月別アーカイブ: 2000年11月

悪気のない悪意ほど始末の悪いものはない

■悪気のない悪意ほど始末の悪いものはない。言っている本人はまったく悪意はないが、口から出ている言葉が他人を不愉快にさせている。そして言っている本人は他人を不愉快にさせていることにまったく気づいていない。だから本人にそのことを指摘すると「お前が悪いんだろう」という論旨で反論されてしまい、とりつく島がない。ある意味、そういう性格は僕にとってうらやましい性格でもある。自分の言葉が相手にどう響くだろう、なんてことをまったく考えずに生きられるならどんなに気楽だろうか。やれやれ。

古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きく…

■古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きくうなずいたのは僕だけではないはずだ。人の心には踏み込んではいけない部分がある。「水くさいこと言わずに腹を割って話そうや」というのは、孤独の尊さを知らない無神経な人間が言うことだ。サラリーマンにはそんな人が多いけれど。
■半年ぶりにNOVAのVOICEレッスン(自由会話の授業)に行った。今日訪れた教室は初めてで、すべて初対面の教師だったせいか4時間英語を話しづめでさすがに疲れた。こちらが言いたいことを英語にするのは困らないが、「e」を「i」と発音するニュージーランド訛りの教師をはじめ、やはり聴きとりに神経をつかう。ただ、繋駕(けいが)競走(harness race)の御者の資格を持っている女性教師から御者の養成コースの話を聞けたり、なかなか面白かった。最後の男性教師とはたまたま他の生徒が帰宅して一対一になってしまったので、「日米企業文化の違い」や「ベビーブーマーのリーダーは日本の政治を変えるか?」というテーマでかなりハードな議論をした。彼ら英会話教師は日本企業の典型的なサラリーマンと同等か、それ以下の学歴しか持たないのに、そういった重い話題についても40分間議論できるだけの知識と教養を持っている。この点にはNOVAのVOICEに参加するたびに驚かされる(もちろん教師にもよるが)。たとえば僕が今日その教師と議論した日米企業文化の差異について、同僚のサラリーマンをつかまえてまともな議論になるかと言えば、たぶんならないだろう。理詰めで議論することについて、あちらとこちらでは基礎体力がまったく違うのだ。
■成長企業が成熟企業へ脱皮するときに出会う最大の問題は、経済的な問題ではなく、組織文化の問題である。成長期には強力なリーダーシップの下、「全社員一丸」となる体制がとりやすい。ちょうど今までの日本がそうであったように、成長期には均質な集団と強力な指導者の組み合わせがもっとも効率的だ。やがて企業が成熟期を迎えると、経営者が単一の方向を示して求心力を維持するのが難しくなる。成熟期には均質な集団よりも、多様な個性・価値を認める組織の方が環境に適応しやすい。しかしこれまでカリスマ的な社長が社員をひとつの「家族」のように教育してきた企業の場合、その意識転換はかなり難しい。プロパーの社員の間にはどうしても「身内」意識が残ってしまうようだ。古い社員ほどはっきりとした言葉でコミュニケーションをとるのが苦手で、お互い私生活にふみこんだ付き合いをしないと本音を話せない社員が多い。そのため、いったん社内規程などを決めても「弾力的運用」で骨抜きにされてしまい、遵法意識の低い組織になってしまう。当然といえば当然で、家族どうしで水くさいことを言い合うのがおかしいのと同じように、「擬似家族的社風」に慣れてしまった社員は、「みんな仲良く」することを単純に正しいことだと勘違いして、社員どうし水くさいことを言いたがらないのだ。中元歳暮のような虚礼がまだ残っていたり、オフィス内の禁煙が徹底していないなど、細かいところに「擬似家族的社風」はあらわれる。ただ、中途採用や派遣社員など外部の人間が増えてきたとき、そうした「擬似家族的社風」は非常に危険だ。外部の人間はもといたカリスマ的経営者の洗礼を受けていないため、「擬似家族的社風」を単なる「放任主義」と受け取る。つまり「この会社は何でもありなんだ」と受け取ってしまう。その結果、新しい社員をふくめた組織全体の遵法意識が低下する。知的財産権など新しい時代の法律リスクに対してひじょうに脆い組織になってしまうのだ。対策は二つある。一つは現在の経営者が社内に対してきめこまかな助言や教育をおこない、「擬似家族的社風」を維持すること。そうでなければ、「擬似家族」を完全にあきらめて、信賞必罰の合理的な組織に転換させること。カリスマ的経営者から経営を引き継いだ社長がこのどちらも実行できないなら、その会社は財務的に破綻する前に、組織として破綻するだろう。
■NHK『サイエンス・アイ』の再放送を見た。煙草のニコチン、タール表示は規定による測定結果にすぎず、喫煙者の吸い方(煙を吸い込む間隔と一回あたりの煙の量)によって大きく変動するし、銘柄によってはニコチンの吸収効率を上げるためのアルカリ性物質が添加されている場合もある(JTは煙草の添加物に関するデータを公開していない)。国内で一年間に煙草による健康被害が原因の死亡者は交通事故による死者をはるかに超えるという。ひとつ提案があるのだが、(1)煙草にかかる税金を引き下げる、(2)個別銘柄のテレビCMを再開する、(3)煙草に起因する病気や習慣性喫煙の治療にいっさい健康保険を適用しない。これらの組み合わせで煙草による健康被害を暗に促進し、喫煙者の平均寿命をさらに短くすることで、日本の年金制度を破綻から救うというのはどうだろうか。それが喫煙者に対する正しい「受益者負担」のあり方だと思うが。

