月別アーカイブ: 2002年7月

これは20年前の話さ

■これは20年前の話さ。ロバート・パーマーが息子といっしょにMTVを見ていたんだ。マイケル・ジャクソンが出てきたとき息子は言った、「この人、歌うまいね」。父親は答えた、「そうだね」。次にブルース・スプリングスティーンが出てきた。息子は言った、「この人どうしちゃったの?」
■ここ1か月ほど仕事の関係で情報システム関連の展示会に多数参加したのだが、紋切り型の展示に食傷気味である。イベントプランナーの発想があまりに硬直的すぎるのだろう。メインステージで20分ごとの製品紹介プレゼンテーション、アンケートと引き換えのつまらないノベルティー(景品)など。技術知識のないイベントコンパニオンに明らかに原稿棒読みの製品紹介をさせるのは来場客に対して逆効果だろうし、来場者がノベルティーほしさで答えたアンケートに市場調査資料としての価値があるかどうかも疑わしい。露出度の高いイベントコンパニオンのコスチュームも初めのうちはうれしいかもしれないが、参加するイベント、イベントすべてに白いボディコンワンピースのコンパニオンがいるといい加減不愉快にさえなってくる(仕事で来場しているときにいちいち「煽情」されたくないのだ)。個人的には定時の製品紹介プレゼンはもっと技術的かつ専門的な内容のものを混ぜるべきだし、出展者企業の社員はサボらずに自分でプレゼン台に立つべきだ。美人がしゃべる方が客が集まるというのはイベントプランナーの思い込みでしかない。個別製品の説明は展示ブースの中の方へ人をかきわけて入っていかないと見聞きできないというのもダメ。もっとオープンな空間で、客がいなくても出展者が勝手にしゃべりはじめる方が来場客は興味を持って足を止めるはずだ。コンパニオンがアンケートや景品を配って無理やり客を引き止めるよりも、出展者がつねに短いプレゼンをブースの各所でPUSH型で垂れ流しにする方が、客の足を止める効果は高いのではないか。製品としての情報システムは自動車のように意匠先行ではなく中身の機能や技術の革新性が競争力なのだから、見た目の派手さより機能の訴求に重点を置いた展示になっているべきだ。機能をわかりやすく訴求するには一般的にシナリオにもとづいたデモが効果的なので、事例紹介や架空の物語にもとづく小劇のようなものが主流になるだろう。

銀塩一眼レフを使い始めて数週間になる

■銀塩一眼レフを使い始めて数週間になるが、やはり写真の魅力は「迂回性」とでも名づけたくなるような「まわりくどさ」にあるのではないかと再確認した。つまり肉眼で見ればそのまま目の前に見えているものを、わざわざ片目のレンズを通して撮影した上に、現像、プリントまでやらないと最終的な写真にならず、そこに写っているのはその場で見えていたもののごく一部分だけ。しかも適切な像を得るためには絞りだのシャッター速度だのいろんなことを考える必要があるし、35mm一眼レフカメラという機器そのものがとにかくかさばるし、重い。レンズも1本ではすまないし、三脚やフラッシュが必要になる場合もある。目の前に見えているものを撮影するだけでこれだけ面倒な回り道をしなければならないのだが、むしろこういう意図的な不便さや非効率性こそが趣味としての写真の楽しみなのではないか。シャッターを押すだけで完璧な写真がとれるカメラがあったとしてもそのカメラを使うことに何の楽しみも見出せないだろう。写真に限らず絵画にしても、今入力しているような文章にしても、対象を再現前(represent)する行為はすべて何らかの「迂回」を経ているからこそ、その迂回部分に再現前を行なう主体の意図を反映させる「遊び」が生じるということなのだろう。

日経ビジネスの最新号によれば59円ハンバーガーが実現できた背景に

■日経ビジネスの最新号によれば59円ハンバーガーが実現できた背景には、マックトーキョーなど利益率の高い商品を投入したこともあるという。先日僕が食してその貧弱さに絶句したプチパンケーキの原価率はなんとたったの10%、つまり原価の10倍の値段で売られているということだ。それでも企業イメージが落ちないところがマクドナルドの不思議さだなぁ。
■日経BP社の「SmallBiz」という中小企業向け情報サイトで株式会社武蔵野の小山昇社長が連載コラムを持っており、その中で顧客満足の説明のたとえとして「キャバクラ」を使う品性のなさを露呈しているのは先日このページでご指摘したとおりだが、最新のコラムで同社の経営に関わる重大事が判明した。小山社長はインターネット上に個人のホームページを持っているのだが、そのページの最上部に同社内で利用されているグループウェアのログイン画面へのリンクが張られている。サイボウズとスカイボードという2種類のグループウェア製品が混在しているのは社内情報システムの非効率性を露呈しているが、もっとも驚くべきことはログイン画面にSSLが利用されていないこと、そしてサイボウズの方でユーザ名がコンボボックスによる選択式になっていることだ。これではパスワード総当りプログラムを入手しさえすれば、株式会社武蔵野の社長としてさまざまな決裁を実行できてしまう。しかもコラムの内容によれば、この社長はパソコンショップに立ち寄って、インターネット接続されている展示機から社内システムにログインするのだというから、そのセキュリティーに関する認識の甘さには驚きをとおりこして言葉を失う。情報セキュリティーの認識がこれほどむちゃくちゃな人間が、中小企業のIT活用についてコラムの連載を持っているという事実。この事実こそ、日本のIT人材の貧困さをはっきり示している。

