月別アーカイブ: 2000年10月

田中知事の名刺を折り曲げた例の長野県庁幹部

■田中知事の名刺を折り曲げた例の長野県庁幹部が、県民に謝罪、辞意を表明したが当の知事に慰留されたようだ。反省したら反省したでいきなり辞めると言い出すなんて、小学校の生徒会レベル。田中知事はこの幹部との会談の後、長野県を良くしていこうという志を同じくできる人だ、と知事らしく器の大きなところを見せた。この幹部、知事より年上のくせに手のひらで泳がされている。だが想像するにどの日本企業にも50歳前後にかかわらず子供っぽい頑固さが抜けきらない中間管理職というのはいる。組織が変革しようとするとき、もっとも保守的に抵抗する層だ。長野県は田中知事のような「大人」がリーダだからまだ救われているが、リーダまで頑固だと組織全体が救いようのない硬直状態に陥る危険性があることは言うまでもない。
■キッチンで3口コンロが使える環境になったので、昨夜、野菜スープを作ってみた。洋食のすべての煮込み料理の基礎である。肉がなかったのでベーコンをオリーブオイルとサラダ油でカリッとするまで炒め、玉ねぎ、ニンジンを加える。さらにキャベツを入れてしんなりするまで炒めたら水をたっぷり、コンソメ、ワインを入れて弱火で30分間煮込む。最後に塩・コショウで味をととのえて、シンプルながらも異様においしい野菜スープの出来上がり。2人分の分量を平らげてしまった。ああ、できたての野菜料理を味わう至福の時。今度はキャベツの代わりにジャガイモ、ベーコンの代わりに鶏肉を入れ、シチューでも作ろうかな。

経済学の期待形成に関する理論

■経済学の期待形成に関する理論(だっけ?)に「美人コンテスト」のたとえがあるのをご存じだと思う。美人コンテストは女性差別の含意があるが、ここではあえて原典に忠実にそのままのたとえにさせて頂く。たとえばあなたが美人コンテストの審査員だとしよう。「あなたが最も美人だと思う女性を選んで下さい」と言われればあなたは素直に自分が最も美人だと思う女性を選べる。この場合には最終的にどの女性が一位になるかは比較的予想しやすい。しかし、もしあなたが「このコンテストで一位になると思われる女性を選んで下さい」と言われたらどうするか。他の審査員の顔を見回して、この人たちだったらどの女性を選ぶだろうかと予想しなければならない。しかしその時点であなたはふと思い直す。「ちょっと待てよ、他の審査員も今の自分と同じことを考えているとしたら...」つまり他の審査員たちもあなたが選ぶだろう女性を選ぼうとしているかもしれない。だとすればあなたは素直にあなた自身が美人だと思う女性を選んだ方がいいのかもしれない。しかしもし他の審査員が同じように深読みをしているとすれば、やはりあなたは他の審査員の顔を見回して、この人たちだったらどの女性を選ぶだろう...と、あなたの深読みは限りなく続く。これが株価形成の基本的な理論だ。株を買う人は自分が好きな株を買うわけではない。他の人が買うだろう株(=値が上がるだろう株)を買う。上のたとえで言えば「他の審査員が選ぶだろう女性を選ぶ」ことになる。ところでこの経済学の理論はそのまま人間どうしのコミュニケーションにも応用できる。大人のコミュニケーションは自分の思ったことを素直に言えばいいわけではない。ある程度は相手の期待を反映したことを言わなければという配慮が自然に働く。しかしその配慮が強く意識されたときに問題が複雑になる。美人コンテストのたとえで言う、際限ない深読みが始まってしまうのだ。自分としてはこういう結果になるのが望ましいという想定がある。その想定を現実のものにするためには、その想定にしたいという自分の思いを素直に言った方がいいのだろうか、と考える。そのとき、自分も「素直に言う」ことに疑問を感じているなら、相手も同じように「素直に言う」ことに疑問を感じているはずだと考える。そうすると自分は「素直に言わない」方が得策だということになる。素直に言わない方が、相手はそれを素直に取らないだろうから、結果として自分の素直な気持ちが相手に伝わることになるからだ。しかし、もし相手も同じことを考えているなら、相手は自分に対して「素直に言わないでくれ」ということを素直に言わないはずだ。このとき、もし相手が自分に「素直に言って良いんだよ」と言ってくれているなら、相手は実は「素直に言えばいいってもんじゃないんだよ」と言っていることになる。この時点で相手が本当に「素直さ」を求めているのか、「素直に言わない」という形での素直さを求めているのか分からなくなる。それが分からない限り、自分は「素直に言う」べきなのか、あえて「素直に言わない」べきなのか決定不可能になる。つまり、期待形成にまつわる以上のような議論からわかるのは、お互いがお互いの望んでいることを読みとろうとしている状況にあるとき、事前にその結果を予想することはきわめて難しいということである。人のコミュニケーションというものはそれくらい危うい均衡の上に成り立っている。このことを哲学の分野で理論づけたのはご存じのようにヴィドゲンシュタインなのだが、今日のところはそこまで突っ込む余裕もないのでまた後日、ということで。

