月別アーカイブ: 2002年8月

企業におけるITを活用した業務効率化は究極的には何のためかと問われて何と答えるか

■企業におけるITを活用した業務効率化は究極的には何のためかと問われて何と答えるか。最近の企業経営者なら「利益の最大化」、もう少し穏やかでも「適正な利益をあげること」と答えるだろう。資本主義のグローバル化は企業から利益の最大化(あるいはフリーキャッシュフローの最大化)以外の経営目標を奪ってしまったように見える。その結果、日本では大量の失業者が生まれ、生活の不安定な人々による犯罪の形で失業の社会的コストをじわじわと払わされつつある。個々の民間企業が効率経営を追求した結果生じる、このような社会的コストはいったい誰が、どういう形で負担させられるハメになるのだろうか。そもそもこうした社会的コストを数量化した上で今の社会(マスコミ?米国?)は企業に利益の最大化を推奨しているのだろうか。環境悪化で刑務所を建設しようと候補地を探したところ、自ら立候補する地方自治体が出てきたという。刑務所の建設はイメージの悪化が避けられず、昔なら考えられなかったことだという。刑務所を誘致しなければいけないほど、経済の原理が支配する世界になっているのかと思うと暗澹たる気分になる。

日経朝刊に蓮實重彦の現代日本批判

■今朝の日本経済新聞朝刊、文化面に前東大学長・蓮實重彦の文章が掲載されている。停滞する現代の日本社会を評して「そんな愚かなことはすべきでないという一言を回避しながら、無駄なエネルギーの浪費を労働の実践と勘違いすることで安定してしまう社会」、「そんな社会に欠けているのは『知性』にほかならず、その欠如は、『変化』の導入をいたるところで抑圧してまわる」と書いている。
本文を読んでいただければ分かるように、氏の省察は主に外貨をめぐってのものだ。知性の軽視が背景にあることは確かだが、一例として外務省の悪名高い体質はその源流に日本の近代化を支えた知性があることを忘れるわけにはいかない。知性を重視することが誤ったエリート意識をはぐくまないようにするためには、知性を担う側の倫理観こそ問われているわけだが、もしかすると『知性』に対する畏敬の念をもっとも欠いているのは、外交官を多数輩出している東京大学法学部ではないのか。
そして一方では誰もがたいした努力もなしにその『知性』を担いうるという誤った平等主義があることも事実だろう。平準化された、もはやそれを『知性』と呼び得ないような知性の普及に役立っているのが『サンデーモーニング』に代表されるようなマスコミであることは間違いない。

『サンデーモーニング』の牛肉買取偽装問題報道

■やはりTBS系『サンデーモーニング』のディレクターはさまざまな問題に関する洞察力のレベルが低いようだ。日本ハムの牛肉買取り偽装問題について、消費者の日本ハムに対する怒りの声に焦点を当てていたが、本質的な問題点を完全にはずしている。
狂牛病騒動に対して農水省が300億円の税金を投入して買取り制度を導入したが、当初買取り申請に必要だった牛の解体証明書を族議員の圧力で不要にするなど、農水省は偽装を許す方向に制度を意図的に甘くしたのだ。農水省がわざわざ抜け穴を用意することで、業界に対して買取り制度を悪用するように教唆したと言ってもよい。
逆説的な言い方をすれば、業界最大の日本ハムがその教唆に乗らないのでは、せっかく抜け穴を用意させた族議員の顔が立たない。そこにあるのは政・官・業一体の八百長試合であって、「消費者の信頼を裏切った日本ハム」という部分だけを切り出すのはとんだ検討違いだということがわかるだろう。
日本ハム製品を撤去する小売店もその検討違いに流されているだけということになる。というのは日本ハムの偽装は「本来安全な牛肉まで政府に買い取らせた」というものであり、BSEのおそれのある範囲以上の牛肉を余分に処分したということだ。つまり日本ハムの販売する製品は制度の悪用によって「必要以上に安全になった」ということなのだから、消費者に対する食肉の安全性を基準にするなら、日本ハムの製品を撤去するのは理にかなっていない。果たして単なる社会的制裁という意味で小売店が自主的に日本ハム製品を撤去するのは正しいことだろうか。
あるテレビ番組で高田万由子が指摘していたのだが、結果として撤去された大量のハム・ソーセージは食肉として何の問題もないはずなのに処分されてしまう。むしろ小売店は日本ハム製品を販売しつづけ、購入するかどうかの判断は消費者にまかせるのが正しいやり方ではないのか。
安全なハム・ソーセージが単に日本ハムという一企業を社会的に制裁するためだけに大量に処分されるという「ぜいたく」について、僕ら日本人は責任を感じなくてもよいのだろうか。こういう「ぜいたく」といった感じの切り口の方がよほど『サンデーモーニング』らしいと思うのだが、おそらく同番組のディレクターは所詮バラエティーのディレクターなのでそこまで考える洞察力がないのだろう。あるいはTBS全体の報道力が低下しているということか。

CAMEDIAのテレビCMでバズーカのような望遠レンズがマウントされた銀塩一眼レ…

■CAMEDIAのテレビCMでバズーカのような望遠レンズがマウントされた銀塩一眼レフをもった外国人の男とCAMEDIAの8倍ズームディジタルカメラをもったタッキーが、望遠レンズで遠くの標的に描かれたイラストの模様をのぞいて正しく答えた方が勝利(?)という内容のがある。CM的にはタッキーが勝ちにならなければおかしいのだが、現実に同じことをやったら間違いなく一眼レフの勝ちだ。CAMEDIA C-700 UltraZoomを使っていたことがあるが、オートフォーカスの合焦速度がAF一眼レフと比べると比較にならないほど遅いし、カメラのAFが迷ってなかなか合焦しないことがある。銀塩一眼レフに買い換えて最大の変化の一つは構図を決めてからシャッターを押せるまでの時間が短いということ。もちろん構図に悩む時間は増えたが、AFの合焦に待たされることがなくなった。ディジタルカメラ以前から銀塩一眼レフを使っていた人にとっては当然のことなのだろうが、デジカメから銀塩に持ちかえた僕にとってはEOSの合焦速度は小気味よいのだ。要するにあのテレビCMは大ウソだということが言いたかった。

『草原のマルコ』のリアレンジ要望

■近頃なぜかお気に入りの歌に『草原のマルコ』というアニメ『母を訪ねて三千里』主題歌があるのだが、誰か歌詞を変えてリメークしてくれないだろうか。たとえばこんなふうに。壮大なAメロはギターのアルペジオにストリングス伴奏で『アランフェス協奏曲』風に、力強いBメロは打楽器の低音が腹に響く重厚なテンポで。
とにかくAメロが良い。インターネットで調査したところ作曲者の坂田晃一氏は1960年代後半から70年代後半まで40本近く日活の映画音楽を担当しており、大部分がポルノ作品。それが1970年代なかばになぜか高畑勲作品『母をたずねて三千里』の音楽を担当、1984年には『おしん』の映画音楽。欲情を煽る音楽と涙を誘う音楽に共通点があるのか知らないが、『もしもピアノが弾けたなら』も氏の作曲。ではみなさんご一緒に。さん、はい、「はるかぁ~そぉ~げんにぃ~」。