうとしたリスもいた。「ふれあい広場」で膝の上にテンジクネズミを載せると存外温かかったのも印象に残った。
動物は動きが愛らしいのだから写真を撮るのではなくてデジタルビデオで撮影したらどうかと考えた。しかしビデオでは編集が大変ということ以上に、演出をつけられない動物を撮影したのでは単に自分が見たものをそのまま再現するだけになってしまうという。
そこから写真でなければならない理由を考え始めた。ビデオは1秒間に30コマ、撮影したものを静止画面にしても1/30秒のシャッタースピードにしかならない。写真ならかなり遅めのシャッターだ。晴れた日にひなたぼっこしているゾウを撮影すれば、絞りを8くらいに絞ってもまだ1/250秒程度の速さにはなる。遠くから手もちカメラの望遠レンズでねらっても手ブレの心配はなく、ピントが正確であれば皮膚のシワシワが肉眼で見る以上にリアルに映り、こんなに皮膚が乾燥していて大丈夫なのだろうかと心配したくなるほど。
こんな絵はビデオでは絶対に再現できない。羽毛の一本まで明瞭なアヒルの絵もビデオでは無理。つまり「超高速度撮影ができるデジタルビデオ」のようなものが市販されない限り、一般市民が数百分の一秒の世界を目撃する手段は一眼レフのスチルカメラしかない。そう考えると、スチルカメラでなければならない理由というのは立派に存在するのだ。

公共事業失敗の典型例:大阪フェスティバルゲート

■天王寺動物園からJR環状線新今宮駅への途中にフェスティバルゲートというという官製事業の典型的な失敗作があり、日曜日の昼間だというのに店舗にテナントがほとんど入っておらず閑散としていた。ビルの中をジェットコースターが縫うように走り、商業施設と娯楽施設を兼ねた建造物なのだが、東京で言えば新宿西口の思い出横町のような飲み屋街「ジャンジャン横町」がある典型的な下町で、天王寺動物園の集客力もなく、高速道路の高架下に広がる町並みも全体にくすんだ色合い。こんな環境に文字通り場違いなあのような施設を作ってなぜ成功すると考えたのかは定かでないが、官僚出身者を経営トップに頂いて問題を起こしたユニバーサルスタジオ・ジャパンも同様、大阪は役人に頼らざるを得ないほど人材が枯渇しているということなのだろうか。松下電器あたりから経営者を引き抜いてはどうか。
■いま『言葉にのって』を読んでいるのだが、久しぶりに読むデリダだからか、インタビューで分かりやすいからか、適度な知的刺激になって面白い。『フッサール哲学における生成の問題』の日本語訳がまだ出ていないのは何故なのだろうか。誰か知っていたら教えて頂きたい。

僕の存在理由は「会社員」にはない

■う~ん、違うな。JR東日本の高架化工事トラブルは不適切な人員配置が原因ではなく、「プロフェッショナル意識」や「職業上の使命感」とでもいうものが会社員から失われつつあることが原因ではないか。ここで僕が職業上の使命感と言っているのは、自らの従事する職業について経済的な報酬や公の場での栄誉など、定量的で目に見える評価があろうがなかろうが、その職業における能力や技術の向上そのものに自分の存在理由を見出すという考え方のことだ。
ところが僕らよりも若い世代が、職業その他どんな手段であれ「自分の存在理由を見出す」という行為が一定の成果を生む、つまり最終的に何らかの存在理由を見出せると信じることなどできなくなっている。
特に会社員という職業は、職業一般のなかでも自分の存在理由を見出す手段としてはもっとも価値のないものになっているし、職業一般という手段もそうした目的のためにはもっともあてにならないものになってしまっている。だとすると個人で自由に使うことのできる時間を職業のためにより多く割くという発想自体が生まれようがない。
一方で「自分とは何か」という問いが人々にとってますます重要になってきている。会社員は原理的に交換可能でなければならない。仮に会社員の行う業務が特定の人物にしか実現できないとすると、企業は同じ仕事を引き継ぐ人材を育成するために無限の資源を必要とすることになってしまう。
交換可能な会社員という職業は「自分探し」の手段になり得ない。したがって「自分とは何か」という問いが重要になればそれだけ、会社員という職業に特別な使命感を持つ人間は確実に少なくなる。その結果これまでは当たり前だった身の回りのものの品質が当たり前でなくなりつつある。結果として世界が単純さに回帰していくかもしれない。僕自身も会社員としての仕事に自分の存在理由が見つかるなどとはまったく考えていない。