月別アーカイブ: 2002年9月

「~とか」という日本語に苛立つ

■ところで他人の書いた日本語を読んでいて毎度いらいらさせられることがある。「~や、~など」と書くところを「~とか、~とか」などと平気で書いてしまっているものを読んだときである。「~とか」というのは完全な口語で、とくに公の場に発表する書き言葉として使うべきではないだろう。
少なくとも僕は強い違和感を抱く。いくら立派なことが書いてあっても「~とか、~とか」という列挙表現に出くわすと筆者の品性まで疑ってしまうのだ。まさか「~や、~など」という言い方を知らないわけではあるまい。にもかかわらず「~とか、~とか」という言い方を選択するというのは、あえて口語を書き言葉にするという筆者の意思が働いている。その意思が理解できないのだ。人目にさらすのだからすこしでも良い日本語を書こうという気が働かないのだろうかといつも不思議に思う。

菊池寛『真珠婦人』

■いつの間にか「文学モード」がやや脱線して「通俗小説モード」に変わり、菊池寛の『真珠婦人』を読み始めた。今春からフジTVの昼メロで話題になったために、新潮文庫と文春文庫の両方から文庫版が発売されているが、川端康成があとがきを書いているということで後者を購入した。先日フジTVでその昼メロの総集編を放送していたのを偶然見始めたところ、あまりのくだらなさにハマってしまったのが原作を読もうと思い立った原因だ。
川端康成の解説にもあるように『真珠婦人』はれっきとした通俗小説だが、ドラマの脚本は原作に対してさらに大幅に通俗的な脚色を加えている。ドラマを見ただけで菊池寛がこんなひどい通俗小説を書いていたのかと判断するのは早すぎる。実はちょうど今さしかかっている箇所で登場人物がまさに明治時代の「通俗小説」について議論を闘わせているのだ。その中では紅葉山人の『金色夜叉』がこてんぱんに批判される役回りである。菊池寛は自分が新聞にこのような通俗小説を連載しながら、やはりかつて新聞に連載された『金色夜叉』を「通俗小説」だと登場人物の言葉を借りて断じているのだから事情はそれほど単純ではない。

IDS Sheer社「ARIS」解説書

■仕事関係ではドイツのシュプリンガー・フェアラークという会社が開発したビジネスプロセス・モデリング手法「ARIS」の解説書を読んでいた。現実の業務への適用可能性を重視したモデルになっているためか、さまざまな抽象度レベルの議論が混合しており、理論として見たときにはUMLほど「美しく」ない(といって僕もUMLは5年前に企業内の研修で空調の制御システムをモデリングするというケーススタディで2日間体験しただけなのだが)。
UMLは抽象度が高いため道具としてのクセがなく、業務処理から制御系まで汎用的という印象だが、ARISは業務処理のモデリングにしか使えそうにない。オブジェクトモデルの表記にUMLを使ってこそいるが、ARISは基幹業務のモデリング専用のツールと考えた方がよさそうだ。
また解説書の記述そのものが米国のありとあらゆる理論の非体系的な寄せ集めで、翻訳のひどさとあいまって決して読みやすいとは言えなかった。Javaアプレットをモデルの一部に組み込んでしまっているのはご愛敬。だって今どきJavaアプレットが業務プロセスを実装するための主要技術であると信じている人などどこにいるだろうか。

大江健三郎『宙返り』

■先週末の「文学モード」になりついでに読まずにおいたままだった大江健三郎『宙返り』を読み始める今週だった。ただ宗教家を主人公とする物語が今の僕の生活にとってあまりにリアリティーがなさすぎ、いつまで読み続けられるかまったく自信がない。

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

■この週末は土曜の夜にテレビで映画『グリーンマイル』など見たせいか完全に「文学モード」に入った。ここで言う「文学モード」とは人間は死すべき存在であるということを認識し、それに比べれば日常の感情の浮沈など取るにたらないと考えてしまうモードのことだ。この状態が長く続くとしまいには生きていること自体が無意味に思えてくるので、危険といえば危険な状態である。
さてなぜ「文学モード」に突入してしまったのか。初めて見た『グリーン・マイル』そのものは例によって露骨な描写と大げさな演技で、品位もデリカシーもないハリウッド作品にすぎず、公開当時どうしてあれほどの評判になっていたのか理解に苦しんだのだが、先週日本テレビで初公開されていた2001/09/11の世界貿易センターの内部からの映像とあいまって、改めてすべての人間は死すべき存在であることを再確認させられた。
僕と同世代の人々で、自分が明日死んでも何の不思議もないという当たり前の事実を毎日受け入れながら生きている人がどれだけいるだろうか。おそらく死などはるか未来のことだと意に介さずに生きているのではないだろうか。しかし、たとえば1995年の阪神大震災のように、そして2001年の同時多発テロのように、死は忘れたころに突然平穏な日常に割り込んでくる。
そういうつながりから昨日の日曜日は村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』を新潮文庫で読んだ。村上春樹を読むというのは大江健三郎を読むというよりややミーハーで恥ずかしいことなのだが(そういえば『宙返り』が読まれないまま放置されている)、村上春樹を読んだのは非常に久しぶりで、2000/08に『国境の南、太陽の西』以来だ。
ただし僕は決して村上春樹ファンではない。大江健三郎についてはエッセーも含めてその作品のほとんどを読んでいるが、村上春樹は『ノルウェイの森』『羊をめぐる冒険』『国境の南、太陽の西』そして昨日の『神の子どもたちはみな踊る』の4作品だけである。短編集『神の』は阪神大震災という大災害が遠くから人々の運命をもてあそぶという一貫した設定のもとに、絶望の中のわずかな希望こそ人々が生きのびる唯一の理由になりうるということを繰り返し書いている。
逆説的なことだが、人がその希望を見いだすためには一度は絶望の淵に陥らなければならない。かすかなろうそくの明かりが暗闇でしか見えないように。光の中を歩き続けている人々は、いつしか自分が光につつまれているということさえ忘れてしまう。