月別アーカイブ: 2002年11月

六義園で撮った写真

■六義園で撮った写真のプリントが仕上がってきたがKONICAのネガフィルムで撮影した分は発色が最悪、SUPERIA400で撮影した分は雨上がりの曇天、かつ森の中で光量が足らず、手ブレしまくって全然ダメ。やはり三脚を担いで行くべきだったようだ。悔しくて来週は旧古河庭園へでも行ってやろうかという気になる。目に見えているものをそのまま再現するだけのことに何故これだけ腐心しなければならないのか。

横光利一『日輪』

■横光利一『日輪』を読んで岩波文庫一冊読了となった。この『日輪』、神話を真似た即物的な文体(解説によればフローベールの『サランボー』の影響が強いらしいが学生時代にフランス語を第一外国語にしていたくせに僕はフローベールがどうも好きになれなかった)と卑弥呼の時代という舞台設定はたしかにファンタジー小説っぽくて実験的な読み物として面白いが、これが芸術作品かと言えばそうじゃないんじゃないかという気がする。要はあまり好きになれなかったということだ。

駒込の六義園を訪れた

Rikugien紅葉の季節ということで雪の鬼怒川の意趣返しをもかねて駒込の六義園を訪れた。いかにも日本庭園然とした人工的な山水は地下鉄都営三田線・千石駅に近い方の正門側を入ってすぐだが、JR駒込駅側の門から入ったために鬱蒼とした森の中に紛れ込んでしまった。意図的に山林を再現したのか、もとあった森を囲い込んだのか判然としないが、一見雑然と折り重なる紅と黄のグラデーションは美しいことには違いなかった。都営地下鉄の駅貼りポスターには浜離宮も紅葉の名所のようなことが書いてあるが六義園の足下にも及ばない。わざわざ鬼怒川くんだりまで旅することはなかった。

日本語の「出来る」の語源

■朝方NHK教育ラジオを聴いていたら民俗学入門のようなことを話していた。日本語に現れた日本人の思想というテーマで、「こんど結婚することになりました」「できる」の2例がひかれていた。結婚するのは当人たちの意思に違いないのに、まるで状況がそうさせでもしたかのような「~することになった」という言い方。そして本人の能力をあらわす言葉であるのに、「どこからか出て来る」という語源をもつ「出来る」。
いずれの日本語にも、非人称の存在のあらがい難い力という思想が根底にあるという。その非人称の存在は「世間」と言っても「空気」と言ってもいいだろう。職場で西洋人といっしょに仕事をすると、このように日本語そのものに織り込まれた、決して悪い意味ではない「無責任の思想」と戦わねばならないというわけだ。

最近明治文学を気に入っているわけ

■最近明治文学を気に入っているのは、それが近代日本の青春時代だからである。青春時代は「私は誰か」というアイデンティティーの問題に悩む年代だが、グローバル化の今ほどそのことが再び強く問われたことは明治以来なかったのではないか、という考えが僕をして明治文学を読ませているのではないか。本棚からしいて明治文学を選択しているのは僕自身の意思であるにもかかわらず。