月別アーカイブ: 2002年12月

高杉良『金融腐蝕列島(上)(下)』

■高杉良『金融腐蝕列島(上)(下)』(講談社文庫)を読み終えた。主人公の竹中が総会屋対策や不良債権の回収業務を担当することで、日本金融業界の闇の世界に巻き込まれる。登場人物の人間関係に一貫した流れはあるが、オムニバス的に「悪のショーケース」といった様相を呈する。
フィクションには違いないが、むしろドキュメントとして読めた。銀行員のようなリスクの高い仕事は高給でなきゃやってられないのかもしれない。つくづくシステムエンジニアは平和な仕事である。不良債権というバブルの負の遺産を一掃するのがいかに困難か、暗澹たる気分が残った。
ちなみに佐高信の解説によれば、この小説の主人公とたまたま同名の現大臣、「一月一日に日本にいなければ住民税を払う必要がないとして、竹中は八年間に八回の住民票移動を繰り返した」り、「彼はこの会社(=日本マクドナルド)を将来性があるとし、そのためか、未公開株を”適正な価格”で受け取った。
同社はその後上場し、株価もハネあがったわけだが、リクルート事件で大問題になったこのやり方を竹中は踏襲している」とのこと(同書下巻377ページ)。参考までに引用しておく。ところで僕の冬休みの読書予定、堺屋太一『団塊の世代』、夏目漱石『門』、あとは明治文学をいくつか読んでみたいと思っている。

米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した滋賀県豊郷町立豊里小学校の校…

■米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した滋賀県豊郷町立豊里小学校の校舎は、保存を主張する住民側と、解体工事を推進する町長側で裁判沙汰になっていたが、2002/12/19に大津地方裁判所は、工事差し止めの仮処分を決定した。にもかかわらず町は12/20、仮処分を無視して解体工事を始めるという、法治国家・日本で起こった出来事とは思えない暴挙に出た。結局、同日の夜になって、大野和三郎町長は解体工事を当面中止すると発表したが、大野町長リコールの日は近いだろう。一体この町長は何を考えているのか。住民の意思を無視して町政など成り立つはずがないと思うのだが。豊郷町のホームページを見ると、町長からの一言として、町庁舎内を禁煙にしたことは住民に対する行政サービスの一環であると誇らしげだ。たかが禁煙を...。