某大手企業がロータス・ノーツを使った社内の情報共有システムをマイクロソフト製品に…

■某大手企業がロータス・ノーツを使った社内の情報共有システムをマイクロソフト製品に全面移行しようと努力していたのは2年前。最近その後のうわさが耳に入ったのだが、実際にはExchange2000は電子メールとしてしか使われておらず、依然として情報共有ツールとしてノーツは健在とのこと。下手にマイクロソフト製品に移行しようとしたために、情報共有化ツールと電子メールが別製品という愚かしい事態になってしまったらしい。マイクロソフトの喧伝に踊らされず、もう少し綿密にフィージビリティー・スタディーをやるべきだったのではないかと思う。なお同社はシステムインテグレータのようなこともやっており、当時取引の会った顧客企業にもノーツからExchange2000への移行を提案していたというから、かなりお寒い状況ではある。
■先日、近所のロッテリアで昼食をとっていると隣のテーブルに母子づれがやってきた。母親の方は人間とはここまで肥満できるかというほどの体形で、伸ばし放題の髪はボサボサ、肌は垢汚れに黒ずみ、青のスェット上下にピンクのビーチサンダル。息子は6、7歳くらいでピンクのスェット上下、暑いのだか知らないがスェットの中に手を突っ込んでしきりに脱ぎたがっている。フライドポテトだけを注文したトレーをテーブルに置くと、母親はトレーをわきによけてテーブルの上にいきなりポテトをぶちまけた。息子は散乱したポテトをつまみ上げたり、テーブルの上にじかに唇を這わせたりして食べ散らかし、母親は床に落ちたポテトを後から拾っていく。飲み物は注文しなかったらしく、母子ともカバンに入れてきた水筒から凍らせた麦茶を喉を鳴らして飲んでいる。母親は両手を椅子に突いてひっきりなしに上体をゆらゆらと左右にゆらし、息子も黙々とポテトを食べつづける。無言のままで食事をする様子は人間の姿というより動物園で見るオランウータンのようだった。その母子が立ち去ってしばらく後、こぎれいな服装をした少女の姉妹が同じテーブルにやってきて「何だかきたなくなってるよ」と小声で言い合っていた。後から来た父親がナプキンで手早くテーブルの上を拭いた。そのロッテリアの近辺に広がる廃墟のような公営団地群を散歩して写真をとるつもりだったが、やはりやめにした。廃墟には廃墟にしか住めない事情をかかえた居住者がおり、それを興味本位で写真におさめることはできないと思った。
■昨晩あるテレビ番組を見ていて「注目する事実を発見!」というスーパーが画面いっぱいに映し出された。もちろん正しくは「注目すべき事実」である。この番組は取材VTRの内容を要約しながら進行されるのだが、その要約の文書が妙に格式ばった「~と心得よ」などの文語調になっている。そのくせ「注目する事実」などという間違った日本語を平気で画面に大写しにするのだから、テレビ業界関係者の日本語力低下も救いようがない水準に達している。
■横浜の花火に出かけて行き当たりばったりで三脚なしの花火撮影をした。f5.6、3″~6″、フジカラー SUPERIA 100。みなとみらい・クイーンズスクェアの表にある非常階段のような階段の途中に立ち上がって両手でしっかりカメラを構え、シャッターを押すたびに手ブレを起こさないように息を止め(健康診断のレントゲン撮影を思い出してしまった)1時間強撮影しつづけた。結果手ブレ写真は全体の3割くらいにおさまったが、例外なく像が小刻みにブレている。階段が鉄筋コンクリートではなく鉄製のため、少しでも高い位置から花火を見ようと客がひっきりなしに階段を昇っていくものだから、足場そのものがビリビリと震えつづけていたのだ。それに大観覧車ごしに花火を見ていたのだが、打ち上げ時間中、観覧車の電飾は消えていたとはいえその骨組みに反射した遊園地の明かりが花火におおいかぶさるように写っていた。花火をきれいに撮るなら横着せず視野に障害物のない場所を確保して、安定した地面に三脚を立てて撮影しましょう。ちなみにシャッターのタイミングを外している写真がほとんどなかったのは救い。
■過去の日記についてざっと「検閲作業」を行なっていたのだが、現在の日記との文体の違いに愕然とする。過去の文体の方がかなり軽い。もちろん最近は意図的にきっちりした日本語で書く努力をしているということもあるが、過去の僕はあえてリラックスした文体を選択していたわけではない。やはり根っこのところで保守化しているということなのだろうか。

週間文春の偏った都市再開発批判

■週刊文春2002/07/25号に「あなたの家の値段がガラッと下落する『法律』(1)」として都市再開発に対する批判記事が掲載されていた。この種の記事に典型的な論法で「都市再開発は周辺住民の意向を無視して行われ、住民は日照権などを奪われていいことなど何もない」という偏った主張がくり返されている。
実際には都市再開発によって恩恵を受けた人が周辺住民以上に多数存在するはずなのに、そちらの声は無視され、実際の被害を受けた人々や被害をうけたと思いこんでいる人々の声ばかりが取り上げられる。別に地元住民や周辺住民は再開発事業によって財産権を侵害されるわけではない。事業者に代替物件をあっせんしてもらうこともできるし、共同事業者として再開発事業に参加し、建物の完成後にその賃料収入を一部をもらうこともできる。
自分の家の近くで再開発事業の話がもちあがったら、積極的に共同事業者として参加した方がトクという考え方だってあるのだ。しかも再開発によって都心の道路が拡張されたり、住宅密集地の防災環境が改善されたり、都心を利用する大勢の人たちに恩恵がもたらされる。こういうプラスの面を完全に無視して、日照権がうばわれるだの、既得権益をうばわれる人たちの被害ばかりをクローズアップするのはいかにもかたよった見方だ。