先週からのこの日記について

■先週からのこの日記について、たて続けに読者の方々からご反響頂いた。賛成、反対、どちらでもないものなど様々で、さらなる思考を喚起させられた。それらのメールに通底する問題として、改めて日本的集団主義の質(たち)の悪さについて考えた。ある読者の方は次のように書かれていた。僕のように「日本人」のレッテルが嫌な人はそれに反抗して生きていけばいいし、「日本人」でいいと言う人はそれはそれで生きればいい、それぞれ自由だ、と。まさにおっしゃる通りなのだが、困るのは「日本人」の集団主義がまさにこの「それぞれの自由」を許さない点なのである。つまり「日本人」は個人主義と集団主義の並立を許しているわけではなく、集団主義に合わせろ!と言っているのだ。これは個々の組織にも当てはまる。ある目的を達成するための手段は多様であっていいはずなのに、「日本的」なコンセンサス型組織は問題点を先鋭化する「非日本的」なやり方そのものを許さない。これは別の読者の方のメールだが、会社で仕事上の問題が起こったとき「原因究明をやりましょう」と進言したところ「犯人探しはやめようよ」と言われたという。つまり「日本的」な自由を主張する人々、「日本的であって何が悪いのだ!」という人々は、まさにそう主張することで「非日本的」な人々の自由(たとえば「原因究明をする自由」)を奪っているのだ。たしかに「日本的自由」を主張するのは自由だ。だがそれならば「非日本的」であることの自由も認めるべきだろう。自分の自由は主張しておいて、そうでない者の自由は認めないというのは、自由ではない。このように日本における自由は排他的自由、つまり集団の内部にいる限りは自由だが、部外者の自由は認めないという自由なのである。そして集団としての自由なので、誰も自由の結果の責任をとらない。それが日本的集団主義の始末の悪さなのだ。いま日本が行き詰まっているのはここに一つの原因がある。日本的集団主義は内部から変革しようとする人々を自然とはじき出すようにできてしまっているため、本質的に自浄作用を持ちえない。その意味で、例えば自民党の党運営には日本的組織のすべてが集約されている。改革分子を排除しつつ、集団で環境に適合していくのが日本的組織の姿なのだが、それでこれからもうまくいくという保証は全くない。。
■仕事の流れ(ワークフロー)が非常に複雑な企業は、自分の抱えていた問題に対して間違った答えを出した企業である。もともとの問題とは「決裁業務が特定の管理職に集中してしまい、まともに仕事ができなくなってしまった」というものだった。ならば決裁権限をもった人の数を増やすことで、管理職の負荷を分散しようということにした。その結果、業務内容別の決裁者が生まれ、ワークフローがいくつもできあがり、仕事の流れは複雑になる。おまけに新たに決裁権限を持たされた人の決裁負荷に余裕があるので、その人に回ってくる決裁が徐々に増えていく。そのうちその人にも余裕がなくなり、あらたに決裁者を設け...以降、悪循環で仕事の流れはますます複雑化する。どこで間違ったのか?言うまでもなく最初の答えである。特定の管理職に決裁業務が集中するなら、決裁者の数を増やすのではなく、決裁業務を減らすべきだったのだ。決裁業務を減らすには、決裁の必要な仕事を減らせばいい。決裁の必要な仕事を減らすには、個々の社員の責任範囲を明確にして権限委譲すればいい。そうやって初めて管理職は本当に管理職が考えるべきことに注力し、担当者は決裁待ちの時間を浪費することもなくなる。最初の答えを間違うと取り返しのつかないことになる。ではなぜ決裁業務を減らす方向に歩き出せなかったのか?理由は明白だ。決裁業務はその管理職にとって「既得権益」だったからである。それがなくなると管理職は仕事がなくなってしまうからなのだ。
■『日経コンピュータ』2000/11/6号(p.14~15)をお読みの方はご存じのように、国内であれだけSAP R/3導入の失敗事例があったにもかかわらず、16億円(内ライセンス料3億円)を投じて開発したSAP R/3システムを廃棄した企業がある。給湯器大手のノーリツだ。SAP R/3に1200本ものアドオン(外付けの追加開発ソフトウェア)を付加したために、R/3本体のバージョンアップ時に改修費用が膨大になると分かった。そこで経営陣がプロジェクト中止の英断をしたらしい。稼働開始時期を3度も延期した挙げ句のことだという。社長は現場の状況について何も知らされていなかったのだろう(ちなみにこの件は2000/10/6発表の同社「業績予想の下方修正」でふれられている)。アドオンが膨らんだ原因は生産現場が従来のやり方に固執したためとのこと。この件、問題は2つある。一つはプロジェクトの異常を早期に経営陣に報告する体制がなかったであろうこと。もう一つは現場が業務の変更を断固拒否したこと。前者のプロジェクトがまずくなり始めた瞬間に手を打てなかった理由は、同社の組織に問題を問題として認識する能力がなかったためだろう。なぜ問題化できないのかというと、異質なものは排除し、均質的な組織を維持しようとする力学が働いていたためだ。もう一つの原因である、現場が業務の変更を拒んだのも根は同じ。ノーリツという組織にとってSAP R/3は「他者」だった。そして同社の組織に「他者」を受け入れる素地はなかった。「他者」を受け入れる素地のないところに、問題を問題として感知する能力は育ちにくい。なぜなら問題化するということは、「何かが違う!」という、その「違い」に気づき、受け入れるということだからである。
■ソフトハウスのインプライズ社がまたボーランドに社名をもどすそうだ。結局「ボーランド」というブランドにすがるんだったら初めから社名変更なんかしなきゃいいのに。Turbo C++で四苦八苦しながらWin16アプリケーションを作っていたころがなつかしい。

