月別アーカイブ: 2003年9月

高橋源一郎『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』

■片岡義男『日本語の外へ』といっしょに高橋源一郎大センセイの『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』(朝日文庫)という長いタイトルの書評を買っていたのだが、後からこの書評の中に『日本語の外へ』がとりあげられていることを知って驚いた。それにしても高橋源一郎大センセイの書評を読むと、ブンガクが読みたくなってくるから不思議だ。伊藤左千夫『野菊の墓』、織田作之助『夫婦善哉』、川上弘美『蛇を踏む』をたてつづけに読んでしまった。『夫婦善哉』には個人的になじみ深い新興宗教の名前が出てきたりして、時代こそ違うが、僕の生まれ育った大阪の下町を思い起こさせた。『野菊の墓』は映画化されてるくらいだから(映画は観たことがないが)クサくて読んでいられないような小説だろうと思っていたが、案外あっさりしていた(それでも最後のほうは登場人物が泣いてばかりいて単にしめっぽい物語だが)。川上弘美は夢で見るような世界、自他の境界があいまいで不条理なできごとがつぎつぎ起こるくせに、細かい道具立てはどこにでもありそうなものばかり、といった世界を、描写の対象と一定の距離感をたもったままの淡々とした文体で描いている。こういうのもありか、と思ったのは、たぶん僕が最近まったく現代文学を読んでいなかったからだろう。
■西欧人が仕事の日程計画をきっちり立てるようにうるさく言うのに対して、日本人はひどく働かされるのではないかと警戒するのだが、彼らが日程計画にこだわるのは、徹夜してでも仕事は期限までに終わらせろという日本人サラリーマン的な労働強化の発想からきているわけではなくて、本当にいまある人員でその期限に無理がないかどうかを合理的に検証し、もし無理であれば期限をうしろへずらすためなのだ。彼らは日本人管理職のように、どう考えても無理な期限を押し切ることはまずない。そうしなければ業務の品質が確保できないという、あたりまえのことをやっているだけなのだが、JR東日本の失態や、金融機関の大規模システムのトラブルなどを見るにつけ、単なる労働強化で厳しい期限を乗り切ろうという精神性はもう現実に通用しなくなっているのではないかと考える。昔のモーレツサラリーマンは、まるで新興宗教の信者のように会社に帰依し、私生活を犠牲にしてまで仕事に埋没していたかもしれないが、将来に夢も希望ももてない今のサラリーマンにそんなことを期待するのは無理というものだ。ところが経営トップやベテランたちの世代は、それを無意識のうちに当たり前こととして仕事をすすめるので、現場で作業をする若い世代と決定的な認識のズレを生じているのではないか。テレビで頭を下げている経営陣を見ても、どうせあの人たちは現場を責めることしか考えていないのだろうな、自分の責任なんてじつはちっとも考えていないのだろうなと、しらけた気分になる。

あまりに違いすぎる

■あまりに違いすぎる。先日部内の定例打ち合わせで「チャレンジについての言語学的考察」のプレゼンテーションをした。なぜこんなことをするのかというと、業務上わが部にとって「チャレンジ」とは何かということになり、それにはまず「チャレンジ」という言葉の定義を理解しておく必要があると西欧人の上司が提案した。そこで「チャレンジ」という言葉について考えるワークショップが開かれたのだ。読者のみなさんはすでによくご存知のとおり、僕はこの種の言語フェチ的な思弁が大好きなので、嬉々としてプレゼンを行った。ところがこれが同じ部の他の人たちには難しすぎると極めて不評で、楽しめたのは僕とその西欧人の上司だけらしかったのだ。しかも今後はこの種のワークショップを二度とやらないということになってしまった。あまりに思考様式が違いすぎるのだ。隣の同僚は最近年のせいか頭の働きが悪い、テレビで乾燥ニンニクがシナプスを再生させると聞いたので、最近食べるようにしたら気のせいか頭がさえてきた、と語りながら、昼食にインスタントラーメンを食べて塩分たっぷりの汁まで飲み干している。腸の調子が悪いとこぼしていた日も、とても胃腸に良いとは思えないインスタントラーメンをやはり汁まで飲み干していた。言っていることとやっていることが完全に矛盾している。その矛盾にさえ気づかないのだから、言語学的考察なんて知ったこっちゃないのは言うまでもない。たしかにフランス現代思想までかじっておいて、サラリーマンなんぞになった僕の方が悪いのだ。以前から書いていることではあるが、サラリーマン社会は僕の住む場所ではないが、これ以外に適当な食い扶持を稼ぐ手段も見つからない。引退するまでよそ者ということだ。

