月別アーカイブ: 2002年3月

読者の方から前回のS議員について訂正のメールを頂いた

■読者の方から前回のS議員について訂正のメールを頂いた。S議員は小選挙区ではなく比例区の当選者なので、地元の支援で当選したわけではなく、自民党内の名簿順が上だったから当選しただけだ。そのS議員が自民党を離党したのだから、たとえ小選挙区で自民党が対立候補を出さないという配慮をしたとしても、次回の選挙はS議員にとって非常に困難な戦いになるというわけ。もし当選するようなことがあったらS議員の地元有権者は国辱もの(なんと下品な表現だろうか)だ。

選挙に当選した議員が辞職するのは落選するときだけであってほしい

■選挙に当選した議員が辞職するのは落選するときだけであってほしいが、残念ながら落選以外のことで辞職する議員が存在する。昨日辞職した元社民党議員は政治資金規正法に抵触していたことが明らかなので辞職せざるを得ないのだろうが、議員は法に抵触していることが明らかになるまで辞職すべきでないと考える。その理由は二つ。一つは早く辞職してしまうと真相不明のまま終わってしまうから。二つめはその議員を選出した有権者の責任が問われないままになるから。後者の理由をもう少し説明しておく。たとえば自民党のS議員、いかにウサンくさい政治家であっても法に抵触していることが明らかになるまで辞職すべきでないと僕は考える。単に道義的に悪いことをしたというだけで辞職する必要があるなら、その議員を選出した有権者の一票は何だったのかということになる。そういう人間に票を投じて当選させた有権者が、他人事のようにその議員を批判するのは無責任以外の何ものでもない。S議員の地元民のインタビュー映像を思い出してほしい。テレビカメラの前でS議員を当然のように批判する地元民たち。しかしS議員を支援して国会に送り込んだのはあなたたちではないのか。S議員の責任は問われて、S議員を選出した有権者の責任は問われないままでいいはずがない。では有権者の責任の取り方とは何か。それはマスコミの尻馬に乗って手のひらを返したようにS議員を非難することではなく、自らの投票行動の誤りを認め、次回の選挙でS議員を落選させることではないのか。有権者が自らの投票行動に責任をとらなくていいということになれば、民主主義は根本からくつがえされることになる。裏を返せば、かくも無責任な国民が票を投じるのだから、S議員のような議員が誕生するのも無理はない、ということになる。この国民にしてこの議員あり。議員の不正が次々と明らかになる泥仕合を、まるで議員たちだけの責任のようにして非難するわれわれは、彼らを国会に送り込んでしまった有権者としての自分たちの責任を忘れてしまってはいないか。某社会党議員の辞職を当然だと書く今朝の日経の社説も大同小異である。
■勤務先のオフィスビルの近くにある電話ボックス。繁華街が近いせいか、デリヘルの小さなビラが一面に貼り付けられていることがある。ある日、そのビラを薬品を使って3人がかりではがす作業をしているところを通りがかった。数日後、ピンクビラを追放しましょうというスローガンの書かれたゴミ箱が設置されていた。さて、3人がかりで1時間以上かけてビラをはがす作業をするより費用対効果の高い方法が本当にないだろうか。いや、ある。電話ボックスのガラス一面に透明なシートを貼っておけばよいのだ。ビラが貼り付けられても、シートごとはがせば数分で清掃作業は完了。その跡にまた透明なシートを貼っておけばよい。3人分の人件費よりもはるかに安上がりで電話ボックスがすばやくきれいになる。しかしNTTが現実にとった対策は、3人がかりで清掃した上にゴミ箱を設置するというものだった。NTTの職員はピンクビラを貼る人間たちが「改心」してくれると信じてしまうほどナイーブで楽天的なのだ。おそらくピンクビラは貼りつづけられるだろうし、通行人の良心を信じてピンクビラを待ち構えているゴミ箱は、そのうち紙くずや空き缶でいっぱいになるだろう。以前ここで批判した公共広告機構のテレビCMにしてもそう、人は簡単に改心するものだという楽観主義がかえって悪い状況を作り出す好例だ。このオフィス街で働く普通の人たちは、単に美しい電話ボックスを求めているだけであって、ピンクビラを貼る悪人を不要なコストをかけてまで改心させたいわけではない。なのにNTTは悪人を改心させようと余分なコストをかけ、そのコストは最終的に普通の人たちと悪人の支払う通話料金に転嫁されるのだ。先の公共広告機構のテレビCMも同様、悪人を改心させることに何の効果もない代わりに、満員電車に乗る普通の人たちをますますイライラさせるだけなのだ。どうしてこうもナイーブな人たちばかりなのだろうか。