長野県庁幹部の品性を疑う

■長野県庁幹部の品性を疑う。初登庁の田中康夫知事へのあの対応はいったいなんだろうか。きわめて見苦しい。大人げない。田中知事自身の評価はこれからの業績にかかっているので、現時点でどうこう言う問題ではないが、県庁幹部らの態度は単なる嫌がらせ、小学生のいじめ以下だ。県民に対する冒涜と言われても仕方ない。一般市民を心の底ではバカにしながら仕事をしているお役人たちの本音が垣間見えた「事件」だ。お役人たちは他人に「選ばれる」とか、他人に「評価される」経験がないから、長年の勤務の惰性の中で自分たちが県民の税金で生活していることを忘れ、ああいう県民の意思を冒涜するような態度を平気でとってしまうのだろう。
■知事vs職員の対立は長野県だけでなく東京都知事の就任初期にも見られたが、これらの事例はお役所という特殊事情を割引く必要がある。ただ一般の企業にも、教育現場にも、そしておそらくは日本のいたるところ「閉鎖的な集団」は存在する。僕自身「パッケージソフト」などという言葉を口にした途端にバカにされるという経験したことがある。組織人なので自分の意見にあえて反するようなウソもつくが、それは将来的に自分の意思を貫くための方便である。こちらはそこまで考えて立ち回っているのだが、額面どおり受け取る正直な人に対しては罪悪感を抱いてしまうだろう。ともあれ開放的な組織と閉鎖的な組織には歴然とした差異が観察できる。そのことに自分で気づけなくなったら、そこで組織の成長は止まる。
■このホームページが読者に与える効果にはいくつかの特徴がある。その一つに次のようなものがある。僕としてはその人に向けて書いたつもりは全くないのに、読者の方が勝手に自分に向けて書かれていると思いこむというものだ。例えばAという出来事をヒントにして批判を書いているのに、僕と面識のある読者が自分のことを批判されているのだと勘違いする、などのパターンだ。たぶんこう書いていること自体を「私のことだ!」と勘違する読者がいるに違いない。そういう読者の方に申し上げたいのは、「まぁそう自意識過剰にならないで。僕は個人攻撃のような不毛なことに頭を使うほどヒマではない」ということだ。たとえ僕の批判が特定の個人との軋轢をヒントにしていたとしても、エッセーを書くにあたって僕自身にふりかかる個々の事件が解決されるかどうかはどうでもいい。それらの事件から他の人にも当てはまるような普遍的な論点をいかに抽象化するか、それこそが重要なことなのだ。個人的な生活に終始拘泥するならわざわざホームページで公開する価値があろうか(多くの「日記」サイトはそのレベルにとどまっているが)。個人の特殊性をカッコにくくって、個々の事件の本質をいかに記述できるか。それがこのページの目指すところであって、僕が出会う個々の事件について愚痴を言うことが目的なのではない。それを理解できない人はこのページを読まない方がいいということになろう。