月別アーカイブ: 2002年2月

明らかに適性にない地位に就けられている人を見るの

■明らかに適性にない地位に就けられている人を見るのは、たとえその人が年上であっても忍びないものがある。本人にとっても荷が重過ぎて不幸だし、周囲の部下にとっても仕事がはかどらず不幸だし、会社にとっても不幸。幸せな人は一人もいない。それを勘違いして励まして何とか頑張らせようという同期の社員は、一見人のためを思っているようでいて、本人を追い詰めているだけだということに気付いていないのだろうか。本人がその地位を降りれば、本人は分相応な仕事に安心もし、満足もできるし、周囲の部下も代わりが見つかりさえすればハッピーだし、会社としても嬉しい限り。誰も損はしない。どうしてそういう人事を断行できないのか。年功序列という硬直的な人事制度は、すべての人を不幸にする場合があるということの好例だろう。

学生時代の友人の結婚式に出席した

■学生時代の友人の結婚式に出席したが、同じ研究室の仲間がまったく変わっていないことに驚いた。というのは正確ではなく、8年という時間の経過から自分が期待していたほどには皆変わっていなかったというだけのことなのだ。現実には皆変わっている。毎日のように研究室で顔を合わせていた頃と違って、お互いの知らないところでそれぞれの時間が確実に流れている。結婚式の短い時間で知り得る範囲は自分が相手に変わらなくあってほしいと期待している部分でしかなく、変わっている部分がそう容易には認識できないだけのことだ。だからといってお互いの変化を理解できないほど変化しているわけではない。「あいつは誰だ?」ということはない。22歳を過ぎてから原型をとどめないほど変化することなど普通の人間にはできないというだけのことかもしれない。。
■坪内逍遥『細君』(現代日本文学全集1『坪内逍遥・二葉亭四迷集』筑摩書房)、『清治湯講釈』、『京わらんべ』(明示文学全集16)を読む。『清治湯講釈』『京わらんべ』は立憲政治をテーマにした啓蒙的な寓話。『清治湯講釈』の「清治」とは「政治」のシャレで、ガマの油売りではないが、この「清治湯」という妙薬を飲めば憲法や国会とは何ぞやということがよく分かるよ、と薬売りが庶民にも理解できる平易な例え話で当時設立を控えていた議会制度について説明するという物語。『京わらんべ』は日本国の象徴としての男性主人公が、権利や自由の象徴としての女性と許婚でありながらついに破談になるというスラップスティックな物語。この2作品はいずれも政治に関する啓蒙書で、逍遥の写実主義小説とはまったく別系統の寓話的な作品群とされている。逍遥の教育者としての側面がよく現れている。『細君』は逍遥最後の小説。最後の小説と言っても31歳のときに発表されたもの。ある夫婦の破局を描く。依然として三章では作者の説明が冗長だが、一章は小間使の少女の視点から夫婦の冷えた関係を描き、二章は妻自身の視点から描くという、凝った構成になっている。『当世書生気質』や『妹と背かゞみ』と違い、問題なく僕らの抱く現代小説の概念にあてはまる佳作。

坪内逍遥『妹と背かゞみ』

■ひきつづき明治文学全集で坪内逍遥の『妹と背かゞみ』を読んだ。文庫本にして200ページ弱の作品だが、やはり小説というより人情本に近い。ちなみに題名は「妹」と「背かがみ」という意味ではない。「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出す意味。つまり夫婦の生活を描写するという意味の題名だ。
題名のとおりこの小説は「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都合で結婚させられた夫婦のいずれもが不幸な結婚生活を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再現しようとしている。その意気込みの証拠に第一から第十八まですべての回に「写しいだす~」という副題がついている。
第一回は「写しいだす三田台の仮寓居」、第二回は「写しいだす人の身の栄枯盛衰」、第三回は「写しいだす新年の骨牌(かるた)あそび」などなど。『当世書生気質』と異なるのは人物の心理がより丹念に描かれている点。描かれる人物の苦悩は漱石に出てくるような利己主義どうしの葛藤ではなく、私情と世間の対立、義理と人情の対立だ。
たとえば第十一回、親の意思で田沼という男と結婚させられようとしているお雪の心理を逍遥は「お雪の本心ハ果たしていかに。今一魔鏡を取いだして。お雪の肺肝を写しいださん。(お雪肚の裏に思ふやう)」と書き起こしている。「いつそ思ひきつてお母さまへ。妾の肚の中をお知らせ申して。此縁談を断らうか。イヤイヤ田沼さんを断れバとて。別に是ぞといふ目的もなし。生中田沼さんと破談になつたら。いつかの縁談がまた・・・・・・」と、この「・・・・・・」という句点法はたしか『当世書生気質』にはなかったもの。言葉に尽くせない内面を示しているのか。
ちなみに中村眞一郎はこの作品を次のように評価している。「現代の小説の通念からすれば、あまりにも説明なり、議論なりが多いということになり、小説としては純粋でないということになるかも知れない。しかし、私はこうしたロマンチックな作風(作者の介入という意味であって、伝奇趣味ということではない)も、小説の展開のために、大いに意味があると思う。叙述、分析、描写、説明を自在に用いて、物語を進めるこのやり方は、小説というものを、とらわれた写実主義から解放してくれるだろう。そして、方法意識の強い前衛的な作家ならば、たとえば女主人公の心の描写に、二十世紀小説の『意識の流れ』の方法の先蹤さえ発見するだろう」。
たしかに逍遥の話法はときに「そりゃやりすぎだろう」とつっこみを入れたくなるほどバラエティーに富んでいる。作者自身がしゃしゃり出てきたり、延々と独白が続いたり、新聞記事の引用があったり、余計な注釈が入ったり。雑然とした逍遥の小説世界が、逆に現代に小説の多様な可能性を想起させる役割を果たしているのではないか、という中村眞一郎の問題提起にはなるほどと思わせるものがある。