今日となりに座っている日本人の同僚に

■今日となりに座っている日本人の同僚に、「わが社と実績のある取引先って、英語でどう書けばいいだろう」と質問された。どうやら「実績のある」という英語の形容詞がないかどうか、オンラインの和英辞典で検索したが見つからなかったようなのだ。これは、英語での表現に困っている日本人に日常的に観察できる現象で、どうしても日本語の単語と一対一に対応する英単語をさがそうとしてしまうらしいのだ。その同僚の英語力があれば、冷静になって考えれば答えはすぐ見つかるはずである。たとえば「…the vendors that had several contracts with our company in the past」など、簡単な単語ばかりをつかって「実績のある取引先」という日本語をじゅうぶんに表現できる。無理にむずかしい英語の形容詞や名詞を覚えようとするから、ますます「英語はむずかしい」ということになってしまう。ちなみに同じその人は自分の意見を言うとき、必ず「My imagination is …」とか「My thinking is …」と言う。それを聞くたびに僕は、「I think …と言えば済むことなのになぁ」と不思議に思っている。

英語を使っての会議中に

■英語を使っての会議中に、日本人が言いたいことをなかなか英語で表現できずに、言葉につまったままになるという場面によく出くわす。そういうとき、その日本人が自分の英語力のなさをくやしく思っていることが手に取るようにわかる。職場で西欧人と日本人のコミュニケーション不全が問題にされる場合、多くの場合日本人の英語力の不足がその原因とされる。しかし、日本人が英語で西欧人に何かを伝えようとして言葉に詰まる場合、その90%は語学力不足の問題ではない。言いたいことそのものがあいまいなのだ。言いたいことがあいまいなままでも、日本語を使う限り「玉虫色の表現」を駆使して好きなだけごまかすことができる。そのせいで自分が明晰な思考をしていると勘違いしてしまうのだ。そのため、英語で自己表現しようとする日本人のほとんどが、「自分は思考は明晰だが英語力が足りないだけなんだ」という勘違いをしてしまう。そういう勘違いをしている人を判別する一つの方法は、日本語でしゃべらせたときに話が長いかどうかということだ。一つの事柄について日本語で簡潔に話せない人は、英語力以前の問題として、明晰な思考力に欠けている証拠だ。日本語で自分の考えを簡潔に表現できる人は、それを英語で置き換えるのに困難を感じることはない。英語での意思疎通を上達させたいという人は、英語を勉強するよりも、まず日本語で簡潔明瞭な自己表現をする訓練をすべきである。英語力の不足を言い訳にして、自分の思考のあいまいさをごまかすべきではないのだ。
■先日僕の背後で、年配社員二人が西欧人の言行についてグチをこぼしあっていたのだが、相当ひどいことを話していた。僕の職場の西欧人は、日本的な「あ・うんの呼吸」が無責任という悪い結果を産まないようにするために、意図的に「すべてを言葉で表現する」という戦術をとっている。すべてを言わなくても分かり合える日本人からすれば、そうした西欧人は細かいことまで説明しないと分かってもらえない難しい相手ということになる。年配社員の一人はそういう西欧人の一人を「察しの悪い人」と表現して、「すべてを言葉にして説明しろしろと言うけれど、単に察しが悪いだけじゃないか」と評した。ひどい評価である。すると相手の年配社員は「日本人なら『おい』というだけでお茶が出てくる」という、これまたひどい例示で激しく同意していた。「おい」だけで夫婦の会話が成り立つと思っているから、熟年離婚で累積した誤解の復讐をうけることになるのだ。教育的配慮から意図的にすべてを言葉で表現する努力をしている西欧人を「察しの悪い人間」と評する方こそ「察しが悪い」し、夫婦間のような対人関係を企業の中に平気で持ち込もうとする発想も理解に苦しむ。こういう年配社員に限って、自分たちがいかにその企業特有の暗黙の了解事項にどっぷりつかっているかを客観的に評価できない。コミュニケーション不全は、何も西欧人と日本人の間だけの問題ではない。僕のような中途採用者にとっては、自分が長年過ごしてきた企業文化を相対化できない年配社員も、西欧人と同じくらい「異なる」人々なのだ。こちらはそのコミュニケーション不全を意識的に克服しようとするのだが、あちらは僕が日本人なだけに、すべてを言わなくても分かるはずだと思い込んでいるので、かえって困難な状況だとも言える。この場合にもやはり問題は、西欧文化をどれだけ理解できるかではなく、自分自身の文化的背景(日本文化や企業文化)をどれだけ明瞭に説明できるかということなのだ。
