月別アーカイブ: 2001年10月

このホームページがしばしば受ける誤解にはいくつかのパターンがある

■このホームページがしばしば受ける誤解にはいくつかのパターンがある。まず一つは筆者がこのページで考えている問題について明確な解答をもっているというもの。明確な解答を持っているならそもそも考える必要はないではないか。もし筆者が明確な解答を持っているなら、いったい何のための「think or die」というタイトルなのか。筆者も明確な解答を持っているわけではないが、問いをあえて問いのままでこの場に提示することで、これを読む人自身の思考が始まることをこのページは何よりも期待しているわけで、筆者は読者対して解答を用意しようなどという思い上がりは寸毫も持ち合わせていない。もう一つは、第一のものから派生する誤解だが、筆者が個々の読者との対話を欲しているというもの。上述のように筆者はなんら明確な解答を持ち合わせる者ではないから、読者に返すべき「答え」を持たない。むしろ読者が自分自身との対話を始める契機となることを、このページは期待している。ここまで書けば、最後の誤解のパターンとして、このページに書かれていることを言質にとって、筆者の行動がその文章と齟齬をきたしている点を非難することが相当な検討違いというか、おバカな行為であることはおわかり頂けるだろう。もちろん筆者はさまざまな書物や日常の経験から、問いを問い続けることを止めるつもりはない。しかしそれは自分の行動を、そのときそのときの解答によって束縛することとはまったく違うし、そもそも読者一人ひとりとの対話に費やすべき時間などないのだ。読者がこのページをきっかけに自分で問いを始めることこそ、筆者がこのページを5年間も書き続けている理由である。ここまで書かないと分からない読者は、おそらくこのページに「答え」があるという大変な間違いを犯していたのではないだろうか。
■『レクサスとオリーブの木』がいかに下らない書物であるかを理解するために、代わりに読み始める書物としてリチャード・セネット著『それでも新資本主義についていくか~アメリカ型経営と個人の衝突』(ダイヤモンド社)はなかなか適切だったようだ。アングロ=サクソンにかぶれることに血道をあげる思考停止の若手サラリーマンは、英『The Economist』誌レベルの批判精神を獲得すべくもっと頭を使って「考える」べきである。ちなみにこの本は英『The Economist』誌の1998年ベスト・ブックに選ばれている、フレキシビリティーを旨とするグローバル化経済がミクロレベルで働く人々一人ひとりの職業倫理や自尊心をいかに破壊しているか、そしてそれが長期的な経済発展にとっていかに危険を孕んでいるかについて警鐘を鳴らす、経済社会学者の良心の書である。

文学は何か別のもののために存在するものではなく

■文学は何か別のもののために存在するものではなく、それ自体で存在価値のあるものだ。文学はそれ自体で存在価値があるものではなく、それ自体にいったい存在価値があるのかどうかを自分自身にたえず問いかける行為そのものだ。だからこそ文学は、この世に真実と呼びうるものがあるとすれば、その真実を問う「場」たりえている。哲学もまた同じ。というよりほんとうは同じ行為を、ある見方では文学、ある見方では哲学と言っているだけなのかもしれない。ところで情報システムは何かのために存在するのでなければ無意味だ。その「何か」とは文学や哲学が問い続けている「何か」である。情報システムがいかに技術としての洗練や複雑さを高めようと、いつまでたってもそれ自身で存在価値があるといえるものではない。情報システムにたずさわる人たちは情報システムの向こう側にあるものから目を離してはいけない。それが情報技術者としての最低限の「職業倫理」だと思う。そして忘れてならないのは、一企業で働く情報技術者が情報システムの向こう側に見ることができるものは、せいぜいその企業の利潤の最大化程度のごく下らない目的だということだ。
■こういうことをホームページに書くと、それをいちいち言質にとるおバカさんがいるが、僕がいったい何のためにこのホームページを作り、書き、そしてもう5年も経ているのか、もっとよく考えるべきだろう。

