月別アーカイブ: 2003年6月

『日経コンピュータ』に富士通特集記事

■Until today I received 323 e-mails from my dear readers which request for access to member’s only area. I can’t express my appreciation too much.
■『日経コンピュータ』の最新号に大手コンピュータメーカF社はどうすれば復活できるか、という記事があった。毀誉褒貶の激しい企業について、誰の言うことを信用すればいいのかというのは難しい判断だ。僕のように会社員の社会ではまだ底辺からの方が近い位置にいる人間は、一般社員や現場担当者の見解しか正当に評価できない。逆にF社経営陣や、その顧客企業の経営陣は互いの見解しか正当に評価できないだろう。
この記事の中で最近まで社長だったF社会長は、はからずも基本的な物の考え方を披瀝してしまっている。つまり、うちの会社は顧客企業の経営陣に理解してもらえればそれでいい、現場の担当者レベルの意見は聞くに値しない、という考え方である。これは以前、同じ人物が、うちの社員はあまり働かないとこぼしていた事実と一致する。
さらに同誌の記者がF社への提言として書いている3点のうち1点、もっと社員の満足度を真剣に考えるべきではないか、という点とも一致する。F社は社員のモチベーションの平均値を引き上げることに失敗している。たしかに一部には高い動機付けを維持している社員がいるかもしれないが、製品やサービスの品質を左右する現場のシステム技術者も含めた組織全体としての動機付けの水準は高いと言えるだろうか。にもかかわらず経営陣はその失敗を認めず、経営をしつづけているということだ。
上ばかり見る管理職がそろっていた日本的企業が、いきなりトップダウン型の経営に転換したときに、おちいりやすい誤りだ。上ばかり見る管理職の群れと、現場社員を軽視する偽のトップダウン経営は、実は相性がいい。トップダウンとは現場社員を軽視することではない。おそらくF社の経営陣はそれを分からないまま苦しんでいる。

三浦俊彦『論理パラドックス』

■今日、三浦俊彦『論理パラドックス』を読み終えたが、残念ながら後半ほどつまらなくなる。ほとんど詭弁としか読めない一人芝居の議論が延々と続くので辟易した。前言撤回で、みなさんはこの本を読む必要はない。あるいは、最初の30ページくらいだけ立ち読みするのもいいかもしれない。
やはり形式論理学の本は定義上、純粋に形式的な本であって、時間をかけて考える必要のある事柄は何も含まれていない。論理学は一度誰かが妥当な結論を導き出せば、その問題について別の人が考える必要はない。他方、形而上学は考える人によって思考の形式が異なるが、結局は同じことを論じているように見える。

岩波文庫今年の夏の重版

■岩波文庫の今年の夏の重版は、なぜが外国人の日本滞在日記ものがやたらと多い。イラク戦争、北朝鮮と外交問題が頻繁に取り沙汰されているので、この際、100年前の外国人が日本をどう見ていたか振り返ってみようという趣旨だろうか。また、春の重版に引き続き、尾崎紅葉の小説がまた1冊出る。『伽羅枕』で、紅葉初の長編小説とのことだが、明治二十年代前半の作で文語文なので今はちょっと読む気がしない。連休など仕事が完全に頭を抜ける時期に読むことにしよう。

■Curr

■Currently I’ve received 273 e-mails which request for access rights to members’ only area I’ll soon open. Thank you for your e-mails. I’m very happy to know that so many people are looking forward to my updating this diary every day. Some readers even say that they can’t imagine a life without this web site. I’m also very glad to know that I can make somebody’s life brighter without speaking out. People can influence the world without any voice.

会員専用領域の閲覧申込みだが

■会員専用領域の閲覧申込みだが、現時点で224通のメールを頂いている。いろいろな方が添えてくださった激励(?)のメッセージに重ねて御礼申し上げたい。この「愛と苦悩の日記」を会員専用にする作業は今週末にでもやろうかと思っている。希望される方はこちらのフォームからあなたの電子メールアドレスだけを通知して頂きたい。
■会員専用領域にして何が変わるのかという素朴な疑問に対しては、書く方も読む方もごくわずかではあるが参画意識の強さが変わるのではないかと考える。少なくとも筆者としては不特定多数向けに書くのとは大きな違いがある。テレビ局のスタジオでタレントが、テレビカメラの向こう側にどれだけの視聴者がいるのか意識できないように、不特定多数に書くときは自分が誰に向かって書いているのか意識することが困難だ。他方、会員に向けて書けば、200余人がそれぞれ端末の前に座っている様子を意識しながら書くことができる。実際に顔が見えるわけではないが、200人収容のこじんまりしたスタジオで公開録画をすることに例えられるだろう。読者としてはわざわざ申込みという行為を経ており、しかも読むたびにログインする必要があるから、自らの選択でこのページを読んでいるのだという事実を意識せざるを得ないだろう。たかがこの程度のこと、コミットメントと言うのもおもはゆい些細なことだが、インターネット上で実現されるコミットメントの強度はそもそもこの程度かもしれない。
■と、さりげなく前置きをした上で、この週末は『論理パラドックス』の他にもう一冊、ヒューバート・L. ドレイファス『インターネットについて――哲学的考察』(産業図書)を読んだ。著者は米国にハイデッガー哲学を紹介した研究者として有名で、コンピュータに関する論考としては『コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判』という著書もある。『インターネットについて』は、インターネットをプラトン以来、デカルトを経て現在まで根強い、身体に対して魂を優位に置く思想の延長線上にあると見なし、真正な経験は現実の環境に置かれた身体を通じてしか獲得できないと書いている。インターネットには何ができないかを、主にメルロー=ポンティ、キルケゴールを援用しつつ書いている。ただ、1日で読破してしまったことからもお分かりのように、議論の背景にある動機付けは極めて単純だ。要は、インターネット上での仮想的な経験は真の経験にはなり得ないということを言っているだけで、それを論じるのに果たしてキルケゴールまで持ち出す必要があったかどうか。ところで本書は哲学的考察である以上、インターネットはその本質からして人間に本物の経験を許さないという「権利上の問題」を論じている。これに対して僕らは、ドレイファスなら錯覚や錯誤とでも呼ぶだろう判断によって、インターネット上での経験があたかも本物の経験であるかのように受容されてしまう状態を考えることができるだろう。いや、実際にそういった錯覚や錯誤が世界中のいたるところで起こり、インターネット上での恋愛を真の恋愛だと「誤解」している人が少なくないとすれば、「事実上の問題」としてインターネットは必ずしもドレイファスが論じるような限界を持たないとも言える。仮想的な対象の内に実在を「誤って」認識してしまうのは、いわば偶像の中に神の実在を信じてしまう偶像崇拝や物神化である。インターネットは十分物神化の対象たりえる魅力的な対象だ。だとすれば、ドレイファスがインターネット上での経験の対極として、キルケゴールの言う宗教的な体験を援用するのも無理はない。一神教の世界、誤認の許されない世界においては、なるほど身体の実在に体験の現実性の根拠を求める選択肢しかないだろう。しかし誤認や錯誤が現実に起こってしまう現実の世界においては、仮想的な存在に体験の現実性の根拠を求めることが起こっているのだ。ドレイファスが理想的な状態として記述するのは、すべてのインターネットの利用者が、インターネット上での体験をニセモノだと割り切るだけの良識を持ち合わせている状態だろうが、このような状態そのものが実際には起こり得ない虚構であり、錯誤や誤認に満ちた状態こそが現実なのである。