■僕は心霊写真などオカルトのたぐいはまったく信じない。しかし会社で仕事をしていると、電子メールや会議の場でオカルト用語がしばしば登場する。そのたびに僕は、自分が一般企業ではなく宗教団体で働いているのかもしれないと考える。たとえば「魂」という言葉。職場というのは最終的に会社の利益に帰結するかどうかということにもとづいて機能しているはずだが、そのような環境で「魂」などというオカルト的な言葉を使う思考回路が、僕にはどうしても理解できないのだ。今まで特定の一人だけだと信じていたのだが、どうやらその人が所属する部署では一般的な業務用語として「魂」という言葉が使われているらしいことが、最近の電子メールで判明した。はっきり言ってショックだった。良い意味でも悪い意味でも非常に日本的な大企業として、西欧的な企業文化に対して強いアレルギー反応を示したくなるのはやむをえないとしても、それを「新しい制度を入れたとしても社員の魂に響かなければ」とか、「新しい規則を作っても、仏つくって魂を入れずになってはだめだからね」とか、「魂」という定義不可能な言葉を使うことで自分の態度をあいまいにするのは無責任きわまりない。説明責任を果たしたいのなら、同じことを「魂」という言葉を使わずに説明すべきだろう。「魂」という言葉を使っている当の本人が説明責任の重要性をいくら口にしてもまったく説得力がない。似たような表現で「理解できるが納得できない」という言い回しもよく使われる。この表現が使われる場合は二つに分類できる。一つは本当は理解できないのだが、それを認めたくないために言い訳として使われる。日本的無責任の典型のような表現である。もう一つの場合は理解した上で反対なのだが、反対の理由をはっきり述べられないために言い訳として使われる場合だ。なんとなく反感はあるが特に理論的な理由があるわけではない、ということなのだろう。「魂」にせよ、「理解」と「納得」の奇妙な使い分けにせよ、これらの言葉を使っている人たちがいかに論理的思考能力を欠いているかをよく示している。こういった不正確な言葉づかいや、オカルト的な言葉づかいをする人たちに、論理的思考について述べる資格がないことは明らかだ。彼らは「魂」などの言葉を使う自分たちの思考がいかに非論理的かを自覚する能力さえない。本当に論理的思考を身につけたいと思うのなら、まずオカルト的な言葉づかいをやめることから始めるのがよい。
■ということで、再び日本語のあいまいさが主題化されたので、新橋の書店で偶然目に留まった片岡義男『日本語の外へ』を文庫で読み始めた。片岡義男を単なる流行作家だと言って侮ってはいけない。以前このページでも触れたように高橋源一郎センセイの評価は意外に高いのだ。

勝負事一般に興味なし

■阪神タイガースが優勝したが、小学生時代は『月刊タイガース』を定期講読するほど熱烈な阪神ファンだった僕も、中学生以降は野球をはじめとしてスポーツ全般に興味がなくなった。瞬間が勝敗を決する高揚感を共有できないので、野球に限らずあらゆるスポーツに熱中できない。たとえ瞬間が勝敗を決しないような、たとえば囲碁将棋のたぐいでも、勝負事一般に興味がないのかもしれない。
したがって概して勝ち負けが物語をもりあげる構成になっている少年漫画にもまったく興味を惹かれないし、公営ギャンブルやパチンコも同様だ。平家物語ではないが盛者必衰なのだから、勝利に高揚したところで無駄である。どうせ騒ぐなら騒ぐために騒ぐ、盛り上がるために盛り上がる、自己目的化した純粋なお祭りであるべきだと考える。