サラリーマンにとっての3万円

■たとえば3万円程度の散在では大して懐の痛まない生活をしていたとしても、いざ3万円使うとなると様々な選択肢の中から何が最適かを考えるだけで週末が過ぎてしまうということもある。電子機器を買おうとするとかなり下らないものしか買えないが、本なら「みすず書房」のハードカバーを5、6冊も買う超贅沢な使い方ができる(それを読む時間があるかどうかは別として)。
しかしそもそもその3万円は気分転換のために使おうと思っているのだから、読書が目的にそったものかと言えば、あやしい。実は沖縄に1泊で旅行してくるくらいがベストな選択だったりして。さてさてどうしたものか、と考えているうちに3万円を使う気力を喪失することを期待しているというのが本当のところだったりするのが、このデフレ下に生活する一介のサラリーマンの慎み深さなのか。

高橋源一郎『日本文学盛衰史』

■高橋源一郎『日本文学盛衰史』(講談社)を読んでいる。近所の図書館で一度借りようと思ったが荷物が重くてやめにしたら、翌週行っても見あたらない。結局借りることができたのはひと月後で、今ようやく150頁ほど。
タカハシさんの小説は知的諧謔で笑い声なしに大笑いできるのだが、どの作品を読んでもなぜか切ない、胸がキュンとなる。本書も部分的には実に下らなく、部分的には実に高度なメタフィクションだが、通底するトーンはブンガクに対する真剣さと孤独で静かな「闘い」だ。
ちなみに並行して読んでいるのはリチャード・セネット著『それでも新資本主義についていくか~アメリカ型経営と個人の衝突』(ダイヤモンド社)。

既存の業務を情報システムに載せることについて

■既存の業務を情報システムに載せることについて、それまで手作業だった工場の生産ラインが産業用ロボットによる自動化ラインになるかのような夢を抱いている人がまだいるということに驚きを禁じ得ない。今の情報システムあもはや大量の会計処理を高速で処理するというメインフレーム的な「自動化」のメリットだけで語りうるものではないというのは自明の理だからだ。メインフレームが企業の事務処理にもたらした「自動化」の恩恵という思考の枠組みから抜けられない人々は、業務プロセスをコンピュータでワークフロー化すればそれだけで何らかの効果がもたらされると信じているが、それは端的に間違いである。むしろシステム化の目的が自動化であった時代の後、ポスト自動化の時代に生きている僕らにとってコンピュータは人と人との心理的な距離や認識の乖離をなくすための広い意味でのコミュニケーションの道具である。ワークフローの目的は業務プロセスの自動化によってフローのスピードを速めることではなく、必要な情報を必要な人たちにゆきわたらせることで、社内のディスコミュニケーションを解消することなのである。ある業務を情報システムを使ってワークフロー化しようとするとき、まず考えるべきなのは社内の最適な情報流の設計、最適なコミュニケーションのあり方の設計、そしてそれを実現するのにもっとも好都合な制度や組織の整備であって、業務の流れの機微をいかに巧妙にプログラムのロジックで実現するかということでは決してない。ところが中途半端に情報システムのことが分かっている利用者部門の担当者は、きめ細かい業務の流れを巧妙に情報システムで実現する点に職人技的な喜びや感動さえを見いだしてしまう。ここにその組織のIT成熟度が端的に現れていると思う。
■フジTV系『笑う犬の冒険』の後番組『笑う犬の発見』には失望した。ひとことで言えば「脱・内村色」というのが同局の戦略だと思う。『冒険』はよく練られた脚本にもとづく名画パロディーあり世相風刺ありのシチュエーションコメディーに、堀健のナンセンスギャグ路線が適度にちりばめられて30代の視聴者も退屈しない濃密な1時間だった。ところが新番組の『発見』は完全にお子さま向けバラエティーになりさがっている。個々のコントも既存番組のパロディーに依存しすぎ、プロデューサの独創性のかけらもない。こんな風に視聴者をなめた番組づくりをするからフジTVは視聴率トップの座を日本テレビに明渡すことになるのだ。