悪気のない悪意ほど始末の悪いものはない

■悪気のない悪意ほど始末の悪いものはない。言っている本人はまったく悪意はないが、口から出ている言葉が他人を不愉快にさせている。そして言っている本人は他人を不愉快にさせていることにまったく気づいていない。だから本人にそのことを指摘すると「お前が悪いんだろう」という論旨で反論されてしまい、とりつく島がない。ある意味、そういう性格は僕にとってうらやましい性格でもある。自分の言葉が相手にどう響くだろう、なんてことをまったく考えずに生きられるならどんなに気楽だろうか。やれやれ。

古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きく…

■古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きくうなずいたのは僕だけではないはずだ。人の心には踏み込んではいけない部分がある。「水くさいこと言わずに腹を割って話そうや」というのは、孤独の尊さを知らない無神経な人間が言うことだ。サラリーマンにはそんな人が多いけれど。 ■半年ぶりにNOVAのVOICEレッスン(自由会話の授業)に行った。今日訪れた教室は初めてで、すべて初対面の教師だったせいか4時間英語を話しづめでさすがに疲れた。こちらが言いたいことを英語にするのは困らないが、「e」を「i」と発音するニュージーランド訛りの教師をはじめ、やはり聴きとりに神経をつかう。 続きを読む 古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きく…

先週からのこの日記について

■先週からのこの日記について、たて続けに読者の方々からご反響頂いた。賛成、反対、どちらでもないものなど様々で、さらなる思考を喚起させられた。それらのメールに通底する問題として、改めて日本的集団主義の質(たち)の悪さについて考えた。ある読者の方は次のように書かれていた。僕のように「日本人」のレッテルが嫌な人はそれに反抗して生きていけばいいし、「日本人」でいいと言う人はそれはそれで生きればいい、それぞれ自由だ、と。まさにおっしゃる通りなのだが、困るのは「日本人」の集団主義がまさにこの「それぞれの自由」を許さない点なのである。つまり「日本人」は個人主義と集団主義の並立を許しているわけではなく、集団主 続きを読む 先週からのこの日記について

他人の批判は個人攻撃のためにするのではない

■他人の批判は個人攻撃のためにするのではない。もしその人に問題意識や危機意識があるなら、すでに変わろうと努力しているはずだ。他人を批判することの目的は(1)問題点を明確にすること、(2)予想されるリスクを回避することの2点である。一般に自分の問題より他人の問題の方がよく見えるものだ。他人の行動に問題が見つかったら、それは自分の問題を発見するためのチャンスと考えるべきだ。自分の問題が発見できれば、それは将来のリスクを避けるための手がかりになる。最悪なのは他人の問題点に対して単に「不機嫌」という反応をしてしまうことだ。「なんとなく嫌な奴だ」というような漠然とした「不機嫌」からは、問題解決のための方 続きを読む 他人の批判は個人攻撃のためにするのではない

分かっていない人ほど助言されることを嫌うものだ

■分かっていない人ほど助言されることを嫌うものだ。これをSI業界にあてはめると、自社の問題点が分かっていない企業ほどコンサルタントを嫌うものだ、ということになる。分かっていないわけではない。ただその人や企業が分かっていないと思っていることとはまったく別のことを分かっていないということが分かっていないのだ。一般的にSEにありがちなのは「自分は技術的なことが分かっていないのだ」という思いこみだ。しかし実際には政治的な力学や自分の置かれている力関係が分かっていない。