他人の批判は個人攻撃のためにするのではない

■他人の批判は個人攻撃のためにするのではない。もしその人に問題意識や危機意識があるなら、すでに変わろうと努力しているはずだ。他人を批判することの目的は(1)問題点を明確にすること、(2)予想されるリスクを回避することの2点である。一般に自分の問題より他人の問題の方がよく見えるものだ。他人の行動に問題が見つかったら、それは自分の問題を発見するためのチャンスと考えるべきだ。自分の問題が発見できれば、それは将来のリスクを避けるための手がかりになる。最悪なのは他人の問題点に対して単に「不機嫌」という反応をしてしまうことだ。「なんとなく嫌な奴だ」というような漠然とした「不機嫌」からは、問題解決のための方途は何も見つからない。「嫌な奴だ」と思ったら、感情的にならず、それは何故なのかと問うべきなのだ。「不機嫌」という一時的な気分として流してしまったのでは、問題解決のためのせっかくのチャンスをみすみす逃すことになる。

分かっていない人ほど助言されることを嫌うものだ

■分かっていない人ほど助言されることを嫌うものだ。これをSI業界にあてはめると、自社の問題点が分かっていない企業ほどコンサルタントを嫌うものだ、ということになる。分かっていないわけではない。ただその人や企業が分かっていないと思っていることとはまったく別のことを分かっていないということが分かっていないのだ。一般的にSEにありがちなのは「自分は技術的なことが分かっていないのだ」という思いこみだ。しかし実際には政治的な力学や自分の置かれている力関係が分かっていない。