消費者金融のテレビCMが多すぎるというのは前からこの日記にも書いていたことだが

■消費者金融のテレビCMが多すぎるというのは前からこの日記にも書いていたことだが、とうとうNHKと日本民間放送連盟(民放連)が運営する第三者機関「放送と青少年に関する委員会」が今日、安易な借り入れを助長する恐れがあるとして、夕方からゴールデンタイムの時間帯の放送自粛を求める見解を発表したとのこと(Yahoo!Japanの社会ニュースによる)。この記事によるとどうやら消費者金融のCMは各局とも放送を自粛しており、1990年代に入ってから解禁されたとのこと。つまりバブルが崩壊して広告料収入を確保するためにテレビ局も背に腹が換えられなくなったということだろう。ただ、これもこのような団体が圧力をかけるのではなく、経済原理に任せるという手もある。ここまでの動きになるということは、僕のように消費者金融のCMを不愉快に思う視聴者が確実に増えているという証拠でもある。消費者金融各社のCMは負の宣伝効果を生じ始めているということだ。広告の費用対効果が減じれば消費者金融各社は自ら広告を減らし始めるだろう。個人的にはこのような見解が発表されたからと言って、テレビ局が応じる必要はないと思う。
■と、いうようなことを書いていてふと思ったのだが、なぜアダルトビデオメーカのテレビCMが存在しないのだろうか。アルコール飲料も未成年が飲んではいけないにもかかわらず堂々とCMをやっている。これはよく考えれば驚くべきことだ。つい最近までタバコのCMも何でもないように放送されていた。タバコは現実に健康を害する嗜好品なのだから、実はアルコール飲料のCM以上に驚くべきことなのだ。タバコに比べればアダルトビデオは直接健康を害するわけでもない。かつてのようにいかがわしいスター監督が個人的な性的嗜好のままに撮影するような個人商店ではなく、最近ではアダルトビデオそのものにさして興味のない経営者が、純粋に事業として手がけている一般的なベンチャー企業のようなレーベルも出てきている。もちろんテレビCMにヌードを登場させるわけにはいかないから、タバコのCM同様、イメージ映像だけになるだろうが、別にCMを流したっておかしいことは何もないと思うのだが。現実にはポルノグラフィに市民権を与えることに抵抗を感じる人が大多数なので無理な話だろうが、ポルノより高利貸の方が市民権を得ている社会が、本当に健全かどうかは極めて疑わしいと思う。
■先日少しふれた明治文学全集の廣津柳浪の巻で『残菊』という初期の短編を読んだ。肺結核で生死の境をさまよって奇跡的に命をとりとめた若い既婚女性が読者に向かって語りかけるという形式をとっている。完全主観の形式で辻褄の合う小説を組み立てるのは、一般的な「神の視点」の小説よりは難しい。しかも病気が進行して意識が混濁し、小説の終わり近くで主人公は過去の回想とも幻想ともつかない夢を見る。作者の廣津自身、こうした初期の主観的な小説から、後期の客観的な深刻小説群への移行を「成熟」と評価しており、後世の評価もそうなっているようだ。しかし僕としては『残菊』のような、ある意味で実験的な小品に日本近代文学の黎明期の輝きを楽しみたい。
■廣津柳浪と並行して、高杉良『青年社長(上)(下)』(角川文庫)を読んでいる。文学作品としてはまったく面白味に欠けるし、凡庸な描写に読んでいるこちらが赤面することもあるが、起業家を主人公にした成功物語を読むと単純に元気が出てくるので、最近ではこういったものも読む価値はあると考え始めている。ちなみにこれはワタミフードサービスの実名小説である。

高杉良『勇気凛々』の前時代性

■『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』の口なおしに永井荷風ではなく高杉良『勇気凛々』(角川文庫)を読んだ。節操のない読書で申し訳ないが、この小説は実在の企業ホダカ株式会社の創業者をモデルにしている。
ホダカ株式会社は埼玉県の越谷流通団地に本拠を置き、マルキン自転車のブランド名で有名。ブリジストンやパナソニックなど完成品メーカと異なり、中堅自転車メーカから仕入れた自転車を、高度成長期のイトーヨーカ堂と提携して販売するという商社的機能から始まった会社。
小説はバイタリティーあふれる武田社長の成功物語を軸に展開する。サラリーマンが読んで元気の出る小説であることには違いないが、筆者の脚色なのかどうか知らないが、主人公の武田は私生活の面では、バーのママだった香栄子に本気で入れあげて、二男をもうけた妻と離婚する。
結果的に香栄子は武田の企業家としての成功を支え、あとがきに経済評論家の中沢孝夫が書いているように、彼女の「超人的、献身的な協力は”こんな女がいないかなあ”とだれもが思うだろう」といった女性なのだが、主人公の身勝手で捨てられた前妻はインテリで自尊心が強く勝ち気と、小説中ではさんざんな書かれようである。
実業家にとって都合のいい女を持ち上げ、前妻のような「普通の」女性を必要以上におとしめる書き方は価値判断として公正さを欠き、高杉良の倫理観を疑わせる。だから僕は経済小説や時代小説を安心して読めないのだ。高杉良も、いちど女性企業家を主人公にして小説を書いてみたらどうか。少なくとも武田氏のような成功物語が手放しで評価される時代ではなくなっていると、僕は思うのだが。サド公爵が諧謔と韜晦の限りを尽くして描写している女性の奴隷的地位を、こうした経済小説では「本気で」称揚しているというわけだ。どちらが「前時代的」だろうか。