最近おもちゃとしてデジカメを購入した

■最近おもちゃとしてデジカメを購入した。機種はCASIO QV-2900UX。カメラとしての性能よりも趣味性を優先した結果の選択だ。本当は一眼レフがいいのだが、たかが趣味の道具にそんなに投資できない。ところで、光量の不足している室内でストロボを使ってポートレートを撮影するとき、人物だけに露出が合って背景が妙に暗く写る事態を避けるにはどうすればいいのか。壁のすぐ前に立ってもらえればよいのだが、そうでない場合ストロボ撮影するとどうしても背景が暗くなり、いかにもストロボを焚きましたという写真になってしまう。かといってストロボなしで撮影すると、シャッタースピードがいちばん遅い状態でも(QV-2900の場合は1/8秒)肝心の人物が露出不足になる場合が多い(内蔵ストロボの光量が足りないだけのような気がするが)。悪くするとそれに加えて手ブレを起こす。カメラ雑誌を立ち読みしていたらあっさり答えが見つかった。スローシンクロだ。QV-2900の場合は夜景モードにするとシャッタースピードが遅いままストロボが強制発光するので、スローシンクロしたことになる。ただしこれでも人物に不自然な影が出てしまうことは避けられない。するとレフ板か、多灯発光か、ということになる。幸いQV-2900にはシンクロコードの端子がついているので、やはり株式会社モーリスの「ヒカル小町」シリーズなど、安~いスレーブストロボでも購入することになるか。しかしこっちは一人で撮影しているのにレフ板やスレーブストロボはいったい誰が持つのだろう。美しいポートレートを撮影するのはそれなりに悩ましい問題だ。

東京ビッグサイト「MacWorld」

■春分の日に東京ビッグサイトの『MacWorld』に出かけた。僕は社会人になって初めて購入したパソコンがLC520という隠れMacユーザだったのだが、iMacの登場に熱狂するようなデザイン馬鹿ではないので、現在は社内から1台でも多くMacを駆逐しようとしているアンチMac派と言える。
2,500円もする当日券を購入して2ホールぶちぬきの会場に入ると、他の展示会に比較してひとことで表現すれば「スカスカ」のレイアウトで、中央部分を巨大なApple社のブースが占めている他、めぼしい展示はマイクロソフト、シマンテック、アドビ、沖電気くらい。
確かに入場客は多く、並大抵の混雑ではなかったが、Mac業界がいかにマイナーになってしまったかを如実に示している。主だったメーカーのブースが沖電気しかないというのは、Macの本体・周辺機器を含めたハードウェア市場規模が、決して大企業とは言えないApple社だけでまかなえるほど小さいということだ。
同じ日、日経新聞の朝刊に新型iMacの広告が入っていたが、Windowsとの比較広告は止めたほうがいいのではないか。今さらWindowsのGUIはMacの真似だなんてことを主張しなくても、胸を張って世界中のクリエイターのためのPCを標榜すればいいのだ。ただ社内の事務処理にMacを使いつづけるのはやめて、MacはAdobe専用機と位置づけてほしい。企業内でハードウェアやソフトウェアなどの情報資産管理をするにあたって、さしあたりMacintoshは邪魔者でしかないから。

川上眉山『大さかづき』『ゆふだすき』

■川上眉山は器用貧乏な作家だったのだろうか。同じく筑摩書房の明治文学全集で『大さかづき』(明治28年)と『ゆふだすき』(明治39年)を読んだ。『大さかづき』は渡米して肉体労働によってひと財産築いた男が、結婚を約束した女も、唯一の係累である父親も、自らの命も失ってしまうという厭世主義100パーセントの短編。
こういうのをいかにも川上眉山らしい「観念小説」と呼ぶらしいが、晩年の『ゆふだすき』はうってかわって自分の妻との結婚の経緯を読者に向かってのろけるような作品で、両者は文体もまったく違う。さまざまな文学運動が乱立した明治時代に眉山は時代の流れに翻弄されつづけ、ついにどこにも安住できずに40歳で頚動脈を掻き切ったということか。
でも社会派小説にしても厭世主義にしても浪漫主義にしても、それなりにこなれているので、これらさまざまな顔をコラージュした作品を書いたならば、もっとも眉山らしい作品ができ上がるのかもしれない。現代日本文学全集の『書記官』『うらおもて』も読んでみたい(が、近くの市立図書館が整理期間中で4月になるまで開館しないんだなこれが)。